【政治家としての命脈は もはや尽きた小沢一郎 和子による「離縁状」】に、反論する

2012-09-10 | 政治/検察/裁判/小沢一郎/メディア

政治家としての命脈はもはや尽きた小沢一郎 民主党をダメにしたもの(「その4」の続き)
JBpress2012.09.10(月)筆坂秀世
 『週刊文春』に掲載された小沢一郎夫人の和子による「離縁状」を読んだとき、「やっぱり」と合点がいった。未曾有の3.11震災が発生したとき、岩手選出の小沢がどう動くのか、誰もが注目したはずだ。私もそうだった。だが一向に地元に入ったというニュースが飛び込んでこない。「故郷が塗炭の苦しみにあるとき、小沢は何をしているのか」、不思議でならなかった。
 和子の「離縁状」によれば、放射能が怖くて逃げていたという。小沢に近い民主党議員のブログを見ると、「放射能が怖くて逃げた」というのはデマだとか、わざわざ別の和子の筆跡と『週刊文春』の「離縁状」の筆跡を掲載して、「離縁状」の筆跡は和子のものではない、と述べているものもある。
 筆跡が真筆かどうかなど、はっきり言ってどうでもよいことだ。問題は中身だ。ただ小沢や和子と非常に緊密な関係にあり、中選挙区時代の小沢の選挙地盤を引き継いだ黄川田徹衆議院議員は、「離縁状」は和子の筆跡だと断定している。黄川田議員は、震災で夫人、長男、義父母の4人の身内を亡くしている。その見舞いにもらった和子の手紙と同じ筆跡だったからだ。もちろん誰かが代書したかもしれない。代書でも和子の手紙であることには間違いない。筆跡鑑定など無意味ということだ。
■なぜ被災地の復旧・復興に政治生命を懸けないのか
 実際、こんなことがあった。震災から数日後だったと思う。埼玉県の川越市に住んでいる私に、民主党の関係者から、「筆坂さん、関西方面に逃げた方がいいですよ。放射能汚染が東京方面にも拡大しています。みんな逃げていますよ。私もしばらく関西方面に行きます。ある人は九州に行くと言っています」という趣旨の話がもたらされたのだ。怒り心頭に発した。
 小沢がどうだったのかは、知らない。だが10カ月間も被災地に入らなかったのは事実だ。黄川田が指摘するように、被災地やその復旧・復興に関して小沢が何かを語ったことを聞いたことがない。和子の指摘をさもありなん、と思うのが普通である。
 福島第一原発の事故は、国会事故調査委員会が指摘するように、いまも「終わっていない」。大量の放射能を含んだがれきや焼却灰の処理もめどが立っていない。復旧も復興も緒に就いたばかりである。だが、小沢がやってきたことは、菅降ろしや消費税増税にかこつけて民主党を離党し、政局の主導権を握ろうとすることだけであった。もはや呆れるほかない。
 震災があった直後に、小沢は菅直人首相に頭を下げてでも、「復旧・復興担当の大臣にしてもらいたい。残りの政治生活のすべてをそのために注ぎたい」くらいのことを言うべきであった。それが岩手で、東北で育てられた政治家の責任であろう。
 「実力者」というのであれば、いまこそその力を発揮するときだった。だが所詮は、そんなことを求めるのはないものねだりでしかなかったということであろう。
■とりあえずの新党──「国民の生活が第一」
 その小沢が立ち上げた新党の名称が「国民の生活が第一」というのだから、恐れ入るしかない。国民の生活が第一などと言うのは、理念でも何でもない。政治家、政党ならあまりにも当然のことだ。「国民の生活が第一」などという政党名を見ただけでも、この政党の「消費税増税反対」を売り物に選挙で票を得ようという下心が透けて見える。
 だが国民はそのことを見透かしている。ほとんどの新聞の世論調査で、「期待しない」が8割超、「期待する」は1割超にしか過ぎない。
 これをとらえて、この新党の関係者は「支持率が10%を超えているということだ。野田政権の支持率が20%程度と比べても大変大きな期待がある」などと強弁している。聞いている方が、辛くなってくる。「期待」と「支持」という言葉の意味すら理解していないようだ。
 『大辞林』によると、「期待」とは、「よい結果や状態を予期して、その実現を待ち望むこと」とある。今回の場合だと、「まあ良い結果が出るように頑張ってください」ということであり、当然「期待はずれ」に終わることもある。
 では「支持」はどうか。「支えること」「他の人の思想・意見・態度などに賛成して援助すること」とある。「期待」と「支持」は、まったく違う。
