さわやか易

人生も歴史もドラマとして描いております。易の法則とともに考えると現代がかかえる難問題の解決法が見えてきます。(猶興)

(15)ローマ帝国の内乱と統一(2)

2020-02-24 | ユダヤ人の旅

アウグストゥス(BC63~AD14)

カエサルは終身独裁官兼最高司令官に就き、貧民救済、属州政治の改革に当たっていたが、元老院はカエサルの独裁政権を危惧していた。元老院は用意周到の暗殺計画のもと、BC44年決行した。「ブルートゥス、お前もか」で有名になった実行犯の一人ブルートゥスはカエサルが可愛がっていた愛人セルウィリアの息子だったのでカエサルの子であるとも言われる。カエサルの後継者を巡って再び混乱が始まる中、重臣であったアントニウスとレビドゥスが名乗り出た。しかし、カエサルが指名した後継者は姪の子である18歳のオクタウィアヌス(後のアウグストゥス)だった。

当時のローマを仕切っていた元老院がカエサルを排除したのでオクタウィアヌスの立場は微妙であり、難しい舵取りが必要だった。オクタウィアヌスはカエサルの元軍人に借金をしてまで給料を払うなどして信頼を勝ち取った。アントニウス、レビドゥスとともに三頭政治を再開すると元老院はカエサルを神格化し、神君ユリウスと称するようになる。オクタウィアヌスたちはカエサル暗殺犯、元老院派の逮捕、処分に取り掛かった。ギリシャに逃れていたブルートゥスらを「フィリップの戦い」で破る。戦後処理としてアントニウスはエジプトを含む東方を、レビドゥスはアフリカを、オクタウィアヌスはイタリアから西方と決める。しかしアントニウスとオクタウィアヌスはしばしば対立したので、同盟の証として妻を亡くしたアントニウスが夫を亡くしたオクタウィアヌスの姉オクタウィアと再婚することにした。二人には二人の女子が生まれる。 

 

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アントニウス(BC83~BC30)

しかし、その後エジプトに赴任したアントニウスはクレオパトラに魅了される。関係は深まり、双子を含む2男1女が出来る。次第にアントニウスはローマとオクタウィアをとるか、エジプトとクレオパトラをとるかの二者択一に迫られる。同盟を結ぶときアントニウスは軍艦120隻を、オクタウィアヌスは兵2万を互いに差し出すと約束した。アントニウスは実行したがオクタウィアヌスはポンペイウスの息子セクストゥスが反乱を起こしたため兵2千しか送れなかった。そのせいでアントニウスの念願だったパルティア遠征に失敗、アントニウスは妻オクタウィアへ離縁状を送る。レビドゥスがシチリアをめぐる争いで失脚すると、西のオクタウィアヌス対東のアントニウスの対立は深まった。起死回生にアントニウスはアルメニア王国を手に入れ、凱旋式をローマではなくアレクサンドリアで盛大に行う。クレオパトラを女王、カエサルの子カエサリオンこそ正式のローマの後継者であると宣言した。

オクタウィアヌスはアントニウスの行動をクレオパトラに魂を奪われ、ローマを裏切る行為と非難、エジプトのプトレマイオス朝に対して宣戦布告する。BC31年9月、ギリシャ沖の「アクティウムの戦い」にて両雄は雌雄を決すことになる。アントニウスとクレオパトラ軍は大型軍艦230隻を有し、軍事的にも海戦実績でも圧倒的に有利だった。元々武将ではないオクタウィアヌスに替わり将軍アグリッパは400隻の機動力のある小型軍艦で立ち向かった。海戦はアグリッパ軍が苦戦していたが、徐々に挽回する。すると突然クレオパトラ軍が逃げ、続いてアントニウスも後を追い総崩れになった。アレクサンドリアに引き上げた二人に付き従う軍はなく、アントニウスが自害すると、10日後にクレオパトラも自害した。

 

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アクティウムの海戦

アクティウムの海戦で勝利し、100年近い内戦を終結させたのはオクタウィアヌスが32歳の時だった。元老院はオクタウィアヌスをプリンケプス(元首、皇帝)とする。36歳の時、オクタウィアヌスは執政官職以外の全特権を全て返上し、共和制の復帰を宣言する。元老院は大いに喜び、オクタウィアヌスに尊厳者を意味する「アウグストゥス」の称号を贈った。それより、自らをインペラトル・カエサル・アウグストゥスと名乗る。アウグストゥスは生来頑健ではなかったが76歳で没するまで内政に尽力した。特に性の乱れは国の乱れであると、「ユリウス姦通罪」、「婚外交渉罪」、「ユリウス正式婚姻法」などを制定、国家100年の計を立てた。64歳の時、元老院よりさらに「国家の父」の称号が贈られた。現在のカレンダーの8月(August)はアウグストゥスに因んでいる。

