テレサ・テンという、アジア最強コンテンツ 死後も10億人を魅了する魔力

2013-03-30 | メディア/ジャーナリズム/インターネット

東洋経済online 2013年03月28日
テレサ・テンという、アジア最強コンテンツ 死後も10億人を魅了する魔力
「グレーターチャイナ縦横無尽]野嶋 剛:ジャーナリスト
 この連載コラムでは、中国のみならず、台湾、香港、東南アジアを含む「グレーターチャイナ」(大中華圏)をテーマとする。私は20代から40代前半の現在まで、留学生や特派員として、香港、中国、シンガポール、台湾に長期滞在するチャンスに恵まれた。そうした経験の中で培った土地勘を生かし、「大中華圏」 での見聞を硬軟取り混ぜて皆さんにお伝えしていきたい。
テレサ・テン(中国名・麗君、デン・リージュン)の生誕60年を記念した特別展「追夢――永遠的麗君展」がいま台北で開催されている。
 死後20年近くが経つにもかかわらず、われわれはテレサ・テンを忘れることができない。甘くささやくような歌声を聴くと、不思議に心が切なくなる。何というか、情緒の中枢神経を刺激されてしまうのだ。
 そんなことを考えていたら、どうしてもこの特別展を見たくなり、先週末に台北に飛んだ。
 ■やりたいことは「勉強」
 特別展の会場は蒋介石元総統を記念する台北のランドマーク、中正記念堂。会場の入り口には週末ということもあって長蛇の列ができていた。
 代表曲「時の流れに身を任せ」の中国語版「我只在乎你」が流れる中で順番を待ちながら会話を聞いていると、観客の半分ぐらいは台湾で急増している中国からの観光客だった。中年の夫婦が子供に「子供の頃はいつも親に内緒でデン・リージュンをラジオで聞いていたんだ」と話し聞かせていた。
 特別展は非常に周到に準備されたことがうかがえる高い水準のもので、なかなか勉強になった。4月21日まで開催しているので、台湾に行く機会があればぜひのぞいてほしい。
 私にとっては、テレサ・テンの勤勉さを物語る展示の数々が特に印象深かった。14歳で学校を辞めたテレサ・テンだが、とても聡明な人物だったことが伝わってくる。彼女は「最も人生の中でやりたいことは」と質問されると、いつも「勉強」と答えていたという。どの分野でも長期にわたって成功する人物は、学歴に関係なく、確かな聡明さを持ち合わせていることがわかる。
 たとえば語学。テレサ・テンは語学の天才だったかのように言われてきた。中国語、台湾語、広東語、日本語、英語、フランス語、インドネシア語を程度の差こそあれ、日常会話は不便のないほどには使いこなせたからだ。実際は、いつも滞在する国の辞書を持ち歩き、気になった表現や覚えておきたい言葉をノートに丁寧に書きとめていた。展示されていた大量の使い込んだ辞書や古ぼけたノートが努力の跡をしのばせる。
いつも国から国へ、町から町へと移動していたテレサ・テンは、カバンに常に3冊の本を入れていたこともこの展示で初めて知った。『唐誌三百首』『李清熙詞選』『張愛玲小説集』という3冊で、前の2冊は中華民族としての教養には欠かせないものだし、張愛玲は近代中国ナンバーワンの女流作家。張愛玲が歩んだ数奇な人生にテレサ・テンは自分の人生も重ねていたのではないだろうか。
 そして、特別展の入口にあった紹介文には、テレサ・テンというスターの位置づけについてこんな言葉があり、なるほど、そのとおりだと思わされた。
 「彼女は台湾、香港、日本、東南アジア、米国、ヨーロッパのどこにおいても大きな足跡を残した世界でも希有な歌手である」
 特に中華圏を中心とするアジアでは圧倒的な人気を誇り、テレサ・テンは「10億人が拍手を送る人」と呼ばれた。今でもカラオケで最も歌われるのはテレサ・テンの歌であり、今に至っても、テレサ信者は減るどころか増えているとされる。特別展の「永遠」というタイトルが誇張ではないと思えるほどの、テレサ・テン人気の源について考えてみたい。
 ■軍との極めて深い関係
 テレサ・テンのユニークなところは、活躍した主な舞台である台湾、中国、日本、香港で異なる愛され方をしていることだ。
 生まれ故郷の台湾でテレサ・テンは「愛国歌手」という側面を色濃く持っていた。習近平の妻が人民解放軍の美人歌手であったことが話題になっているが、テレサ・テンも軍と極めて関係が深く、台湾では「永遠的軍中情人(永遠の軍人の恋人)」と呼ばれる。
 1946年に生まれたテレサ・テンの本名は麗筠という。「筠」という字は「yun」と発音するが、あまり使われない文字なので「jun」と読み間違えられることが多く、そのまま「jun」の発音の「君」を芸名で使った。台湾北部の新北市の小高い山の上にあるテレサ・テンの墓地が「筠園」と呼ばれるのはそのためである。 父親は、孫文が1924年に設立した士官養成学校「黄埔軍官学校」の14期生の軍人で、蒋介石と共に台湾に渡った。育ったのは台湾の屛東という南部の田舎町にある軍人住宅。5人兄弟で、3人の兄、1人の弟がいたが、2人の兄も軍人となっている。テレサ・テンはいくら忙しくても、軍からの慰問の要請にはできる限り応えたという。1981年の金門駐留の兵士たちへの慰問では、若い少尉のほおにキスをした写真が伝説的一枚となり、今回の特別展ではこの少尉が姿を現し、大きな話題となった。