 時事世論調査によれば、この8月の調査で「国民の生活が第一」の支持率は、わずか0.9%である。この政党より低いのは社民党と国民新党だけである。要するに、ほとんどの人が期待もしていないし、支持もしていないということだ。
 「国民の生活が第一」という民主党のスローガンは、子ども手当や高速道路無料化などの政策とも相まって、確かに国民の支持を受けた。しかし、国民から支持された最大の理由は、政権交代が間近に迫っていたからだ。自民党とは違う新しい政治が始まることに期待したからだ。
 だがこのスローガンを決めたはずの小沢一郎は、いったい「国民の生活が第一」になるように、どんな努力をしたというのだろうか。一時は、党の権限を幹事長室に一元化し、すべての権力が小沢に集中していたはずだ。「政策は内閣」と言いながら、小沢の関心があることには、遠慮なく介入した。ガソリン税の暫定税率もその1つだ。中国の次期主席習近平と天皇の会見もそうだ。
 民主党が政権に就いて以降、小沢一郎から国民の生活に関わることで重要なメッセージが一度でも発せられただろうか。私は知らない。小沢の関心の埒外だったからだ。国民を見くびってはならない。そのしっぺ返しは、必ず来る。そして、1年後にはこの政党はなくなっていることだろう。
■小沢がとるべき道は野田政権を支えることだった
 小沢が自民党を飛び出し羽田孜らと新生党(93年6月結成)をつくったときには、自民党の錚々たるメンバーが揃っていた。現在も活躍している岡田克也、二階俊博、渡部恒三、藤井裕久などもそうだった。
 新進党(94年12月結成)はさらに大所帯だった。その後、自由党になり勢力は小さくなるが、藤井、二階や野田毅、後に参議院議長になる扇千景、西岡武夫、元首相の海部俊樹らがいた。多くが1年生議員の「国民の生活が第一」とは、政党としての迫力が違う。
 何よりも大きな違いは、小沢の権威が失墜していることである。
 小沢が自民党を割って出たときには、多くの国民が拍手喝采した。自民党政治に倦(あぐ)んでいたからだ。「政治改革」という言葉が、新しい政治の誕生を予感させた。だから新生党も日本新党も、新党さきがけも躍進し、細川連立政権の誕生につながった。自民党政治、すなわち古い政治を終焉させるという大義名分があった。
 だが今回はどうか。自民党から民主党への政権交代が実現して、ちょうど3年だ。この政権交代の中心にいたのが民主党幹事長だった小沢である。民主党政権に一番責任を持たなければならないのが、誰あろう小沢一郎であるはずだ。
 小沢は、「消費税増税はやらない」というマニフェストを破ったと野田佳彦首相を責めている。では、鳩山政権はどうだったのか。公約通り普天間基地を県外に持っていったのか。なぜ小沢は、この鳩山由紀夫の責任は問わないのか。
 消費税増税を野田首相より先に打ち出したのは菅首相だった。この菅に小沢は代表選挙で敗北した。黄川田によれば、小沢は必死に菅降ろしを図っていたという。小沢にとって、鳩山政権と菅政権、野田政権の違いは何か。小沢が政権運営の中心にいたか、はずされたか、それだけのことだ。「国民の生活」などは、何の関係もない。
 鳩山、菅、野田という民主党政権3代の首相を比較したとき、最も安定感があって、信頼を寄せることができるのは野田首相だと、私は思っている。3党合意による消費税増税に、私は反対だが、それでもそう思う。自民党、公明党を引き入れたことで、最も悪い形の増税になったからだ。高額所得者への所得税増税の検討や社会保障制度改革を重視していた民主党案の方がはるかに良かった。
 自民党が領土問題での対応で野田政権を批判しているが、北方領土も、竹島も、尖閣も、すべて自民党政治の悪しき遺産だ。自民党に批判する資格などない。8月24日の野田首相の領土問題での会見は、中韓双方の誤りを毅然とただしたものであった。
 次の総選挙で民主党が中心の政権ができる可能性は、極めて低い。それでも野田政権を必死に支えるのが政党人というものであろう。消費税増税について言えば、小沢もいずれは必要と言っている。消費税を廃止しようという共産党とは違う。小沢と野田首相の間にさしたる違いなど、そもそもない。
 自分が中心になってつくった政権を、自分がはじき出されたから潰す側に回るなどというのは、私怨に過ぎない。人間である以上、私怨はつきまとう。だがそれが表に出てしまっては、もう終わりである。小沢一郎の政治家としての命脈は、もはや尽きたと断言するしかない。
■剛腕伝説の終焉