クレオパトラは生前にアントニウスと同じ墓に入れるよう遺言していたので、オクタウィアヌスはその通りにした。気になるクレオパトラの遺児たちだが、17歳になったカエサルの子カエサリオン(プトレマイオス15世)は殺されプトレマイオス朝は亡んだ。アントニウスの子は男子二人(アレクサンデル・ヘリオス、プトレマイオス・フィラデルフォス)はクレオパトラの死後数年後に病死した。女子クレオパトラ・セレネはローマでオクタウィアに養育され、従属国マウレタニア(北アフリカ)の国王ユバ2世と結婚した。アントニウスとオクタウィアの二人の女子はオクタウィアに育てられ、その孫たちは皇帝の一族になっている。

~~さわやか易の見方~~

「地水師」の卦。師とは集団、軍隊のことである。2千5百人の軍隊を師団という。軍隊には将(リーダー)が必要であり、将の良し悪しはそのまま運命を決する。指導者の道はあくまでも正義によらねばならない。民は正しい目的のためにこそ苦しみに耐えてついてくる。

100年の内乱の末、ローマは統一された。正に「ローマは一日にして成らず」である。一人の皇帝を中心にローマ帝国が出来上がるまでに、どれ程の人たちが犠牲になり、むなしく散っていったことだろうか。ローマ人はカルタゴを脅威と感じて抹殺した。そしてユダヤ人たちの国もやがて消滅させられる。一時的には属州としてユダヤ人の自治を許していたが、消滅させる理由は何なのだろうか。ユダヤ人たちがローマの支配をどうしてもがまん出来なかった理由は何なのだろうか。そして、ユダヤ人の宗教を弾圧し、迫害したにもかかわらず、ローマの国教とまでにしたのは何故だろうか。その後の2000年の歴史はこのローマに全てのルーツがあるような気がする。

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(14)ローマ帝国の内乱と統一(1)

2020-02-16 | ユダヤ人の旅

スパルタカス(生年不詳~BC71年)

BC146年、ローマは最大の難敵カルタゴを滅ぼすと、その勢いでカルタゴと手を組んでいたアンティゴノス朝マケドニアを属州化し、地中海沿岸を手中に収めた。しかし、国内では貧富の格差が拡大し混乱していた。共和制による元老院も手の施しようがなかった。各地戦場からの捕虜や、税金を払えない属州民が奴隷となりローマは奴隷であふれ、奴隷を使役した大規模農場は農夫の職を奪い、地中海には海賊が横行した。一方でローマ人の娯楽のため闘技場が建てられ、剣闘士の奴隷が仲間や猛獣と殺し合いをさせらていた。BC73年、そんなローマの混乱を象徴する事件が起こる。

「ローマ人の見世物になるより、ローマ人と戦おう」トラキア出身の剣闘士スパルタカスが脱走を呼びかけると200人の剣闘士が従った。油断していたローマ軍を襲い武器を手に入れ、町々を占領すると各地から多くの奴隷たちが収穫物をもって集まり、たちまち奴隷軍は2万の兵力になる。奴隷たちの中には知識人も技術者もいた。縛られた鉄の鎖は武器工場で武器に生まれ変わる。こうして最大12万人に膨らんだが、食料や物資は追いつかない。アルプス越えにも失敗し、目指したトラキアもローマ軍に落ち、シチリア島にも渡れなかった。持久戦に持ち込むクラッスス率いるローマ軍に、スペイン遠征軍ポンペイウスが加わり、最後の抵抗も及ばずスパルタカスは戦死した。蜂起から1年半、生き残った6千人の奴隷兵は全員磔の刑となる。

 

ユリウス・カエサル(BC100年~BC44)

奴隷軍を鎮圧したクラッススとポンペイウスは犬猿の仲であったが、ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)を加えた3人による「三頭政治」が成立した。カエサルは娘ユリアをポンペイウスに嫁がせ手を結んだ上、武功と莫大な資産を求めてガリア遠征を敢行した。現在のフランス、オランダ、ベルギー、西ドイツのガリア人はローマの支配と圧政に激しく抵抗した。戦いは7年にも及んだが征服する。ガリアの英雄ウェルキンゲトリクスは万策尽きて投降し、処刑された。その後、カエサルはドイツ、イギリスにも遠征した。

カエサルの遠征中、三頭政治の一頭クラッススはポンペイウスが果たせなかったパルティア遠征を強行したが失敗し戦死する。また、ポンペイウスと結婚した娘ユリアが産褥で亡くなる。三頭政治は崩壊、カエサルとポンペイウスの対立が始まる。ポンペイウスは元老院と手を結び、カエサルの軍事権を剥奪、ガリアからの帰還命令を出した。事実上の解任処分である。この命令を受けたカエサルはイタリアとの境界ルビコン川を前に精鋭に宣言、「神々の待つところ、我々を侮辱した敵の待つところへ進もう!賽は投げられた。」と檄を飛ばした。反旗を翻したカエサル軍に対してポンペイウスはローマを離れギリシャで戦うことにした。留守になったローマはカエサルのものになった。

