朝日新聞社『新聞の戦争責任』日本の15年戦争は、マスメディアの協力なしには遂行できなかった

2009-02-10 | 社会

日経新S 「新聞案内人」2009年02月10日 水木楊 作家、元日本経済新聞論説主幹
「新聞の戦争責任」追う長期連載
 久しぶりに風邪を引いて寝込んだのを機に、普段読めずにいた本をまとめて読みました。その中に、朝日新聞社の刊行した『新聞と戦争』(朝日新聞「新聞と戦争」取材班・著)があります。
 一昨年4月から1年間、夕刊3面で連載中から注目していたのですが、読むことのできない回もあったりしたので、1冊にまとめられたのはまことにありがたく、久しぶりに、ずっしりとした読後感を味わうことができました。
 1920年代後半あたりから終戦後にいたるまで、朝日新聞がどのようにして第2次大戦にかかわる報道をしてきたか、どのような論調を張ったかを、写真をも交え、克明に追跡しており、入手しうる、あらゆる資料を調べ、生きている人たちにインタビュー重ね、組織力を動員した、新聞社でしかできない重厚な企画でした。
○読者の投書が長期連載のきっかけに
 この企画を始めた、そもそものきっかけは読者からの1通の投書だったと、前ゼネラル・エディターの外岡秀俊氏は「はじめに」で述べています。投書には、「私が小さな頃、祖父が口癖のように言っていたのを思い出します。朝日の論調が変わったら気をつけろ、と」との言葉があったそうです。
 「論調が変わった」というのは、1931年の満州事変を境として、朝日新聞の論調が戦争の拡大と翼賛に転じたことを指していると外岡氏は感じたようで、「戦時報道とその後の検証作業をざっと調べてみて、愕然とした。戦後60年も過ぎたのに、朝日は戦争を翼賛し、国民を巻き込んだ経過について、包括的な検証をしたことはなかった」と書いています。
 第2次大戦前、あるいは戦中、新聞報道には軍からの強い圧力があったことは事実ですが、この本を読むと、それだけではなく、新聞の側にも、戦争へと国の背中を押した責任があったことが分かります。
 満州事変以降、現地からの戦闘報道が読者の注目を集め、部数の拡大につなげられたこと、軍が戦闘報道の貴重な情報源だったこと、一般大衆の間にナショナリズムが盛り上がり、戦争批判をすると不買運動にすぐにつながっていったことなどが具体的な事例によって記されています。
 そして、次のように自らを断じる。「朝日に欠けていたのは、一言でいえば、言論にかける『信念』ではなかったか」――。
○過ちを率直に認める姿勢、これからも期待
 「信念」をないがしろにして、組織の発展と、生き残りのため、大勢に迎合していったと自らを告発しているのです。
 この長期連載企画は、これから数十年、エポックメーキングな試みとして、その名を残すに違いありません。組織の本当の力は、自らの過ちをどれくらい率直に認めることができるかによって決まるからです。
 過ちを犯さない組織などというものはありえません。組織は成功すればするほど、過ちを犯しやすくなる。過ちが起きれば、まず頭に浮上するのは、どのようにしてそれを糊塗するかです。それは新聞に限ったことではなく、自らの胸に手を置けば、それぞれが大なり小なり思い当たることではないでしょうか。
 なかんずく、社会的な影響度の大きい新聞をはじめとするマスコミの各社には、「新聞と戦争」にみられるような、自らの過ちを率直に認める、潔い姿勢を、これからも期待したいものです。
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新聞と戦争 [著]朝日新聞「新聞と戦争」取材班[掲載]2008年7月27日
[評者]赤澤史朗(立命館大学教授・日本近現代史)■なぜ、薄れたのか「新聞人の自覚」
 日本の15年戦争は、マスメディアの協力なしには遂行できなかった。しかしこれまでその戦争責任を追及した研究は、外部の学者や元記者によるものであった。その点で朝日新聞が、自社の戦争協力を検証した「新聞と戦争」シリーズは、画期的な仕事といえるように思う。高齢の新聞社OBを探し出して取材する手法は、新聞社ならではのものであった。07年4月から1年間夕刊に連載されたそれは、日本ジャーナリスト会議の大賞を受賞し、連載をまとめた本書は570ページを超える大著となった。
 朝日新聞社が満州事変を契機に戦争支持へ社論を転換させ、戦意昂揚(こうよう)を煽(あお)る紙面作りをしたことは、従来から指摘されていた。その際、緒方竹虎など朝日新聞の首脳部の意図は、軍との協調関係を築きながら、他方で軍への批判や抵抗の芽も残しておこうとするものだったのかも知れない。しかし彼らには、どの地点で踏みとどまるべきか、どうしたら反撃に転じられるかということへの、見通しも勇気も欠けていたように見える。
 新聞社の戦争協力は、ずるずると多方面に広がっていった。戦争のニュース映画の製作と各地での上映、女性の組織化と国策協力への動員、文学者とタイアップした前線報道や帰国講演会など、そのいずれもが新聞の購読者の拡大につながるものだった。
 さらに進んで朝日新聞では、満蒙開拓青少年義勇軍の募集を後援し、戦争末期には少年兵の志願を勧める少国民総決起大会も開催している。そして新聞社が植民地や満州で、さらには南方占領地などで、新聞を発行し経営の手を広げるのにも、軍との良好な関係は大いに役立ったのである。
 新聞人は、戦争協力を当然と考えるナショナリズムに囚(とら)われていた。しかし他方で多くの現場の記者は、戦争の実情を公表できないことに矛盾や違和感を感じていたらしい。公表できないのは、軍や内務省の検閲や圧迫が次第に厳しくなっていったためである。しかし同時に官製報道が一般化して特ダネ競争もなくなり、軍の言いなりに書くことに馴(な)れてしまったという実情もあった。
 本書は戦時期の新聞社の問題を、国家や軍との距離感が薄らぐ中で、新聞人が次第に軍と一体化していくことに無自覚になった点に見出(みいだ)しているようだ。従軍記者はしばしばピストルで武装し、朝日の社機と航空部員は海軍に徴用された形で、海軍の便宜を図る見返りに、海軍からガソリンを貰(もら)って前線で写した写真を内地に空輸していた。
 その軍との一体化の極端な表れは、戦争末期に朝日新聞の社員と社屋がそのまま軍需産業に使われた場合があったことである。新聞製版上で開発された技術が、軍用機の設計図の拡大複写に転用されたのである。技術開発に携わった東京本社の写真部長が中心になって、「護国第4476工場」と呼ばれた軍需工場が造られた。そこでは新聞人としての職業意識も希薄化していった。ジャーナリストがジャーナリストでなくなっていったことにこそ、その最大の悲劇があったともいえよう。
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 07年4月から08年3月まで朝日新聞夕刊(一部朝刊)に週5回掲載された連載「新聞と戦争」などをまとめた。


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