 ここまで小沢一郎に厳しい評価を加えてきたが、かつてはその小沢を私は高く評価してきた。小沢の著書『日本改造計画』(講談社)は、冷戦終結後の世界と日本を見据え、日本の政治のあり方や社会のあり方を鋭く提起したもので、小沢への期待を大きく高めた。
 同書は、新保守主義の立場に立ったもので規制緩和や民営化路線を強く打ち出したものであった。だがその路線は、小泉純一郎によって実行に移された。その途端に、小沢は新保守主義の立場をかなぐりすて、「国民の生活が第一」などと言い出した。「主義」などというものではなかった。対立相手が新保守主義の立場に立てば、自分はそれに対抗する立場に豹変するということに過ぎなかったのである。
 銀行への公的資金投入が大問題になった98年の金融国会でも、当初、菅が代表を務める民主党と小沢が代表を務める自由党は、野党共闘を行い、自民党の公的資金投入法案である金融再生法案に反対していた。だが菅が「政局にしない」と述べ、自民党に民主党案を「丸のみ」させるや否や、小沢は民主党との共闘路線を投げ捨て、自民党との連立に舵を切り、与党入りを果たした。
 いまも大阪維新の会との連携を果たすため、橋下徹の道州制など統治機構の改革提案に秋波を送っている。この改革と「国民の生活が第一」がどう整合するのか、何の説明もない。
 要するに対立相手が「黒」と言えば、「白」と言う。「増税」と言えば、「無駄をなくせ」と言う。それだけのことである。
 自民党を2度にわたって野党に転落させた「剛腕」ぶりが、小沢のカリスマ性を形成してきた。これに私も目を狂わされたのかもしれない。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」だったのだろう。(文中敬称略) *リンクは来栖
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<来栖の独白2012/9/10 Mon.>
 筆坂秀世氏のコラムに接し、筆坂秀世という元政治家を私は買い被っていたようだ、というのが最初の印象である。松田賢弥という未だ素性のはっきりしない記者の『週刊文春』の記事を素直に信じ込んで、このようなコラムをものすのも、そそっかしい。大方が茶番、捏造と判明した小沢「裁判」、その書類については、1行も読んでおられないようだ。
 私の場合は、文春の当該記事に、真偽を含めて相当悩まされた。
 まず、掲載されていた手紙であるが、これが第3者の手(筆跡)になるものと思えなかった。和子さんご自身のものと直感した(後日の筆跡鑑定で、数万分の1の確率で夫人のものと結論された)。
 次に、夫人の手になるとはいえ、書かれている内容には如何にも品がなかった。小沢一郎氏ほどの人物を支えてきた人であり、上智大学卒、福田組の令嬢という人がこのような手紙を書くだろうか、と悩まされた。「せめて離婚の慰謝料を受け取ったら岩手に義捐金として送るつもりです」などと、庶民的なことを書いておられる。
 「筆跡」と「内容」という真偽のはざまで悩む私に、すっと訪れて教えてくれたのは、2012年6月25日発売の『週刊ポスト』2012/7/6号、【小沢家の悲劇「妻・和子の手紙」の真相】であった。それによれば、夫人は心を病んでいた。本来伸びやかで細やか、姑にも献身的であった夫人の精神は、小沢氏に対し日本中(司法・官僚・メディア・・・)から加えられる長年にわたる「人物破壊」(カレル・ヴァン・ウォルフレン氏)という暴力によって破綻していた。
 私は、いわゆる「精神を病む」人と、ごく身近に付き合ってきた。というよりも、一緒に生きてきた。犯罪に手を染めた人もいた。痛ましくて、どうしてあげることもできず、ただ一緒に泣くしかなかった。傍にいて、その涙を見るしかなかった。人間だった。人間の涙だった。
 「雑誌に掲載された手紙だけで何がわかるか」と揶揄されるかもしれないが、和子夫人の傷んだ、傷められた胸の裡が些かにせよ、分かるような気がする。
 そして、小沢氏の辛さも、わずかでも、分かるような気がする。『週刊ポスト』2012/7/6号は、偏らない筆致で次のように書く。
その頃でも小沢は、毎夜9時過ぎには自宅に帰ることを決め事にしていた。和子との会話はほとんどできなくなっていたが、それでも、指呼の間にいる和子が昔日のように「パパ!」と声を掛けてくるかもしれない。そんな期待も秘めていたのだろう。” *強調(着色)、リンクは来栖
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小沢家の悲劇「妻・和子の手紙」の真相 週刊ポスト2012/7/6号(2012年6月25日発売) 2012-06-25 | 政治/検察/裁判/小沢一郎/メディア 
