金沢発 あれやこれや

-ヒントをくれる存在に感謝しつつ物語をすすめます-

南海トラフ地震への備え

2015-08-30 21:15:21 | 滋賀の日々
これは地震に興味のある個人の意見です。参考にするかはおまかせ
します。

150年前に日本を襲った大地震は安政の大地震と呼ばれます。
想定する大地震地帯すべてで地震がおきた典型的な連動地震でした。
東海、南海、豊予海がわずか数日で連動したのは驚きですが、
昔と今で地面の下が変わってることはなく、
こういう傾向だと受け取らざるを得ません。

   1854年7月 伊賀上野地震 阪神大震災クラス
   1854年12月23日 安政東海地震 マグニチュード8.4 
   1854年12月24日 安政南海地震 マグニチュード8.4 
   1854年12月26日 豊予海峡地震 マグニチュード7.4       
   1855年11月 安政江戸地震  マグニチュード6.9-7.4 
   1856年8月 安政八戸沖地震 マグニチュード7.8-8.0 

安政の大獄の頃は政情だけでなく地面もゆれに揺れた。
桜田門外の変は、1860年3月に起きました。安政江戸地震からわずか
5年、武家屋敷も相当倒壊したとあるので、門が傾いててもおかしく
ありません。

この最初に、伊賀上野で大きな地震が起きてます。
ふだんはほとんど地震のない地帯です。
今日、小さいですがそこで地震がありました。
警戒のギアを一段上げようと思いました。
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自覚前の日々4

2015-08-10 00:38:17 | スピリチュアルコラム
≪宇宙戦争?の話≫
前回が重い話だったので、現実からはなれて
想像が膨らむ話をします。

前章のおわりに、虫との関係が一段進んだと書きました。
昨年12月、会社から帰ったとき、アパート入口のコンクリート段に
部屋のほうを向いたこおろぎがいました。見ると片足です。
それでも踏ん張って立ってました。数秒考えてこう言いました。
「代表でお別れのあいさつにきたのかい」
すると少し離れた場所から、同じくとうに死んでておかしくない
バッタがリーンと鳴きました。
こおろぎは実にかたくななほど律儀な虫です。

虫について少し前、夢想することがよくありました。
その舞台はなんと 宇宙戦争 でした。

虫たちは普段はミニマムサイズで惑星の守護を努めてますが、
宇宙から侵略されたときは本来の大きさに戻り戦います。

宇宙戦闘の主役は黄金虫たち。光速に近い速さで飛び、身体ごと相手に
ぶつかります。光速だと目で見て飛ぶことは不可能。心の目で
飛びます。ぶつかっていかに粉々になって死ぬかに武士道的な
こだわりを持ちます。

ハチはいろんな場面に応じて変身します。地上用、成層圏用、宇宙用と
まゆの時に言われた場面で使い分けます。

くもはあっというまに地球をくもの巣で覆い、防衛線をはります。

蚊は地上を超音速で飛び進路のあらゆるものを竜巻にまきこみます。

戦闘で死んだ虫の魂はただちに味方の陣地に戻り、用意された卵に
はいり、脅威的なペースで育ち、再び前線に向かいます。
前線で戦うか、後方支援にまわるかは虫の種類で決まります。
ここまで書くとわかると思います。そう、最初から戦闘を
想定してDNA設計されてます。

虫のことに詳しい人ならば、身体が半分にちぎれてもけっこう
長い間生きてることをご存知でしょう。

本格的な戦闘形態に変身すると、身体の一部が欠けても相当な
年月生きれるため、負傷イコール戦闘離脱となります。
脱落が増えると敗戦につながりかねません。

それを解決する手段は、すべての虫の行動を把握し、
虫の命を自由に操れる者が指揮すること。
負傷して戦闘から脱落したり、敵につかまった場合、その者が遠く
から死を与え、魂を身体から開放し自由にします。

