さわやか易

人生も歴史もドラマとして描いております。易の法則とともに考えると現代がかかえる難問題の解決法が見えてきます。(猶興)

フェルメールとオランダの衰退

2015-02-18 | 名画に学ぶ世界史
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「真珠の耳飾りの少女」1665年作

レンブラントとともに17世紀のオランダ・バロック美術の巨匠と言われるのがフェルメール(1632~1675)である。年齢差は26才、一世代後といったところだが、繁栄を謳歌していた時代から衰退に向かった時代に生きたのがフェルメールである。

スペインを出し抜いて一躍経済発展を遂げたオランダであるが、協力関係にあったイギリスが次第にその地位を脅かし始める。オランダ経由の貿易より直接取引の貿易を望んだイギリスは1652年第1次、1665年第2次、1672年第3次の英蘭戦争を起こした。東インド会社も西インド会社もイギリス優位のものとなり、北米のニュー・アムステルダムはニューヨークと改称された。経済大国はオランダからイギリスにその地位を譲ることになる。

フェルメールはオランダの古都・デルフトで酒屋と宿屋を営む親のもとに生まれている。(デルフトは東インド会社を通して日本から輸入された伊万里焼の影響でデルフト焼として知られる陶器が発達した都市でもある。) フェルメールが画家となるために誰の弟子になり、どんな修行を積んだかはよく解っていない。 21歳でカトリックの女性カタリーナと結婚しているが、彼がプロテスタントのため裕福な義母には反対された。結婚の翌年、デフルトで起った大規模な弾薬庫の爆発事故にでもあったのだろうか、子供が生まれ一家を養うには大変だったのか、しばらくして妻の母マリアと暮らし始めている。


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「聖ルカ組合の理事たち」1675年作
 
父の死後は家業を継いで居酒屋、宿屋を営みながら年間2、3作の画を描いていった。幸い裕福な義母のお蔭で滅多に手に入らない高価な原料も使うことができ、ビーテル・デ・ホーホという良き友人でありライバルにも恵まれた。地味ではあるが洗練された画風は画家の組合である聖ルカ組合でも高い評価を受けるようになる。何度も組合の理事に推薦されており、人柄としても愛されていた。

「窓辺で手紙を読む女」

25歳のとき生涯最大にして唯一人のパトロンともなるデルフトの醸造業者で投資家のファン・ライフェンに認められ生活の支援を受ける。フェルメールの作品は生涯に40作と言われるほど寡作だったが、その内の20点もファン・ライフェンが購入している。フェルメールが描く画は「~~する女」というようなありふれた日常のひとこまが多い。教会の宗教画や上流階級の肖像画だけではなく、絵画がオランダの市民の間に文化として広まっていたことを伺わせる。


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「牛乳を注ぐ女」1658年作
 
フェルメール夫妻には15人の子供が授かり、11人が元気に育っている。さぞやにぎやかな家庭風景だったことだろう。ところが40歳を迎えた頃、イギリスとの間に第3次英蘭戦争が始まる。一気に不景気風が吹き渡り作品は一点も売れなくなった。義母も裕福ではなくなり、頼りのパトロンであるファン・ライフェンも亡くなった。画家たちは次々廃業を余儀なくされ、その数は4分の1にもなる。フェルメールは莫大な負債を抱え、必死に駆け回ったが、とうとう首が回らなくなり43歳で死亡した。その後、破産宣告を受けた妻と義母は子供たちの為、全ての資産を投げ出して立ち直るべく懸命に努力したが疲れ果て相次いで死亡した。

~~さわやか易の見方~~

******** 上卦は山
***  *** 動かない、君臨する
***  ***
***  *** 下卦は地
***  *** 陰、影、柔
***  ***

「山地剥」の卦。剥は剥製の剥。剥ぎ落ちる。高くそびえる山もいつの間にか浸食が進み山崩れが起きようとしている象である。天下に君臨する存在もしのびよる危機により、いつの間にかその地位を奪われてしまうようなものである。いつまでも盛運は続かないということだ。フェルメールの家族にとっては気の毒ではあるが、オランダという国家が衰退に向かってしまった。犠牲になるのはいつも庶民である。