 週刊ポスト2012/7/6号(2012年6月25日月曜日発売)

          

 政治家とて人間である。人に知られたくないプライバシーもある。それが政治家としての資質や政治活動の理非曲直に関わるのであれば、国民にはそれを知る権利がある。報道が社会の木鐸として政治家の私生活を取材することは悪ではない。
 ただし、政治家のプライバシーが公共の問題たりうるという名分をいいことに、政治謀略や個人攻撃の材料にすることは許されない。そう思う。日本の権力構造に詳しい政治学者のカレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、政界、マスコミ界、さらには司法界まで一体となった小沢一郎氏への個人攻撃を「人物破壊」と指摘し、世界の政治史に残る重大な汚点だと厳しく論難した。
 消費増税、原発再稼働、さらに政界再編の胎動が重なったこのタイミングで小沢氏に降りかかった夫婦の重大問題は、それだけ見れば報道に値するテーマであるとしても、なぜそれが「今」なのか、「小沢」なのかを考えると、背景に見え隠れする日本のグロテスクな権力の暴走を看過するわけにはいかない。
 政治の節々に結節する小沢問題。小沢に何が起きたのか、政治謀略に終止符を打つ真実をここにレポートする。(文中敬称略)

小沢を苦しめた和子の変調
 今から数週間前、小沢和子から1通の書簡が小沢に届けられた。文面を一読した小沢は、
「来るべきものが来た」
 と覚悟を決めたに違いない。政治家として、あるいは一個人としても、小沢は親しい者によくこう語る。
「俺は人として、男として、妻と家族を守る事を第一に考える。家族を守り、そして地域社会を守り、その延長線上で国家を守ることが政治の根幹でもある」
 その信条からして、書簡は小沢に忸怩たる思いを抱かせるものだった。関係者らの話によれば、和子からの慰謝料の協議を求める内容と思われる。
 それはつまり、法的に離婚手続きが取られた事を意味している。
 実は小沢は数年ほど前から離婚の問題を妻・和子に委ねていたという。本当に離婚の意思があったかは余人の知るところではない。そうすることで、一時は和子も心の平穏を取り戻したかに見えた時期があり、夫婦の関係は小康を保っていたらしい。
 小沢は人知れず苦しんできたと思われる。ある時は、こんな言葉を吐いた。
「すべては俺の不徳だ。妻を守れない。家族を守れない。そんな人間が、何の政治家であるものか。天下国家を語れるものか」
 聞く者には苦悶に満ちた自問自答の苛烈な心象風景を思い浮かべさせる。小沢を近くで見てきた者には驚くべき変調と映った。家族、コミュニティ、国家を守ることを同心円の問題と語ってきた小沢にとって、一見、筋の通った話にも聞こえるが、しかしこれまで、どんなに自分や家族がマスコミの集中砲火を浴びても、事実でない誹謗中傷を浴びせられても、天下国家のためには耐え忍ぶしかないとしてきた小沢の態度とは明らかな段差を感じさせた。
 小沢の変調は、和子の変調と軌を一にしていた。
 家族愛に燃え、政治家・小沢を支える一点に人生を懸けてきた和子との二人三脚は大きく歪み、音を立てて崩れ、その度を深くしていたのである。
 何があったのか。その始まりは和子の「もうひとつの家族愛」と無関係ではなかっただろう。小沢との間に生まれた3人の息子と同じように、親同然に愛してきた実弟(福田実・福田組社長)が、03年、癌で突然この世を去ったことと符節を合わせている。54歳の若さだった。続くように実父・正も09年逝去。和子は激しく動揺した。
 最愛の肉親を2人失った寂寥感、心の空洞を小沢にぶつけたとしても、それは責められるべきことではないだろう。多くの女性にとって、親を失う時期は、心身の変調に苦しむ人生の壁と重なる。そこに愛する弟の死が重なり、心のありようや家族の形にも変化が生まれることは、どの家庭にも起こり得る。
 小沢と和子の間で、どのような衝突、格闘があったかは、すぐれてプライベートな問題だ。そこに踏み込むことは報道としても意味をなさないが、結果として、数年の時間を掛けて2人の関係は修復できないものになってしまった。
「別居」と政権奪取の狭間
 和子の変調は小沢の地元や支持者の間では早くから知られていた。
