咲くや うららに 2021.3.17

2021-04-04 | 日録

 風 来 語(かぜ きたりて かたる) 
 主筆 小出寛昭
 中日新聞 2021.3.17 朝刊

 咲くや うららに

 春らんまん。野山に満開の桜が広がり、青空に向かって背伸びをしたくなる季節の到来だ。
 きのうまで灰色の空と寒風の下でじっと耐えてきた草木が、色とりどりにお化粧をほどこし、鮮やかに世界を一変する。草かんむりに化けると書いて「花」の字が生まれたゆえんだろう。
 その驚きは、コロナ禍でへたりこんだ私たちの心まで感動に弾ませる。花の持つ不思議な力を、明治の思想家・岡倉天心はこう記している。(英文・茶の本)。
 花は食料にもならない。物づくりの材料にもならない。にもかかわらず、人は花を飾って輪になって踊り、花を飾って歌を歌い、花を飾って結婚式をあげる。そして人は、花がなければ死ぬこともできない。役に立たないものが役に立つ。無用の用の典型なのだ。
 この一年。卒業式、入学式、結婚式、葬儀、音楽会、パーティーなど、花が会場を彩る集いを「不要不急」としてことごとく退けてきた私たちの乾いた心に、満開の桜は慈雨のごとく染み渡る。
 江戸時代の国学者・本居宣長は、こんな歌を詠んだ。

 しき嶋の やまとこころを 人とはば 朝日ににほふ 山さくら花

 桜は日本人の心なのだとした宣長は、遺言書の中で「わが墓には花ぶりよき山桜を一本植えよ」と絵まで描いて指示している。三重・松阪にある宣長の墓の遅咲きの山桜は、ことしも、4月下旬ごろ清らかな花を咲かせるだろう。
 桜の語源は数多くあるが、私は大言海の「咲麗(さきうら)」が好きだ。うららかに咲き、時を得て、しおれることなく美しく散る。その潔さが歌になるが、奈良時代の万葉集では、梅の歌の方が桜より3倍も多い。それが平安朝の古今集では桜の歌が70首、梅は18首と逆転、新古今では桜が85首に梅は17首と、日本の春は、まさに桜となった(山田孝雄「桜史(おうし)」)。
 木や花は体のほとんどが水だから、水中では空気中より4倍もの速さで伝わる音に敏感だという。野山の桜は、小鳥のさえずりや小川のせせらぎで春を知るのだろう。満開の桜に、マスクを外して「ありがとう」と言ってみようか。(2021.3.17)

 ◎上記事は[中日新聞]からの書き写し(=来栖)


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