よるべきはなにもなし 死刑と万博
作家 辺見 庸
夜ふけに目ざめて夢がとぎれた。そんなこともあるのだろうか、言葉の夢であった。だから、見たというのではなく、あらましは夢におもったのだ。寒天のように芯のない文言だった。「すべてありうる。なんでも起りうる」。その次は、さて、なんだったか。年ふるにしたがい記憶すべき言葉と景色がふえつづけ、頭蓋からあふれるそれらは首筋から背骨をつたい、あるいは寝床へ、あるいは街路へ、ボロボロとこぼれていく。犬にひろい食いされる。すべてがありうる。なんでも起りうる。なにが起きようといまさら驚きはしない、と夢におもった。朝ぼらけ、カーテンのすき間からうすい血の色の光が流れこんでくる。のどに詰まった栓がぽんとぬけて、つづくべき言葉が浮きだしてきた。「よるべきものはなにもない」。しかし、言葉がさきにあったのではない。あらかじめ事実があった。そして事実が無意識の消し炭を熾し、後にであった言葉がそれを無意識に刻したのだ。「よるべきものはなにもない」と。
ところは中国であった。「すごい」という、ほとんど無意味な形容詞は、日本のごときちゃちな日常ではなく中国という絶大な時空の万象にもちいてこそ適切である。そこには人の世のあらゆる質と形のものすごい醜さと欲と、ただちに「醜」と互換できるだろう「美」と裏切りのすべてが、昔もいまも凡人の想像をはるかにこえてあったし、ますます過剰にありつづけている。「社会主義制度は、とどのつまり、資本主義制度にとってかわるであろう。これは人びとの意志によって左右できない客観法則である」。いまとなっては中国紙幣に刷り込まれた人物とのみ象徴的にイメージされる毛沢東は53年前、ソ連最高会議で演説して冗談ではなくそう予言した。それだけでなく、現実を予言にあわせようと毛指導下の共産党は気が遠くなるほど多くの“反党・反社会主義分子”を拘束し死にいたらしめた。毛沢東の死後も死刑は毎日のようにせっせとつづけられている。
そのことと中国が世界にほこる北京五輪や上海万博にはなにもかかわりがないのだろうか。華やかな五輪の会場となった施設のなかには、かつてはスポーツだけでなく大がかりな人民裁判や見せしめのための公開処刑場としてもちいられたスタジアムもあった事実を当局は開示せず、人びともまたあえて知りたがらない。さしもおびただしい血を吸ったスタジアムの土には人工芝がかぶせられ、歴史は新しいペイントで幾重にも塗りかえられていく。すべてがありうる。なんでも起りうる。古い血のにおいは、日本の戦前・戦中史もまったくそうなのだが、新たな塗料のにおいに覆いかくされる。古い死の痕跡は年ごとにうすまっていく。現在の慶事が過去の弔事をなかったことにしてしまう。毛沢東の紙幣はいま、貧者を犠牲に世界資本主義を牽引している。よるべきものはなにもない。
麻薬密輸罪により中国で死刑宣告された日本人4人にこの4月、刑があいついで執行された。めでためでたの万博前に、厄介ごとが「中国の法にもとづき」刑核的に処理されたのはうたがいない。案にたがわず人びとは史上最大規模だというエキスポをうちよろこび、壮大な書き割りにひとしい陽画で死刑の陰画をかき消した。しがない個人の想像というやつは、ところがどっこい、それでおさまるというものでない。昨年の中国の死刑執行数は例年よりだいぶ減ったとはいえ、千人とも2千人以上ともいう。とすれば、万博パビリオン建設にあわせるように中国人への死刑執行ラッシュはすごい数にのぼったのではないか。電線泥棒たちをも銃殺刑にした国である。いわんや麻薬密輸の重罪においておや、ということか。国内法にのっとった死刑の執行に外国が口をはさむ権利はないというのか。鳩山首相は日本人死刑執行につき「(両国関係に)影響がでないように国民も冷静につとめていただきたい」とコメントした。この人の口舌はことごとに空しい。
同じ麻薬密輸罪で英国人に死刑が執行されたときブラウン英首相は「最大級につよい言葉で非難する」と猛反発した。そうできない日本のわけは、刑執行の多寡をべつにして、中国同様に積極的な死刑制度保持国家だからである。人の命や生活の質よりも党と国家を優先するアジア的思考の祖形が日中間にあってはさほどに大きくはことならないのかもしれない。すべてありうる。なんでも起りうる。よるべきものはなにもない・・・は上海万博のキャッチコピーではない。ラーゲリ(ソ連強制収容所)で静かにはやったという詩のかけらだ。資本のラーゲリにだってなんでもある。が、よるべきはなにもない。
◆ 「死刑と万博」
◆中国:武田輝夫・鵜飼博徳・森勝男死刑囚、8日家族と面会 ◇アジアの16カ国、薬物犯罪で極刑