 それまでの和子は、永田町での活動に集中する小沢の代わりに、文字通り「金帰火来(きんきからい)」で毎週のように選挙区に帰って、いわゆる「票田の草刈り」に没頭した。後援会を切り盛りし、有権者の声を聴き、それを小沢に伝えた。小沢も和子を政治的にもかけがえのないパートナーと頼り、和子が岩手から戻ってくる日には、いつも利用していた夜10時着の新幹線を東京駅で迎えることが習いとなった。
 一方で、これも多くの家族が抱える問題として、小沢の母・みちと和子の微妙な関係も存在した。みちは夫・佐重喜、そして息子・一郎を支えた鉄壁の後援会を築き上げた原動力だった。その自負と小沢への愛が、あるいは和子を嫁として迎える心のハードルになっていたのかもしれない。
 やがて、みちが病に倒れてからは、後援会を支える重責は和子の双肩にかかり、和子はその役目を見事に果たしたが、病床のみちは和子を完全に受け入れはしなかった。その献身的な看護を拒否することもあったという。時には医療スタッフの世話さえ善しとしない頑迷さを見せたとされる。
 当時、若き自民党幹事長として飛ぶ鳥落とす勢いだった小沢は、妻と母の確執の間で、母の介護という難題も抱えることになった。時には、小沢自ら母の口に食事を運ぶこともあった。
 みちは95年に他界した。
 それからの和子は、小沢王国の大黒柱として駆け回ったが、その頃から政界、マスコミ界の絨毯爆撃のような小沢への人物破壊が激しさを増し、和子の使命感や誇りにも影響を与え、心身の屈折を生じさせたようだ。
 和子の言動に変化が生じてきたことは、家族だけでなく、後援会でも心配の種になった。日に日に変わっていく姿に周囲の心痛は大きかったに違いない。小沢にも悔恨が沈殿していった。時にはありもしないことを口走り、根も葉もない中傷と知る噂で小沢を激しくなじることもあったという。
 自分の内面、ましてや家庭の“阿鼻叫喚(あびきょうかん)”の様を語ることなどありえない。内なる葛藤を抱えながら小沢は政権奪取にひた走った。それを止めることは誰にもできない。それこそ小沢における政治家の摂理なのだ。夫婦の関係は難しくなるばかりだった。
 やがて和子は世田谷区にある小沢邸の敷地内に別棟を建て、そこで生活するようになった。それが「別居」と報じられたこともある。
 和子は、あんなに心血を注いできた後援会活動にも、実弟が亡くなった10年ほど前から、ぷっつりと姿を見せなくなって家に閉じこもるようになった。これは後援会関係者なら誰もが知る事実だ。「小沢家の問題」を取材するマスコミも、きちんと地元に行けば簡単に確認できるはずである。
 その頃でも小沢は、毎夜9時過ぎには自宅に帰ることを決め事にしていた。和子との会話はほとんどできなくなっていたが、それでも、指呼の間(しこのかん)にいる和子が昔日のように「パパ!」と声を掛けてくるかもしれない。そんな期待も秘めていたのだろう。
 しかし現実の和子は、ますます猜疑心や妄想にとらわれるようになり、最も信頼している次男以外の言葉は受け入れないほどに憔悴を見せるようになった。いきなり秘書に小沢のスケジュールを詳細に報告させ、その立ち寄り先に片端から連絡して、「小沢は本当にそこに行ったのか」と詰め寄る異常な行動が周囲を驚かせる“事件”も起きた。
 次男と小沢の関係にも暗雲が立ち込めた。和子の心を救いたいと、実家である福田家の関係者が話し相手になって支えた時期もあったが、そうした努力は誰の目にも不毛で、和子を訪れる人は少なくなっていった。
 父と母、父と弟の間に立って辛苦を引き受けてきた長男も、ついに家を出る決心をした。
 そして小沢は、求められるまま和子に離婚のフリーハンドを与えた。家族の絆を取り戻すことはますます難しくなった。
「手紙」に書かれた数々の矛盾
 半年ほど前、小沢後援会の婦人部の何人かに、「小澤和子」から手紙が届いた。
 すでに『週刊文春』が報じ、その直後に何者かが文面のコピーをネットに広く流出させたものだ。そこには小沢への激しい非難と離婚の事実が綴られていた。
 手紙が和子の手によるものか真贋はわからない。書かれた内容には、明らかに事実ではないことも多い。
 数年間、「別居」していた和子が「小沢邸での政治密談」を暴露してみせたり、小沢家の所有する不動産に関する記述が間違っていたりと、少なくとも正常な判断ができる状態なら書かない内容が多く見られる。かつて一部の新聞、通信社が「スクープ」と報じ、事実は違った「総選挙で小沢が京都から出馬する」という捏造情報をそのまま書いていることも不自然だ。