こうすることで、負傷による脱落者がいなくなるだけでなく、
前線で死に、魂で帰ってくる虫と、これから前線に向かう虫が
情報交流し、効率良く戦闘展開できます。

その指揮者は生き物の生死をコントロールできるので
神、もしくは神の力を授かった者です。

将軍と呼ばれるその指揮者は、虫たちから絶大な信頼を寄せられた
存在で、将軍のもとでは虫はまさに命を投げ打って闘い、
宇宙に敵無しの軍隊として恐れられています。


最初にきっかけとなる夢を見、そこから想像がどんどん膨らみました。
たまにこういうこと想像するのも面白く、楽しいですね。
昔、小説にしようとしましたが、あまりにもSFの枠から飛び出てて
あきらめました。
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自覚前の日々3

2015-08-09 12:31:13 | スピリチュアルコラム
≪加賀藩処刑場のこと≫
この題で、実家のある金沢の話題を紹介するのは変ですが
鎮魂の時期であるのと、自分の人生に大きな影響を与え続け
てるため、このタイミングで書き留めることにしました。

私の実家は、金沢の観光対象にもなってる浅野川の下流、
土手から100メートルも離れてない所にあります。
その土手ですが、どうも江戸時代は人があまり近づかない
場所だったようです。子供のころは土手に地蔵堂があり、
6つの地蔵が並んでて、いかにもなにかあった場所と思わせ
る雰囲気がありました。
しかし、その地蔵は近所の寺に移設され、長らく放置された
ままの土手も近年になって犀川のように整備が進み、今や
散歩やランニングにいそしむ市民が集まる明るい場所に変わ
りました。

そういう歴史は、思い起こせば自分が生まれたときから影響
を与えてきてます。子供のとき、昼寝してて、しんどいなと
思って起き上がると、上に黒いかたまりのようなものが乗っ
てたり、夜寝てると、ふとんを押されたり、ひっぱがされそ
うになったりとまるでエクソシストのような体験が続きまし
た。
子供なので今のような正しい霊の知識も持たず、おばけと考
え、どうやって対抗すればいいのか変な対抗意識を持ったこ
とを覚えてます。

明確な記録は探せないが、恐らく処刑場のような場所だった
かもと知ったのは大人になってから。
改めて土手を見渡すと、おとなしい霊もいますが、一部しゃ
れにならないほどの怨霊群がいました。どれだけひどい目に
あえばこれほどの執着をもつ存在になるのか、深く考えさせ
られるほどです。
外様の筆頭大名でしたので、徳川に目をつけられないよう
体裁を保つため、理不尽な処刑も数多くあったでしょう。

滋賀の日々2で スピリチャルウイズダム を紹介しました。

霊との交流で相手が何をしたくて接触してきたのか、当時は
わからず何年もたってから、その時の気の流れを思い出し、
牛が食べ物を胃で反すうするように繰り返し考えたりします。
子供のときの体験を反すうすると、自分たちの存在を知って
ほしい気持ちもあったのかなと思いました。命をとりたけれ
ばたちどころに殺せてますから。

浅野川のこの土手は子供のときからの遊び場です。
ふなやなまずを追っかけたり、石の下にいるかにをつかまえ
たり、とにかく駆けずり回ってました。
あくまで想像ですが、そのさいに大きな怪我なくこれたのは、
霊のみなさんに見守られてたのかもしれません。

今は、実家に帰ったときは土手のえのきの大木に向いて 
ただいま帰りました と言い、滋賀に行くときは またしば
らく離れます とあいさつしてます。
土手にある一番大きなえのきの大木にはひときわ強烈な怨霊
群が宿られているからです。不思議なことに、最近この大木
が地獄に現れた菩薩のように見えてきました。

もはや鎮めることもかなわずもはやたたりマシーン化してま
す。近くを開発するだけでたたられるので、そのまわりだけ
昔のままで手をつけられなかったようですが、新幹線が通り、
そこも開発が進むような兆しがあります。
いったいどこの業者がそんな恐ろしい仕事を引き受けるのか。
一族がほろぶ可能性あるかも。
自分は霊に対し、ひどいめにあってやっとこの大木に宿って
安住してるのに、そこを追い出す心無い行為に対しては
全力で立ち向かわれてかまいません。と言ってます。