 

絨毯の中から現れたクレオパトラ

カエサルはポンペイウス派の元老院の支配下にある都市を平定し、後顧の憂いをなくしポンペイウスと雌雄を決するためギリシャに進軍した。兵力ではカエサル軍はポンペイウス軍に及ばず、始めは敗退を喫したが、ローマ内戦の最大の戦いと言われるファルサルスの戦いでは戦術で上回り勝利した。ポンペイウスは自分に協力的なエジプトを目指したが、エジプトではポンペイウスが来たら殺害することに決定していた。ガレー船でアレクサンドリアに着いたポンペイウスは刺客により殺害された。エジプトはクレオパトラ7世と弟のプトレマイオス13世が共同統治していたが、二人は対立していた。カエサルがポンペイウスの後を追ってアレクサンドリアに着いたのは数日後だったが、プトレマイオス13世の従者がポンペイウスの首を差し出すと激しく怒り従者を殺害する。

宮殿を占拠したカエサルを相手にローマと手を組みエジプトの存続を図りたいクレオパトラは一計を案じる。自らを絨毯に包んでカエサルの前に運ばせる。絨毯から現れた21歳の美女に52歳のカエサルは息を吞んだまま動けなかった。クレオパトラの計略は成功し、カエサルを魅了した。これを知ったプトレマイオス13世は怒り心頭に発し、王冠を地面に叩きつけたという。王は軍隊を出したが、エジプトに到着したローマ軍との「ナイル川の戦い」に敗れ戦死した。カエサルの愛人になったクレオパトラは女王に、敵対していた妹アルシノエ4世は捕えられローマに送られる。クレオパトラにはカエサルの子カエサリオン(エジプト最後の王)が生まれた。

 

~~さわやか易の見方~~

「雷沢帰妹」の卦。帰妹(きまい)は若い女が活動的な男に嫁ぐことだが、あまり良い結婚ではない。易では女は受け身であることが良いとされ、女の方から積極的に働きかけるのは良い結果が得られないとする。結婚は一時のものではなく、永続することが大切である。結婚に限らず、道に背いてもその場だけしのげば良いと考えるのは間違いである。

クレオパトラの安泰は束の間だった。詳細は次回に譲るが、頼みのカエサルはクレオパトラ25歳の時暗殺される。その後、27歳で今度はアントニーの愛人になり、3人の子を儲ける。しかし、39歳の時アントニーとともに自害に追い込まれた。世界の美女と後世に呼ばれたクレオパトラだが、幸福な生涯とは言えないだろう。それでも時代の荒波を綱渡りのように渡り、その時代の二人の英傑の心を奪った。二人の英傑が虜になったのは美人だったからだけではない。6か国語を巧みに話すことが出来た才媛でもあり、教養も抜群だったという。ギリシャ出身である歴代プトレマイオス朝のエジプト王、女王の中でエジプト語を話せたのはクレオパトラだけだったという。でも何と言ってもクレオパトラには他の誰もまねの出来ない胸騒ぎの腰つきがあったからだろう。いつの時代も男たちは胸騒ぎの腰つきには弱いものなのだ。

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(13)カルタゴとローマ

2020-02-09 | ユダヤ人の旅

ディドの死

ユダヤ人たちはイスラエル王国がBC10世紀に二つに分裂し、その後アッシリア、新バビロニア、ペルシャ帝国そしてセレウコス朝シリアと時代の荒波を受け、離散したりしながら生き抜いていた。その間に二つの強国が地中海の北と南に生まれていた。カルタゴとローマである。BC9世紀の後半、東地中海にあるティルス(現レバノン)の王女ディドは共同統治者の兄に夫を殺された上、自分も命を狙われた。財宝を船に積み込んで脱出、地中海をさまよった末、南地中海の町チュニスにたどり着いた。ディドは新しい町という意味で「カルタゴ」の町を建設する。

ディドは二人の最高官、貴族、市民に一定の権利を与える基本法を作り統治した。この法律は後にアリストテレスが絶賛するほど優れたもので以後7世紀に渡りカルタゴの繁栄を支えたと言われる。そのカルタゴにある日嵐にあって地中海をさまよった外国船が漂着した。ギリシャに滅ぼされ、祖国を脱出し、イタリア半島を目指して船出したトロイの王子アイネアスの船だった。ディドと美青年アイネアスは恋に落ち、結ばれた。しかし、イタリアで建国する使命をもつアイネアスはディドと別れる決心をする。アイネアスを失っては生きていけない程愛したディドは必死にとどめようとしたが、ついに別れの時はきた。一行の乗る船が港を離れるのを見たディドはアイネアスからもらった短剣で胸を刺した。アイネアスの子孫がやがてローマを建国したとする伝説がある。

