goo blog サービス終了のお知らせ 

芹沢一也著『狂気と犯罪』精神を病む人間は法の世界の住人でもなければ社会の住人でもない 排除の思想

2008-09-27 | 本/演劇…など

芹沢一也著『狂気と犯罪』
p4~
 現行刑法では、ある人間が犯罪に及んでも、精神に障碍があって責任能力がないと判断されると、その罪が問われることはない。この場合、「精神保健福祉法」にもとづいて、二人の精神科医が「自分や他人を傷つけるおそれがある」と判断すれば、強制的に精神病院に収容される(措置入院制度)。しかしながら、宅間守のような凶悪犯の出現をきっかけとして、このような仕組みがうまく働いていないのではないかという疑惑が高まった。過去に犯罪歴のある危険な精神障害者が、社会を自由に歩き回っているのではないかと、人々は恐れ始めたのだ。
 政治も動いた。小泉純一郎首相は、刑法改正を視野に入れた検討を指示。その結果、紆余曲折の末、「心神喪失者等医療観察法」が、平成15年7月に成立したわけである。この法律は、重大な犯罪を行った精神障害者を診断した上で、要するに「累犯のおそれ」があると判断された者を社会から隔離するための法律である。
p6~
 筆者は池田小学校事件が引き起こした、このような一連の騒動をみながら、百年ほど前に書かれたある文章を思い出した。それは呉秀三という、日本に精神医学を確立した人物の手によるものである。明治39年、呉秀三は次のように訴えていた。
「甚だしきは殺人放火するものさえ、精神病のためなれば、無罪として放免さらるる。しかるに放免後は置き所がなく、遣り放しになっている故にまたまた犯罪をする、また放免してはまた犯罪をするということになる。危険至極ではないか。法律の上で宥しておいてしかもこれを取締る方法や施設がないとは驚くべき事である」(呉秀三「何故に癲狂院の設立に躊躇するや」)
 一読して明らかなように、池田小学校事件の後に起こった批判と、まったく同じことがいわれている。つまり、すでに百年前に、日本の社会は同じ問題に直面していたことになる。・・・こうした事実は一体、何を意味するのだろうか。本書を導いたのは、この問いであった。いうまでもなく、それは歴史的な作業を必要とする問いだ。
p10~
 この記事には続けて、「全国の精神病棟には、入院の必要がないのにホームや地域の支えがなく退院できない人が少なくとも7万人いる」と書かれている。
p11~
 第一の記事から、精神を病むという事実は、法の世界においてはその人間を、いわば「絶対的な自由」の境遇におくとわかる。精神障害者はいかなる犯罪を行おうとも、その多くが裁判にかけられないからだ。しかしながら、それは強いられた自由にすぎない。このことが真に意味するのは、精神を病む人間は「法の世界の住人ではない」ということである。
 それに対して、第二の記事からは、精神を病むというまったく同じ事実が、社会においては正反対の結果をもたらすとわかる。ここでは、そうした事実はその人間の「閉じ込め」を正当化するからだ。記事にもあったように、精神病院のような劣悪な環境に、命が絶えるまでとどまらなくてはならない数多くの人々が、今この日本には存在しているのだ。このことは、精神を病む人間は「社会の住民でもない」ということを示す。
 われわれの生きる社会は、法の世界からも社会からも「狂気」を排除している、そうした社会にほかならない。こうした社会では、精神を病む人間は、法の世界の住人でもなければ、また社会の住人でもないという、そのような立場に追いやられる可能性があるということだ。
 しかも、われわれの社会は、犯罪に及んだ精神障害者の「再犯のおそれ」を診断しようとしている。
p12~
 間違いなく、現在、精神障害者がおかれている、状況は歴史的にかたちづくられたものであって、自明なものではけっしてない。「狂気」と犯罪といった問題も、あるいは「狂気」と閉じ込めといった現実も、いずれも歴史が生み出したものにほかならない。本書のただひとつの目的は、このことを示すことにある。
 それは精神病院で死を迎えるほかなかった患者を身内にもつ人間の悲嘆と、そして裁判を受ける権利を要求するひとりの精神を病む人間の主張とに、それぞれ歴史的な厚みと正当性を与えるための作業となるだろう。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
◇ 山本譲司著『累犯障害者』 獄の中の不条理 新潮社刊 
..........


コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。