 人物破壊に加担する多くのマスコミは、手紙の内容を確認しないまま事実であるかのように報じているが、それを信じる国民の間で最も批判の強い「大震災の際に放射能を恐れて逃げようとした」というくだりは明らかに常軌を逸している。なぜなら、震災の少し前から和子の変調は激しくなっており、現在まで1年以上も小沢と会話も交わせない状態が続いているからである。放射能から逃げる、逃げないで小沢と揉めたという記述には疑問がある。
 そもそも手紙では、放射能から逃げたい小沢が地元には近づこうとせずに「長野の別荘地」に避難場所を購入したというのだが、仮に「別荘地」が軽井沢だとすれば福島第一原発からは約250km、ちょうど岩手県都・盛岡までと同じ距離である。さらに震災後に千葉で釣りに興じたという記述もあるが、これも東京より原発に近く放射線量も多い地域なのだから、事実とすれば小沢の行動はあまりにも支離滅裂である。
 付言すれば、現実には震災直後の小沢は地元対応に寝る間もなかったようだ。これもマスコミは知り尽くしているはずだが、地元・岩手は、達増拓也・知事はじめ県政中枢部に小沢派が多い。彼らが震災対応で小沢に刻一刻と報告を入れ、政府への橋渡しや支援を要請していたことは誰でも想像できるはずで、実際、県政関係者はそう本誌に明かしている。しかし、人物破壊勢力は、あえてそうした常識的な判断から目を背け、確認取材もしないまま「和子の手紙」を事実として垂れ流すのである。
 また、「離婚した」としながら、旧姓の「福田和子」ではなく「小澤和子」と署名していることも奇異な印象を与えていた。
究極の狙いは「骨肉戦争」?
 ある後援会の関係者は、書かれた内容そのものより、和子の心がそこまで深刻な状態になってしまったのかと衝撃を受けた。また、達筆で知られた和子の直筆にしては、あまりに筆が乱れていること、さらに内容がこれまで小沢への攻撃材料にされた”疑惑”をなぞるように書かれていたことから、「何者かが捏造したものではないか」と疑う関係者も少なくなかった。
 ただし、事実として明らかなのは、冒頭に書いたように和子が小沢との離婚を決意し、慰謝料の協議を申し入れたことだ。その点で、手紙には重要な部分で真実が書かれている。
 人物破壊を進める勢力にとっては百万の味方を得たようで、欣喜雀躍とする様子を隠そうともしない。
 手紙が報じられる2週間ほど前、人物破壊の工作に深く関与してきた政界関係者が、「いよいよ小沢を潰す時がきた。息の根を止めるものすごい情報が近く報道される」と、一部政界関係者に触れ回っていた事を本誌は確認している。そして前述のように、報道の直後から、タイミングを計ったように文面のコピーがネットに流出した。政界でよく見る怪文書による「紙爆弾」の手法である。
 手紙の内容にも、この紙爆弾の性格を窺い知るヒントがある。
 なぜ、数年来、没交渉だった後援会に宛てられたのか。また、「慰謝料を取れば、それを岩手に寄付したい」と書かれたのか。
 ある後援会関係者は、「これは小沢家の悲劇の始まりになるかもしれない」と苦痛の表情を見せた。
「書かれた内容は後援会の人間ならデタラメがほとんどだとわかるものだが、和子さんと、それを支える次男が小沢先生に反旗を翻している事実は変わらない。誰かに唆されて書いたものか、あるいは捏造されたものかにかかわらず、私たちが心配するのは、このアクションが後援会と地元に向けられた点だ。家族の問題で小沢先生の政治生命に打撃を与えようという意図がはっきり出ている。それを望む人たちは、例えば次男や和子さん自身を小沢先生の対抗馬として擁立して泥沼の骨肉戦争をさせるなどして、小沢先生を決定的に痛めつけようとするかもしれない。
 そうなっても、たぶん小沢先生は家族と争うことはしたがらないだろう。引退とは言わないかもしれないが、ある意味では検察の捏造した政治資金問題以上に苦しい問題になる」
 その懸念が現実になるかはわからないが、離婚が事実である以上、そして政治資金問題がマスコミや権力者による捏造だったと判明した今、家族の問題が人物破壊の主要テーマになっていくことは間違いなさそうである。すでに、新聞、テレビニュース、ワイドショー、果ては国会での野党質問にまで「和子の手紙」は利用され尽くしている。
 妻や息子から恨まれる小沢は、本人が言う通り不徳のそしりは免れないかもしれないが、その家族の問題さえ、執拗で容赦のない人物破壊の結果だったという面が否めないことは、まさに悲劇である。
 この国の政治と権力のどす黒い醜態は、ウォルフレンが言うまでもなく、世界の日本不信の根本原因になっている。それに振り回される有権者、国民もまた悲劇の当事者である。