町内では年に一度の地蔵盆が催されます。
私は怨霊を助ける力はありませんし、表面だけの祈りを
することもしません。ただ、もはや自分にとって昔からの
ご近所さんである怨霊の方々のことが心配なのです。
金沢市に対して、この土手の歴史に
見合った整備をし、霊の安住の地にしてほしいです。

※霊感のある方ほど影響を受けかねないので、具体的な場所
 はふせます。しゃれにならないので、念を飛ばして想像す
 ることは絶対しないでください。
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自覚前の日々2

2015-08-02 00:29:01 | スピリチュアルコラム
≪予期せぬ節目となった高野山参り≫
先日、高野山案内犬ゴンの追悼コンサートが開かれました。その様子は
行かれた方のブログなどで見させていただいております。お山に行く
予定はまったくありませんが、同じく先日、ぶっちゃけ寺というテレビ
番組で特別に奥の院の撮影が許され、初めて空海さんがどのあたりに
いるのか具体的な説明つきで紹介される様子を見ながら、ゴンは本当に
正確に案内してたなと改めて関心しました。
お坊様は空海さんのおられる位置をあからさまに指さして説明するなど
恐れおおくて絶対しないでしょうし。2度とない機会でした。

そもそも高野山訪問は私にとって予定外の出来事でした。

昔、新潟から移り住んで能登で百姓を始めた先祖を持つことを知り、
それが越後長尾氏だとわかったとき、祖先を調べてみたい気持ちが
起きました。望んで百姓になったわけではなかったでしょうし
ある意味、先祖供養をしたかったのです。

新潟の上越で長尾氏と関わりのある建物や場所はご存知のとおり
けっこうな観光スポット。上越市の各史跡は観光向けに整備されて
おり、歴史や戦国武将マニアは満足するでしょうが、そこで
先祖調べを行うことは困難でした。

そこで、長尾氏が越後に移る前、坂東八平氏として住んでた場所を調
べてみることとし、神奈川県立図書館に行きました。しかし図書館
で半日調べてもこれといった資料は見つかりません。
あきらめて、前にネットで紹介されてた 長尾神社 のある場所に
いちかばちか行くこととしました。
果たして、到着したところ、確かに長尾氏が住んでた場所とわかり、
土地勘も無かったのに、その裏の長尾城跡という史跡も見つけました。
見たところ、竹におおわれた小山なのですが、私はそこに立って
驚きました。小山いっぱいに人がいて私によくきたと感謝したり、
これからも応援するぞと、歓声に近いものを浴びてる感じがした
からです。
これは上越のゆかりの場所を訪問してた際には出会わなかったもの
で、長尾神社から城跡まで誘導された感じもあって本当にびっくり
したのです。

私もそれほど暇をもてあましておらず、へたな探偵のまねごと
はしんどいしこれっきりにしようと思ってましたが、長尾城跡の
皆さんになかば励まされるかたちで、残るゆかりの地、山形県
米沢市行きを決心しました。

米沢の長尾家ゆかりの史跡、謙信公がまつられてる上杉神社、家臣
だったみなさんのお墓をめぐりました。長尾の戦国大名としての
歴史の最後の部分、関が原の後の運命を駆け足ながら自分の目で見て
めぐれて充足したし、なにより、上杉家墓所でこれまでのことを
報告できてうれしかったです。

上越、米沢、そして坂東八平氏時代にいた場所まで巡り、供養の
旅は完了しました。
もう行くべきところはないだろうと思ったとき、謙信公が激闘の
合間をぬってわざわざ訪れた高野山というなんか変な寺。

そこにはなぜだか謙信公の墓もあるらしい。密教に興味あるし、
先祖の墓参りを目的とした以上これは行っておくべきという
気持ちが固まり訪問しました。

結局、最初の訪問が夕刻の到着ですぐに日が暮れてしまい、
暗闇でなにもわからなり、奥の院をめぐることしかできず、
次の訪問でやっと謙信公の墓に参拝できたのです。

あの墓は木造で変わってますが、米沢の上杉家墓所を知る人には
違和感ありません。

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