一時は世界の頂点に立ったオランダであるが、頂点を目指す国は次々とその地位を狙っていた。これからイギリスそしてフランスがしのぎを削る時代となっていく。元々オランダは領土も広くなく、人口も少ない。軍隊もそれほど強力ではない。一時でも世界の頂点に立ったことだけでも天晴なことである。日露戦争に勝って世界に躍り出た日本とどこか共通してはいないだろうか。お互いにナンバー1よりオンリー1を目指せば良いのではないか。

フェルメールは死後、作品が寡作だったこと、個人の所有であったことからほとんど忘れられた画家になっていた。脚光を浴びたのは19世紀のフランスにおいてであった。民衆の日常生活をモチーフにしたクールベやミレーが登場するとフェルメールの評価は高まる。また、フェルメールの作品は贋作事件でも有名である。中でもナチス・ドイツを相手に莫大な金額が動いたメーヘレンによる贋作事件は大スキャンダルとなった。被告人のメーヘレンが法廷内で衆人環視の中で贋作を描いて見せたという美術史上、稀なる事件も起きている。
 

レンブラントとオランダの繁栄

2015-02-01 | 名画に学ぶ世界史
 
 
レンブラント(63歳自画像)1606~1669
 
19世紀フランスの画家ドラクロワは「レンブラントはラファエロよりも有名になるだろう。」と言ったという。17世紀のオランダで活躍したレンブラントとはどんな芸術家だったのだろうか。又当時のオランダはどんな世界だったのだろうか。

16世紀はスペインの躍進が際立っていたが、17世紀になるとそのスペイン支配から独立を果たし、繁栄したのがオランダだった。独立原因の第一はカトリック絶対のスペインに対し、オランダはカルヴァン派(プロテスタント)が勢力の中心だったからだ。独立を後押ししたのはイギリスでイギリスの毛織物はオランダを重要な販路としていた。1588年のアルマダの海戦でスペインの無敵艦隊がイギリスに敗れると、次第に繁栄の中心はオランダに移っていった。

アムステルダムを中心に商業が発達し、世界最初の株式会社・東インド会社を先頭に貿易の相手はアジア各国に及ぶ。1600年には日本にも貿易を求めてやってきた。アメリカへの進出は西インド会社が活躍し、ハドソン川河口にニューアムステルダム(後のニューヨーク)という港を築いた。大航海時代に先鞭をつけたポルトガル、スペインをしのぐ、経済大国になろうとしていた。
 

ライデン
 
レンブラントはオランダの静かな都市ライデンにて、製粉業を営む中流家庭に生まれた。4人の兄たちは家業に就いたが、レンブラントはライデン大学の法科に進む。しかし法律には興味を持てず、イタリア留学経験をもつ画家スヴァーネンブルグの弟子となる。その後父親の勧めで当時オランダ最高の画家ピーテル・ラストマンに師事するためアムステルダムに向かった。その工房で同じくライデン出身で1歳年下の神童・ヤン・リーフェンと知り合いライバルとして腕を磨いた。それまで画家はイタリアで修行を積むのが常識だったが、二人ともイタリアにはいかず一時ライデンにて一緒に工房をもった。その後、レンブラントはアムステルダムで、リーフェンはイギリスに渡り活躍した。
 
 
 
「テュルプ博士の解剖学講座」1632年作
 
アムステルダムで一躍名声を挙げた作品は外科医組合から依頼を受けて描いた上の画である。これまでの集団肖像画とは異なり、各人物の威厳より主題、ポーズ、構図を重視した。これが高い評価を得、出世作となる。ここで注目したいのはその注文主である。それまでの一流画家たちは教会か宮廷をスポンサーにしている。この時代のオランダの市民階級が絵画を注文する程、経済的にも豊かであったことを意味している。
 
 
 
「妻・サスケア」1635年作

1633年、レンブラント27歳の時、工房の主であり画商でもあったアイレンブルグの従弟である22歳のサスケアと知り合い翌年結婚する。サスケアの父は市長を務めたこともあり、その一族は有力であり裕福だった。新妻は多額の持参金と富裕層への人脈をレンブラントにもたらしてくれ、国の提督オラニエ公からも注文がきた。富と名声を得たレンブラントは壮大な工房を構え多くの弟子を抱えるようになる。大芸術家に相応しく豪邸を購入し、美術品、刀剣などの工芸品、民族衣装、装飾品など手当り次第に収集した。
 