 

 地中海

やがて、優れた航海術を誇るカルタゴは地中海貿易を独占するほどの経済大国になった。地中海にあるマルタ島、シチリア島、サルディーニャ島、コルシカ島にも進出した。ところが、これらの島にはもともとギリシャ植民都市があった。カルタゴは次々と支配下にしていったが、とくにシチリア島(四国の1.4倍ある)ではギリシャの勢力が強く、西はカルタゴ、東はギリシャと対立した。BC480年~BC280年には3度に渡るシチリア戦争が起こっている。ヘレニズム3国が成立するBC300年頃には、カルタゴの全盛期でシチリア島もメッシーナを除いてはほぼカルタゴの勢力圏になっている。

一方でイタリア半島を中心にローマの勢力が増していた。ローマはBC5世紀に国王に代わって共和制を始め、執政官、元老院の制度が確立し市民の権利が高かった。BC390年、ケルト族による来襲があり一時ピンチを迎えたが、その後はギリシャの植民都市を次々と併合、BC270年には全イタリアを統一した。BC265年、シチリア島でカルタゴがシラクサと同盟しメッシーナを侵攻すると、メッシーナはローマに救援を求める。ここからローマとカルタゴ、地中海を巡るライバル同士の対決、120年に渡る「ポエニ戦争」が始まる。ポエニとはカルタゴの出身地ティルス方面に住む民族フェニキア人に対するローマ人の呼称である。

 

 

左ハンニバル(BC247~183)と右スキピオ(BC236~183)

ローマはメッシーナからの救援要請に答え2万の軍隊を派遣、シラクサ軍を破りカルタゴのシチリア島の都市を次々攻略した。カルタゴ軍は傭兵が中心でローマに比べて士気が低かった。ローマ軍の勢いは止まらず、カルタゴ本国にも迫る。危機に瀕したカルタゴ軍はスパルタの武将を指揮官に据え軍隊を立て直し巻き返しを図る。北アフリカ戦線ではカルタゴ軍がローマ軍を破り、戦闘はシチリア島に戻され、雌雄を決する激戦が繰り返された。開戦から23年、ローマはシチリアからカルタゴ軍を追い出し、属領とする。第一次ポエニ戦争はローマの士気がカルタゴを制圧した。サルディーニャ島やコルシカ島もカルタゴから離反した。

カルタゴ軍は黙っていなかった。BC218年、名将ハンニバルがスペインから37頭の象、6万の兵を率いて、アルプスを超えイタリア半島北から攻めてきた。ガリアの兵を自軍に加え、向かうところ敵なしの勢いでローマ軍を次々と破った。ローマ軍は壊滅の危機に瀕しつつも持久戦で持ちこたえる。BC203年、今度はローマの名将スキピオがカルタゴ本国を奇襲、あわてたカルタゴはハンニバルを呼び戻した。カルタゴ近郊のザマで二人は対決しローマ軍が勝利した。カルタゴは全ての植民地を失った上、莫大な賠償金を課せられる。ところが、50年かかる筈の賠償金を10年で完済したカルタゴに脅威を抱いたローマはBC146年、カルタゴを壊滅する。市民全員を虐殺し、都市が2度と復興しないように塩をまいたという。

~~さわやか易の見方~~

「風沢中孚」の卦。中孚(ちゅうふ)は誠心誠意のこと。誰にも理解されなくとも至誠は天に通ずる。至誠あればこそ大河を渡る危険を犯そうとも天が味方するもの。孚という字は親鳥が卵を暖めて孵化を待つ象である。結果を思わず、精一杯努力していけば良いのである。

ローマは宿敵カルタゴを制した後、地中海そしてシリア、エジプトをも支配下に収めた。ポエニ戦争は正にローマの試金石だった。第二次ポエニ戦争はハンニバル戦争とも言われる。父ハミルカルは9歳の息子ハンニバルを神殿に連れていき、生涯ローマに復讐することを誓わせたという。若きスキピオは戦場でハンニバルの戦術を学んでいた。二人の名将は互いに国の運命を担って生涯を生きた。雌雄を決したザマの戦いの後、ハンニバルはカルタゴの再興にかけたが市民の協力が得られずシリアに亡命する。シリア軍を率いてローマ軍と戦うが再度スキピオに敗れた。ローマの追及は厳しく、黒海沿岸ビティニアで毒をあおって果てた。救国の士スキピオもその年に世を去った。反対派の陰謀で失脚し「恩知らずの我が祖国よ、お前は我が骨を持つことはないだろう」と自らの墓石に刻ませたという。

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