連載「死刑」第2部「かえらぬ命」第3回.  母=「やっぱり犯人の命をください」 姉=「路上で熱唱」

2008-12-13 | 死刑/重刑/生命犯

 最初は終身刑望んだ母「やっぱり犯人の命をください」
(読売新聞 - 12月13日 07:32)
実家にある久保田奈々さんの写真は、病を克服して食べられるはずだったチョコレートや、庭木の果物に囲まれている(長崎県平戸市)
 「終身刑を望みます」
 娘を殺害した犯人が逮捕された直後、どんな刑を科してほしいかと捜査官から尋ねられ、久保田博子さん(51)はそう答えた。
 2004年12月12日夜、福岡県飯塚市で一人暮らしをしていた三女の奈々さん(当時18歳)が、アパートへ帰る途中、近くの公園に引きずり込まれ、絞殺された。翌日、離島の的山(あづち)大島(長崎県平戸市)から駆けつけた博子さんと夫の寿(ひさし)さん(52)が対面したのは、今まで見たこともない、苦しげな顔をした奈々さんだった。
 3か月後、土木作業員の鈴木泰徳被告(39)が強盗殺人容疑などで逮捕され、わずか1か月余りの間に福岡県内で奈々さんら3人の女性を殺害したと自供した。
 「死刑は当然」と寿さんは考えていた。しかし、博子さんはそう思えなかった。
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 奈々さんが難病の膠原(こうげん)病にかかっているとわかったのは、声優になる夢を抱いて島外の高校に進学して間もなくのことだ。入院施設のある養護学校に入り直した。一日80錠の薬の影響で顔は腫れ、大好きだった甘い物も食べられなくなった。
 娘を見舞うため、養護学校を訪ねた博子さんは、車いすで懸命に教室に通ってくる筋ジストロフィーや心臓病などの子供に出会う。いつも自分の死を見つめているように感じられた。
 「私は絶対に膠原病を治して、声優になって、重い病気の人を励ましたい」。ある時、そんな決意を明かした奈々さんは04年春、病が癒え、卒業する。だが、仲が良かった難病の男子生徒はその後、亡くなった。
 「長くは生きられないことがわかっていても、悲観することなく懸命に生きていた。そんな子供たちを見て、生きていける命をほかからの力で奪うことに抵抗を感じていました」と、博子さんは言う。
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 鈴木被告は幼い2人の子供がいながら、パチンコや酒で借金を重ね、ストレスをためた末、乱暴目的で一人歩きの女性を探し、偶然見かけた奈々さんを襲った。しかし、福岡地裁の法廷では捜査段階で認めた殺意を否認し、「生き続けて、若い人たちに犯罪に走るなと伝えたい」などと訴えた。
 「何でうちの娘を」。傍聴席で、博子さんは叫びたい衝動を何度もこらえた。養護学校を卒業後、手に職をつけるため、飯塚市内の歯科技工士の専門学校に入学した娘は、事件の3週間前に会った時、「今の学校は楽しいけん。ここに来て本当によかった」と笑顔で話していた。クリスマスには思い切りケーキを食べさせてあげたかったのに。
 06年3月9日の第8回公判。博子さんは意見陳述に立った。当初は死刑でなく終身刑を求めた気持ちから話し始めたが、途中から抑えていた感情があふれ出た。
 「私たちは成長した奈々に会えないのに、犯人はさも罪を償っていましたと言わんばかりに、大きくなった我が子に会える。嫌だ、それだけは許さない……。私の心はどこまで醜くなるのでしょう。やっぱり犯人の命をください……」
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 12日、今年の命日の夜を、両親は島の自宅で迎えた。地裁、高裁でともに死刑判決が出た鈴木被告は今年2月、最高裁に上告した。
 「罪のない子供が親に会えないことを願うなんて、おかしいと自分でも思う。でも、もし被告が無期懲役になることを考えると……」。博子さんは声を震わせた。
 「命の大切さを分かっている妻は、犯人の死を望む自分を責めてきました。こんな思いをする家族をもう出さないためにも、落ち度のない人を殺せば死刑だということを示すしかないと思います」。寿さんは語った。
 (連載「死刑」第2部「かえらぬ命」第3回)

2人の刑執行 庄子幸一死刑囚・鈴木泰徳死刑囚 山下貴司法相命令 2019/8/2 令和改元後初めて

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「奈々が生きた証し」路上で熱唱…事件で妹失った姉
 2004~05年に福岡県内で女性3人が相次いで殺害された事件で、18歳の妹を失った姉が、妹への思いを歌詞にした曲を作った。
 「一緒にすてきな女性になろう」と誓い合った日に事件は起きた。この世界に妹が生きたことを形に残したいと願い、路上などで歌っている。
 イルミネーションがきらめく福岡市内の公園。12月18日の夜、久保田結花(ゆか)さん(26)はギターをつま弾き、自作の「Nana」を歌った。
 ―最後に会った君はあんなに笑って あたしに「頑張れ」と手を振った
 結花さんの妹は、連載「死刑 第2部 かえらぬ命」でとりあげた奈々さん。
 04年春、18歳だった奈々さんは、難病の膠原(こうげん)病を克服し、専門学校に通うために故郷の長崎・的山(あづち)大島を離れて、福岡県飯塚市で一人暮らしを始めた。北九州市の大学にいた結花さんは、妹のために赤いマフラーを編んで贈った。
 その年の12月12日、大学で所属していた吹奏楽部の演奏会に奈々さんを招いた。開演前、はじけるような笑顔で励ましてくれた奈々さんは、帰宅途中に携帯電話でメールを送ってきた。〈一緒にすてきな女性になろうね〉。その時のメールでそんな約束も交わした。
 しかし翌日、奈々さんの遺体が見つかった。帰り道、公園に引きずり込まれ、巻いていた赤いマフラーで絞殺されたと聞いた。3か月後に逮捕された鈴木泰徳被告(39)(1、2審死刑、上告中)は、奈々さんの後、さらに女性2人を殺害していた。
 事件直後は取り乱す母を支えるのに必死で、涙も出なかった。「家族で一番近くにいたのに、守れなかった。私が演奏会に誘ったりしなければ……」。時折、自分を責めさえもした。
 転機は昨年12月の命日のころ。「音楽の力で、奈々の生きた証しを残したい」と、作曲を思い立った。「天国の奈々にも届いてほしい」と、自然と叫ぶような曲調になった。その年の暮れ、的山大島の実家に帰った時に、完成した「Nana」を歌い、両親の前で初めて泣いた。
 今年は会社に勤めながらライブハウスや路上で歌い、インターネットで動画も公開した。偶然、曲を聴いた奈々さんの同級生が、結花さんのサイトに「命日にも聴きたい」と書き込んだ時は、うれしかった。
 ―どんなに泣いても 君が戻らないなら せめてその笑顔に近づけるように笑おう
 「曲を通じて色々な人に奈々のことを知ってもらえて、自分の気持ちもようやく前を向けた」と言う。
 来年1月7日には、奈々さんの「23歳の誕生日」が巡ってくる。結花さんは、事件のあった公園に、妹へ贈る花束を置くつもりだ。(2008年12月24日03時03分  読売新聞)
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