旧日本軍原爆開発 端緒の報告書 核分裂 爆弾へ転用言及
中日〈東京〉新聞2012年8月16日 朝刊
戦時中に旧日本陸軍が原爆開発に取り組むきっかけとなった報告書のコピーを本紙は入手した。原文を作成したのは当時、原子核物理の第一人者だった理化学研究所の仁科芳雄主任研究員(一八九〇~一九五一年)。原爆開発について「強力なる爆弾として用いられる可能性あり」などとし、ウランの必要量や破壊力の計算など具体的な製造方法にも言及していた。
報告書の存在は知られていたが、それを裏付ける資料が見つかったのは初めて。
コピーは「仁科芳雄往復書簡集」の編集に携わった学習院大の江沢洋名誉教授(理論物理学)が保管していた。理研は四一年に、陸軍航空技術研究所から原爆開発の可能性に関する研究の委託を受け、仁科主任研究員はその責任者を務めていた。
報告書は四三年三月、陸軍に二年間の研究成果として提出された。
全部で七ページで、結論に相当する判決欄に「原子核分裂によるエネルギー利用の可能性は多分にあり」と明記。続く所見欄で「連鎖反応はいったん起これば極めて短時間に進み、莫大(ばくだい)なるエネルギーを放出する」と記述し、原子力が爆弾に転用できる可能性に言及した。
三十一キログラムの水に濃縮ウラン十一キログラムを混ぜた場合、「普通の火薬一万トンのエネルギーに相当する」との計算も書いてあった。
当時の陸軍大佐が残した手記によると、報告を受けた東条英機首相は「この戦争の死命を制することになるかもしれない。航空本部が中心となって促進を図れ」と命令。これを受け、四三年九月、原爆開発は陸軍直轄の極秘研究となった。
仁科主任研究員が引き続き開発責任者となり、研究は「仁科」の姓を取って「ニ号研究」の暗号名で呼ばれた。研究は終戦二カ月前の四五年六月まで続けられたが、ウラン濃縮の失敗や必要な天然ウランを確保できず、挫折した。
原爆開発をめぐっては、核分裂反応に伴うエネルギーの発見を契機に、第二次世界大戦が始まった三九年ごろから米国やドイツで研究が進められていた。