「夜警」1642作
 
1642年、36歳のとき完成させたのが、火縄銃組合からの注文の「夜警」である。観ても解るが劇的にしようとの芸術家の意図が発注者の理解を得られずクレームがついた。その頃からレンブラントの人生は暗雲が垂れ込める。妻サスケアの生んだ子が3人とも短命で亡くなり、1642年にはサスケアも体調を崩し寝込んでしまう。4人目の子である息子ティトゥスが生後8か月のとき、結核のため29歳の若さで亡くなってしまった。遺書には遺産はレンブラントと息子ティトゥスが相続するが再婚したときは無効にするとあった。
 
幼い息子ティトゥスを抱えたレンブラントの人生は暗転する。旺盛な制作活動は変わらなかったが、画家として完璧主義を貫くレンブラントのやり方はお客を怒らせることもあった。必要と思えば骨董、古着、外国の絵画、版画、デッサン、何でも高値で買い入れたので財産は次第に減っていく。プロテスタント教徒の多いオランダでは「無駄使い」「放蕩」とされ、サスケアの遺産を使い果たしていると親族は非難した。乳母として雇った未亡人からは結婚を迫られ、若い家政婦ヘンドリッキエを雇い愛人関係になると、さらに泥沼に陥った。
 
未亡人は裁判沙汰となった末、精神病院に入りその後に亡くなる。ヘンドリッキエはレンブラントを支え続けたが、金銭に事欠くようになり、美術品コレクションを次々売却する。1652年、英蘭戦争が勃発し経済が不況になると債権者は強硬になり裁判にかけて財産処分を求める。財産は次々と競売にかけられ、邸宅を追われ貧民街に移り住むことになる。57歳の時、ヘンドリッキエは38歳で亡くなる。62歳の時、結婚して半年の息子ティトゥスが急死した。その翌年ティトゥスの忘れ形見ティティアを得るが、ヘンドリッキエとの娘コルネリアを残して世を去った。行年63歳。
 
 
 
「ユダヤの花嫁」1667年作
 
ゴッホがレンブラントの晩年の作品「ユダヤの花嫁」を見て、「この画の前に2週間座っていられるなら、自分の人生の10年間を喜んでくれてやる。」と言ったという。レンブラントは死ぬまで創作意欲を失うことはなかった。注文がないときは自画像を描いた。自画像の作品が多いのはそのためである
 
~~さわやか易の見方~~
 
******** 上卦は火
***  *** 文化、文明、才能、太陽
********
***  *** 下卦は地
***  *** 陰、柔、大地
***  ***

「火地晋」の卦。晋とは進むこと。地上に太陽が登っていく象である。「旭日昇天」、時を得て運にも恵まれ、働けば働くほど周囲にも認められる。自信を持って行くなら何事にも順調である。ところが、この順風満帆は永くは続かない。そしてその次に待っているのが、「火」と「地」を反対にした「地火明夷」の卦である。明夷(めいい)は明が夷(やぶ)れる。明なるものが傷つき害される。太陽が地に沈む象。暗黒の世界に覆われるのである。このように易には順番が説かれている。つまりは良いときの後には悪い時が来るのである。

富、権力、名声は時代とともに移り変わる。運よく富や名声を得たとしてもそれはいつまでも留まってくれるものではない。レンブラントが華やかに持て囃された時期は短かった。しかしレンブラントは芸術に生きた。どんなに逆境に陥ろうとも芸術家としてのプライドを失なうことはなく、ますます高みを目指して精進した。レンブラントの晩年の自画像を観るとき、風雪に耐えたその目が語りかけるものは深い人生の真理である。
 
オランダと日本の関係はこの時代に始まっている。日本に始めてオランダ人が来たのは1600年の春、関ヶ原の戦いの半年前のこと。五大老主座だった徳川家康が漂着したオランダ商船・リーフデ号の航海士ヤン・ヨーステンを取り調べたことに始まる。家康に信任されたヨーステンが住むことになったのが江戸城下で、その名に因んで地名となったのが八重洲である。以来、鎖国中もオランダだけが交易を許された唯一の国であり、幕末には蘭学は西洋に関心を持つエリートたちが熱心に学んだ。幕臣の勝海舟や緒方洪庵の書生だった福沢諭吉たちである。明治維新は彼らが切り開いたのである。