 軍に近かったためテレサ・テンを国民党の特務だと指摘する意見もあったが、現在ではその可能性はほとんど否定されている。反共宣伝に利用されたのは事実だが、彼女自身も家族の影響で愛国的な考えの持ち主でもあり、同時に、当時の政治情勢下で歌手として活躍するには多かれ少なかれ政治との付き合いが不可欠だった。
一方、日本において、テレサ・テンはレコード大賞の新人賞や3度の有線大賞を獲得するなど活躍したが、トラブルにいつも巻き込まれる“悲劇のヒロイン”というイメージがある。
 思い起こされるのは1979年に起こした偽のパスポート入国事件だ。成田空港からインドネシア政府発行のパスポートを使って日本に入国した彼女は身柄を一時拘束され、強制退去処分を受けた。日本中が大騒ぎになり、しばらく日本での活動自粛を余儀なくされた。
 また、42歳の若さでタイ・チェンマイで急死した際も、殺害説が取りざたされた。その分、日本ではテレサ・テンに対する硬派ジャーナリズムの関心が高く、有田芳生『私の家は山の向こう~テレサ・テン10年目の真実』や平野久美子『テレサ・テンが見た夢」など、中国や台湾にもないような客観的にテレサ・テンの生涯を追った著作がそろっている。
 ■小平と並ぶカリスマ
 中国において、テレサ・テンは1980年代に始まった改革開放の象徴であった。台湾の大陸向けラジオ放送から流れるテレサ・テンの歌声に、革命歌に聞き飽きていた大陸の人々の心はとろかされたのである。テレサ・テンの歌声は「靡靡之音(退廃的な歌)」と呼ばれて取り締まりの対象になったが、人々は深夜にラジオの音にこっそり耳を傾けた。「昼は小平の話を聞き、夜は麗君の歌を聴く」「中国は2人のに支配されている」などと言われるほどだった。
 現在、中年層以上の中国人が、台湾人や日本人以上にテレサ・テン崇拝しているのは、テレサ・テンの歌を通じて自由世界の雰囲気を感じ取った、強烈な体験が影響しているのである。テレサ・テンの存在が最も強く刻み込まれているのは、テレサ・テンが一度も行くことができなかった中国かもしれない。
 そして、成人したテレサ・テンが長く暮らした香港では、テレサ・テンをほとんど香港人のような親しみを持って見ている。1989年の天安門事件のとき、香港の群衆の前に立って抗議の声を上げた彼女を、香港の人々は毎年6月4日が来るたびに思い出す。
特別展の中で唯一の不満があったとすれば、テレサ・テンの人生の大きなターニングポイントとなった、天安門事件への抗議活動について触れていなかったことである。特別展がテレサ・テンの死後に家族らによって設立された財団「麗君文教基金会」の全面協力の下で実現したこととも関係しているのかもしれない。
 1980年代後半、歌手として名声も財産も築いたテレサ・テンにとって、「祖国」とも言うべき中国大陸への進出は人生最後の目標でもあった。長年の交渉の結果、1990年に天安門広場で200万人を集めた空前のコンサートを開く予定となっていた。ところがその天安門広場で群衆が戦車にひき殺され、テレサ・テンが抗議に立ち上がったため、中国進出は夢と消えたのだった。
 そして歌手業からしだいに熱意を失っていたテレサ・テンは、自分がスターであることも知らないカメラマン志望のフランス人と一緒に暮らし、アルコールや睡眠薬におぼれ、最後はぜんそくの発作であっさりこの世を去った。
 本来は聡明であった彼女には似つかわしくない行動ともいえたが、彼女の中にある、自分でも抑制しきれないエネルギーがもたらした破滅的な行動で、彼女自身が招いた悲劇だということもできる。しかし、人生の絶頂期半ばでの突然の退場によって、逆に彼女は人々の記憶の中で普通のスターから特別なスターに生まれ変わったのである。
 ■テレサ・テンは、「アジア共有の文化遺産」
 エンターテインメントがクロスボーダー化した今の時代、日本の歌がアジアで歌われ、アジアの歌が日本で歌われることは普通になっている。しかし、テレサ・テンはインターネットもユーチューブもない30年前に、多国籍アーティストの地位を確立した。
 そして、テレサ・テンという最強のコンテンツは今も色あせていない。対立や矛盾に満ちたアジアの中で、ほとんど唯一と言っていいほど、各国の人間たちが安心しながら一致して思いを寄せられる「アジア共有の文化遺産」だといえる。しかも、日本、中国、台湾、香港、東南アジアにおいて、それぞれ微妙な異なった形で足跡を残しているテレサ・テンについて各国人が語り合えば、立派な文化交流になるだろう。
 本来、ソフトパワーとは海外に対して自国の文化や体制が好意的な影響を与えることを指しているのだが、テレサ・テンは誰にとってもソフトパワーの送り手となり、受け手にもなり得るという意味で、「究極のソフトパワー」だと言えなくもない。そして、テレサ・テンに対する強烈な「記憶」が共有され、次世代にも伝え続けられていくかぎり、今後10年、20年どころか、半世紀経ってもその輝きを失わないのではないだろうか。


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