作家 辺見 庸
夜ふけに目ざめて夢がとぎれた。そんなこともあるのだろうか、言葉の夢であった。だから、見たというのではなく、あらましは夢におもったのだ。寒天のように芯のない文言だった。「すべてありうる。なんでも起りうる」。その次は、さて、なんだったか。年ふるにしたがい記憶すべき言葉と景色がふえつづけ、頭蓋からあふれるそれらは首筋から背骨をつたい、あるいは寝床へ、あるいは街路へ、ボロボロとこぼれていく。犬にひろい食いされる。すべてがありうる。なんでも起りうる。なにが起きようといまさら驚きはしない、と夢におもった。朝ぼらけ、カーテンのすき間からうすい血の色の光が流れこんでくる。のどに詰まった栓がぽんとぬけて、つづくべき言葉が浮きだしてきた。「よるべきものはなにもない」。しかし、言葉がさきにあったのではない。あらかじめ事実があった。そして事実が無意識の消し炭を熾し、後にであった言葉がそれを無意識に刻したのだ。「よるべきものはなにもない」と。
ところは中国であった。「すごい」という、ほとんど無意味な形容詞は、日本のごときちゃちな日常ではなく中国という絶大な時空の万象にもちいてこそ適切である。そこには人の世のあらゆる質と形のものすごい醜さと欲と、ただちに「醜」と互換できるだろう「美」と裏切りのすべてが、昔もいまも凡人の想像をはるかにこえてあったし、ますます過剰にありつづけている。「社会主義制度は、とどのつまり、資本主義制度にとってかわるであろう。これは人びとの意志によって左右できない客観法則である」。いまとなっては中国紙幣に刷り込まれた人物とのみ象徴的にイメージされる毛沢東は53年前、ソ連最高会議で演説して冗談ではなくそう予言した。それだけでなく、現実を予言にあわせようと毛指導下の共産党は気が遠くなるほど多くの“反党・反社会主義分子”を拘束し死にいたらしめた。毛沢東の死後も死刑は毎日のようにせっせとつづけられている。
そのことと中国が世界にほこる北京五輪や上海万博にはなにもかかわりがないのだろうか。華やかな五輪の会場となった施設のなかには、かつてはスポーツだけでなく大がかりな人民裁判や見せしめのための公開処刑場としてもちいられたスタジアムもあった事実を当局は開示せず、人びともまたあえて知りたがらない。さしもおびただしい血を吸ったスタジアムの土には人工芝がかぶせられ、歴史は新しいペイントで幾重にも塗りかえられていく。すべてがありうる。なんでも起りうる。古い血のにおいは、日本の戦前・戦中史もまったくそうなのだが、新たな塗料のにおいに覆いかくされる。古い死の痕跡は年ごとにうすまっていく。現在の慶事が過去の弔事をなかったことにしてしまう。毛沢東の紙幣はいま、貧者を犠牲に世界資本主義を牽引している。よるべきものはなにもない。
麻薬密輸罪により中国で死刑宣告された日本人4人にこの4月、刑があいついで執行された。めでためでたの万博前に、厄介ごとが「中国の法にもとづき」刑核的に処理されたのはうたがいない。案にたがわず人びとは史上最大規模だというエキスポをうちよろこび、壮大な書き割りにひとしい陽画で死刑の陰画をかき消した。しがない個人の想像というやつは、ところがどっこい、それでおさまるというものでない。昨年の中国の死刑執行数は例年よりだいぶ減ったとはいえ、千人とも2千人以上ともいう。とすれば、万博パビリオン建設にあわせるように中国人への死刑執行ラッシュはすごい数にのぼったのではないか。電線泥棒たちをも銃殺刑にした国である。いわんや麻薬密輸の重罪においておや、ということか。国内法にのっとった死刑の執行に外国が口をはさむ権利はないというのか。鳩山首相は日本人死刑執行につき「(両国関係に)影響がでないように国民も冷静につとめていただきたい」とコメントした。この人の口舌はことごとに空しい。
同じ麻薬密輸罪で英国人に死刑が執行されたときブラウン英首相は「最大級につよい言葉で非難する」と猛反発した。そうできない日本のわけは、刑執行の多寡をべつにして、中国同様に積極的な死刑制度保持国家だからである。人の命や生活の質よりも党と国家を優先するアジア的思考の祖形が日中間にあってはさほどに大きくはことならないのかもしれない。すべてありうる。なんでも起りうる。よるべきものはなにもない・・・は上海万博のキャッチコピーではない。ラーゲリ(ソ連強制収容所)で静かにはやったという詩のかけらだ。資本のラーゲリにだってなんでもある。が、よるべきはなにもない。
◆ 「死刑と万博」
◆中国:武田輝夫・鵜飼博徳・森勝男死刑囚、8日家族と面会 ◇アジアの16カ国、薬物犯罪で極刑