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小沢一郎「妻からの「離縁状」全文 週刊文春6月21日号 2012-06-15 | 政治/検察/裁判/小沢一郎/メディア
 小沢一郎「妻からの「離縁状」全文公開 週刊文春6月21日号
「愛人」「隠し子」も綴られた便箋11枚の衝撃 (ジャーナリスト松田賢弥+本誌取材班)

          
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小沢一郎氏「お見舞いに歩くのが政治家の仕事なのか?お悔やみを申し上げるのが政治家の仕事なのか?」 2012-01-05 | 政治/検察/裁判/小沢一郎/メディア 
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大震災被害対策「小沢一郎さんの計らい・小沢力」が有効に働いている/仙台空港=小沢側近・弟子が奔走 2011-04-25 | 地震/原発/政治 
東日本大震災津波・岩手からの報告
日本一新の会 達増拓也(岩手県知事)
 「日本一新メルマガ」への投稿は、大震災津波後、初めてになります。岩手県や県内被災地に対し、全国から、世界から、多くの支援、お見舞い、激励をいただいています。この場を借りて、感謝申し上げます。
 また、大震災で犠牲になられた方々、その関係者の方々に、心からの哀悼の意を捧げます。
 発災翌日の3月12日、岩手県選出参議院議員である平野達男内閣府副大臣が、23人の事務方と共に岩手入りし、岩手県庁内に政府の現地連絡対策室を立ち上げました。事務方は、内閣府の防災担当参事官の下に各省庁の若手で構成。県庁内には、11日のうちに自衛隊の連絡窓口もでき、その後、北東北3県を管轄する第9師団の司令部が青森市から岩手県庁に移されました。
 これにより、発災当初から、被災地が直面する課題について国と地方自治体の職員が共同で解決する体制ができました。同じころ、県は、停電と通信途絶の中で、12の沿岸市町村全てに本庁職員を派遣して、状況を把握し、初動を支援しました。市町村と、県と、国の各省庁がつながって、人命救助、避難、応急復旧、被災者支援を展開しました。避難所のケアは、自衛隊に負うところ大です。
 工場で研修をしていた中国人が多数被災したので、外務省の中国語ができる職員にすぐ来てもらいました。被災市町村の行政機能が大きく損なわれており、県や他市町村からの大規模な支援が必要だということで、市町村行政に詳しい総務省職員に来てもらい、支援体制作りを手伝ってもらいました。その他にも、いろいろと、現場の要請で各省庁に動いてもらいました。後に政府が決めた被災地支援策のかなりの部分は、市町村、県、各省庁の事務方の「現場力」で作り上げたといえます。
 ガソリンなどの燃料不足が長く続いた件は「現場力」では対応しきれず政府による全国的な調整力と指導力の不足がたたりました。なお、宮城県の政府現地連絡対策室担当の東祥三内閣府副大臣が岩手の被災地入りした時に、仮設ガソリンスタンドの設置を現地で決めてくれ、すぐ実行されたのは助かりました。
 「政治主導」を感じたのは、がれきの処理です。樋高剛環境政務官が政府のがれき処理プロジェクトチームの座長となり、関係省庁の事務方を糾合し、平時であれば1年かかるような省庁間調整を2、3日で終わらせました。阪神淡路大震災時を上回る財政措置も決まりました。がれき問題は被災市町村長が抱える最大の悩みの一つであり、大いに助かりました。樋高政務官は、中選挙区時代に小沢一郎秘書として陸前高田市などの今回の被災地を担当しており、かつて一軒一軒歩いた家ががれきとなってしまった、そのがれきの問題は何としても解決しなければならない、と言っていました。
 発災直後、私が被災地の市町村長さん達にお願いしたのは、住宅地図で一軒一軒確認するように被害状況を把握すること、名簿をしっかり作って住民の安否状況を把握すること、でした。住宅地図と名簿は、小沢一郎さんに習った選挙手法でもあり、災害対策本部長の仕事は選挙対策本部長の仕事と共通点がある、と思いました。
 また、私は津波の被害を受けなかった内陸の市町村長さん達に集まってもらって沿岸支援への協力をお願いし、さらに、県内の諸団体に被災地支援をお願いする文書を作って協力を依頼しました。目的を達成するために、より多くの団体、企業、個人の支援を取り付けていく、というのも選挙の手法に似ています。選挙において有権者の力を結集して為すべきことを実現する手法は、災害においてあらゆる力を結集して被災者を救う手法と共通するのです。
