マッツィーニ(1805~1872)
しばらく忘れられていた存在だったイタリアも独立へのドラマが始まった。ローマ帝国で名高いイタリアであるが、その帝国崩壊後は1000年以上も統一されることはなかった。ローマやミラノ、フィレンチェ、ヴェネツィアといった都市はそれぞれ文化の発展はあったが、其々の都市はフランスやハプスブルグ家の支配が続いでいた。しかしナポレオンの出現後、ヨーロッパ中で民族運動や統一運動が盛んになる。
1848年、フランスで2月革命が起るとイタリア各地でも独立運動に火がつく。その中心になったのがサルデーニャ王国・ジュノヴァ出身の弁護士・マッツィーニだった。若いころから独立運動に参加し、ロンドンで労働運動を学び「青年イタリア」というグループを結成していた。「ローマ共和国」を旗揚げ、独立を呼び掛けたが、フランス・ナポレオン3世によってあえなく潰され、関係者は海外に亡命、ローマにはフランス軍が駐屯することになる。
青の部分がサルデーニャ(1769年)
1849年、オーストリアからの独立を目指すロンバルト・ヴェネト王国を支援し、イタリア統一への先頭に立ったのがサルデーニャ王国の国王カルロ・アルベルトだった。サルデーニャ王国は地中海の島とフランスに接する領土を持ち、立憲君主制国家として自由主義的憲法、教育の充実、工業化が進み最も近代化されていた。一時はオーストリア軍を退けたが、共和制を目指す独立運動家と対立している間にオーストリア軍の反撃に遭い敗戦、失脚した。
エマヌエーレ2世(1820~1878)
失脚した父王の後を継いだエマヌエーレ2世が首相に任命したのがカブールだった。
カブール(1810~1861)
カブールはフランスとオーストリアの両大国の支配を脱し、独立をするためにはフランスに協力を仰ぎ、オーストリアと戦うより道はないと考えた。
1853年にロシアとオスマントルコとの間でクリミア戦争が起る。ロシアの南下を阻止したいイギリスとフランスは参戦する。そこでカブールはイギリスとフランスに恩を売るために1万5千人の援軍を送ることにした。兵士たちに「これがイタリア独立の第一歩だ。」と激励した。1856年、戦争終結後のパリ講和会議でカブールは独立への協力を訴えた。ナポレオン3世との間に「プロンビエールの密約」を結び、オーストリアと戦争になった時はフランス軍からの援軍を約束させた。
1859年、用意周到の体制を整えた上で、サルデーニャ軍は再びロンバルト・ヴェネト王国の独立を求めてオーストリア軍と一戦を交える。オーストリア軍は14万名の大軍を動員した。サルデーニャ軍は7万名だったが、フランス軍は15万名の援軍を送った。激戦の末、連合軍はオーストリア軍をソルフェリーノの戦いに勝利、西側半分のロンバルディアを割譲する。
しかしここでナポレオン3世が約束を破る。ナポレオン3世はこのまま進軍し、東側ヴェネト王国もサルデーニャのものになると、フランスの南に強大な国が出来てしまい得策ではないと考えた。そこでオーストリアと単独交渉し、戦いを終わらせてしまう。ナポレオン3世の裏切りにはショックを受けたが、イタリア中部のパルマ、モデナ、トスカーナ各王国が住民投票の結果、反オーストリアでサルデーニャ王国に合流する意思を表明してきた。
カブールはイギリスを味方にナポレオン3世と再度交渉する。これ以上支配を広げないことと、サルデーニャのサヴォイとニースの割譲を条件に承認を得る。ここでサルデーニャ王国のイタリア統一戦争は北部と中央イタリアの支配で中断してしまった。
ガリバルディ(1807~1882)
ここにニース出身で青年イタリアの一員だったガリバルディが登場する。ガリバルディはローマ共和国旗揚げにも参加し、その後南米に亡命、アンデスの革命家ソモン・ボリバルとも行動し独立運動のスキルを身につけて帰国していた。カブールが故郷ニースをナポレオン3世との交渉で割譲したことには激怒していた。行き詰った統一運動に自ら1000人の義勇兵を組織して2隻の船でシチリア島に向かった。イタリア半島の南から統一運動を完成させるためである。ガリバルディのトレードマーク赤シャツから「赤シャツ隊」と呼ばれた。
シチリア島はイタリア半島の南半分を支配するナポリ王国の領土だったが、その支配に抵抗する農民運動が起きていた。「赤シャツ隊」はたちまち島を占領、南イタリアに上陸した。義勇兵は次第に膨れ上がり2万5千名にもなった。半島を北上し、ナポリ王国軍を滅ぼしてしまう。ここまでくれば後は教皇領のあるローマだけである。しかしローマにはフランス軍が駐留している。フランス軍と戦闘になったら大変と肝を冷やしたのはカブールだった。
テアーノの握手(1860年)
カブールはガリバルディを止めさせるため、急遽エマヌエーレ2世に出陣を願い出る。エマヌエーレ2世は軍を率いて南下した。国王対ガリバルディの対決も予想されたが、ガリバルディは征服したナポリ王国をそっくり国王に献上することを決断した。青年イタリアの目的は共和制だったが、現実的には時期尚早であることも感じたのだろう。テアーノにてガリバルディは臣下の礼を執ると国王は固い握手で応じた。
ほぼイタリアは統一され1861年2月、エマヌエーレ2世はイタリア王国の成立を宣言し初代イタリア国王に即位する。(その年の6月、カブールが病死する。)残るヴェネトは1866年に、ローマ教皇領は1870年に編入され、ローマがイタリアの首都となった。青年イタリアを創ったマッチーニ、サルデーニャ首相カブール、赤シャツのガリバルディの3人はイタリア統一の3傑と呼ばれている。
~~さわやか易の見方~~
*** *** 上卦は沢
******** 喜び、親睦
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*** *** 下卦は雷
*** *** 活動、発動、志
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******** 喜び、親睦
********
*** *** 下卦は雷
*** *** 活動、発動、志
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「沢雷随」の卦。随は従う、随行、随喜である。人に従うことも主体性を持って、信念に従って決断することが大切である。実力のある者が一歩譲って自分以下の者に従うこともある。その場合でも真摯な態度で従うなら良い結果に恵まれる。また自分の盛気も衰えることもあるので謙虚な姿勢は忘れてはならない。
ガリバルディは元船乗りだったこともあり、世界中を駆け巡っている。32歳でブラジルに居た頃、18歳の牧童の娘アニータと熱愛の末結婚している。そのアニータは義勇兵たちに慕われた女傑として知られ、「ローマ共和国」壊滅後はフランス軍に追われ、イタリア各地を転戦する中で戦死した。ガリバルディの晩年は叙勲や議席を一切断り、地中海の小島・カプール島で農業をしながら青い海を眺めて家族とともに余生を送った。
ガリバルディの生き様は幕末の坂本竜馬を思い出す。南イタリアで集まった義勇兵に、「おまんら、北とか南とか言ってる時じゃないぜよ!イタリアという一つ国が出来る時ぜよ!」と言ったかどうか。その言葉には人を振るい立たせる力があったのだろう。ガリバルディが南イタリアで大活躍した頃は、日本では龍馬が脱藩した頃である。同時期に活躍した東西の英雄には共通する心意気があったようだ。