 ちなみに、団体対策に強い自民党本部は今回の災害でも動きがよく、経団連と被災県を直接結ぶホットラインは、経団連の機関紙で喧伝されていますが、自民党災害対策本部が仲介してくれたものです。
 がれき処理で財務省が前例のない財政措置を認めたのには、小沢一郎さんのはからいがあったと思います。小沢一郎さんが岩手入りした時、私との会談では「県は補正予算でいくら確保したか」とか「国の本予算には○兆円の予備費があるから、まずそれを使えばよい」とか、財政的な話が中心になりました。財務省筋から、かなり情報を得ており、また財務省に対してかなり影響を及ぼしているな、という印象を受けました。がれき処理以外でも、財務省が前例のない財政措置を認めた分野がいくつかあります。
 私は、平安時代の中央政府による東北平定の歴史を踏まえ「東祥三さんは宮城駐在の征夷大将軍、平野達男さんは岩手駐在の鎮守府将軍。今回は地方勢力と力を合わせて東北の平安のために働いていますが、小沢先生こそ2人の将軍の上にいる大将軍だと思っていますからね」と言いました。小沢一郎さんは、「はっはっは」と笑うだけでしたが、本人も大将軍的な立場を自覚していろいろ手を打っているのだな、と私は感じました。
 それから、仙台空港を在沖縄米軍が片付けたのは、新進党から自由党のころに小沢側近と呼ばれていた元衆議院議員の米津等史さんの働きかけによるものだったようです。米津さんは普天間問題の関係で在沖縄米軍と一緒に仕事をしており、大震災津波後、仙台空港が放置されているのをテレビで見て、在沖縄米軍に片付けられないかと持ちかけたところ、じゃあやろう、ということになった由。ここでも小沢一郎の弟子が奔走していました。
 大震災津波そのものによる被害への対策については、「小沢力」がかなり有効に働いていると思います。しかし、今のままでは、「小沢力」が全く生かされないのが、原発対策です。本人も、そこが一番もどかしいと感じているのではないでしょうか。 *太字(強調)は、来栖
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前原誠司外相辞任と『誰が小沢一郎を殺すのか?』〈カレル・ヴァン・ウォルフレン著〉 2011-03-07 | 政治/検察/裁判/小沢一郎/メディア 

          

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『誰が小沢一郎を殺すのか?』の著者カレル・ヴァン・ウォルフレン氏と小沢一郎氏が対談〈全文書き起こし〉 2011-07-30 | 政治/検察/裁判/小沢一郎/メディア
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未曾有の大震災の直前に小沢一郎を排した、この国の不幸/小沢一郎の日本再造計画2011-05-05 | 政治/検察/メディア/小沢一郎


2 コメント

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Unknown (ゆうこ)
2012-09-11 12:13:19
田中洌様
 コメント、ありがとう。同感です。
 昨日、松下金融相が自死しましたね。12日発売の「週刊新潮」に大臣の女性スキャンダルが掲載されるとか。こんなことばっかりやってる週刊誌、メディアです。
 革命しかないですが、全ての権力が小沢氏を葬ろうとして過ぎた歳月、小沢氏は病気を抱え、70代になりました。http://blog.goo.ne.jp/kanayame_47/e/48ed049043a2758e74706ec66acff699
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Unknown (田中洌)
2012-09-10 19:05:03
小沢一郎か。会って(飲んで)はなしたことはないが、飲んでみたいやつのひとりだ。やつの別荘でよく飲んだダチによると、彼は「革命」に命をかけているそうだ。
革命というのがいいね。このままではどこまで行ってもダメだ。革命しかないね。
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