“南京虐殺”は根拠のない捏造!国民党のでっちあげだ

2012-09-20 | 政治〈領土/防衛/安全保障/憲法/歴史認識〉

【中国・韓国にこう言い返せ!】“南京虐殺”は根拠のない捏造!国民党のでっちあげだ
zakzak2012.09.20
 中国の真っ赤なウソは、沖縄県・尖閣諸島の問題に限らない。日本人の名誉のためにも、南京虐殺問題を見過ごすことはできない。中国共産党政府が「日本軍が中華民国の首都・南京を陥落させた1937(昭和12)年12月以降、日本軍が30万人の中国人を殺戮(さつりく)した」と主張している問題である。
 最近、名古屋市の河村たかし市長が「自分の父は日本軍人として南京で終戦を迎えたが、南京の人々に温かいもてなしを受けて、無事帰国した。南京虐殺があったとは考えられない」と語り、話題となった。
 「南京虐殺」は、全く根拠のない歴史の捏造(ねつぞう)である。初めは、日本軍が当時敵対していた国民党(蒋介石)政権がでっちあげた。現在では、中国共産党がその歴史の捏造を継承しているだけである。
 そもそも、中国で南京虐殺が中学教科書に登場するのは79年であり、南京虐殺記念館ができたのは85年である。共産党政権は49年に成立したが、日中国交正常化の時を含め、虐殺に関する日本批判は全く行われなかった。
 南京戦直前の37年11月、国民党は国際宣伝処を設置し、38年10月24日までの間に、漢口において300回の記者会見を行ったが、この間、ただの一度として「南京で虐殺があった」とは述べていない。また、毛沢東も生涯で一度も「南京虐殺」について言及していない。むしろ、「日本軍は、包囲は多いが殲滅が少ない」と主張しているほどだ。
 南京戦当時、在住外国人によって「安全区国際委員会」が組織され、その活動記録が「南京安全地帯の記録」として39年に英語で刊行されている。日本軍を非難する文章が多いのは事実だが、殺人については26件しか報告されていない。しかも目撃者が存在するのは1件だけで、「これは合法的なものである」との注がついている。
 人口についての記述を見ると、12月中は20万人、1月になって25万人であり、虐殺による人口減少は全く記録されていない。捕虜の処刑はあったが、すべて国際法上合法なものである。
 亜細亜大学の東中野修道教授らは、南京虐殺の証拠といわれる143枚の写真を検証したが、すべて偽物であり、虐殺の証拠となるものは1枚も存在しなかった。南京戦の直後、日本側だけでも150人近い記者やカメラマンが南京に入り、精力的に報道に従事した。南京は世田谷区の7割ほどの広さしかない。
 しかし、戦後になっても虐殺を目撃したという人も、虐殺写真を撮ったという人も1人も現れていない。「虐殺を報道した」といわれる英紙記者ティンパーリやベイツ南京大学教授は、国民党政府の顧問だったことが明らかになっている。
<筆者プロフィール>
藤井厳喜(ふじい・げんき)
 国際政治学者。1952年、東京都生まれ。早大政経学部卒業後、米ハーバード大学大学院で政治学博士課程を修了。ハーバード大学国際問題研究所・日米関係プログラム研究員などを経て帰国。テレビやラジオで活躍する一方、銀行や証券会社の顧問、明治大学などで教鞭をとる。現在、拓殖大学客員教授。近著に「バカで野蛮なアメリカ経済」(扶桑社新書)、「超大恐慌で世界の終わりが始まる」(日本文芸社)。
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「南京事件」意見広告の掲載求め仮処分申し立て/「社論」か「言論の自由」か 中日新聞と有識者 2012-05-16 | 政治 
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「南京事件」意見広告で対立 有識者「自由な議論を」×中日新聞「社論に合わず」 2012-05-12 | 政治〈領土/防衛/安全保障〉
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河村名古屋市長の南京発言と歴史の真実/当時、南京の人口は多めに見積もっても20万人しかいなかった 2012-03-09 | 政治〈領土/防衛/安全保障〉
 河村名古屋市長の南京発言と歴史の真実 濱口和久「本気の安保論」
NET IB NEWS 2012年2月29日10:50 日本政策研究センター研究員 濱口和久
<河村名古屋市長の発言の波紋>
 河村たかし名古屋市長は2月20日、市役所を表敬訪問した中国共産党南京市委員会のメンバーと会談した際、旧日本軍による「南京事件」について、「通常の戦闘はあったが、南京事件はなかったのではないか」と発言した。この発言に対して、石原慎太郎東京都知事、上田清司埼玉県知事、山田宏前杉並区長などは、河村名古屋市長の発言を支持するコメントを発している。
 これに対し、中国外務省の羅照輝アジア局長は22日、訪中している外務省の杉山晋輔アジア大洋州局長と会談し、河村名古屋市長による「南京事件」不定発言について「歴史の歪曲」と強い不満を表明した。南京市も行政当局の交流を当面中止すると発表した。
<「南京の真実」とは何か>
 日本軍が南京を占領した昭和12(1937)年12月13日、南京には日本人、シナ人だけでなく、欧米の居留民やマスコミが多数いた。しかも、日本軍が南京入りした際には、欧米人たちを中心にして、市民の安全を守るための南京国際委員会が組織されていた。つまり、南京占領は衆人環視のなかで行なわれたのである。
 南京は東京都世田谷区くらいの面積しかなく、南京国際委員会のメンバーには行動の自由が認められていた。そうした状況で、現在の中国側が主張する20万、30万人の虐殺が行なえるのだろうか。
 実際に、この当時、欧米の一流新聞・雑誌で、南京で何万という虐殺が起こったと報道したものは1つもない。中国国民党も南京から重慶に移動してから、米英などのマスコミを相手に何度となく記者会見をしているが、南京虐殺について1度も言及していない。
 ナチスドイツのホロコーストは明らかに事実であるが、「南京大虐殺」は実際には存在しない。これは東京裁判(極東軍事裁判)を行なった連合国が作り上げた冤罪なのである。
 特に米国が、焼夷弾による東京大空襲や広島・長崎への原爆投下により、市民(非戦闘員)を一瞬にして30万人殺した行為を正当化するために「南京大虐殺」をでっち上げたと言っても過言ではない。連合国は日本軍が人道に外れたことを行なったという証拠を必要としたのである。
 当時、南京の人口は多めに見積もっても20万人しかいなかった。東京裁判が正しいとすれば、日本軍は南京市民のほとんど全員を殺したということになる。
 ところが、南京国際委員会の調査では占領後の人口は減るどころか、半年後には25万人に増えているのである。
<虐殺の証拠はマギー牧師の証言のみ>
 東京裁判では、南京国際委員会のメンバーだったマギー牧師が生々しい証言をして、世界中の注目を集めた。検察側は、マギー牧師の証言こそが虐殺の揺るがぬ証拠だとして自信満々であったが、弁護団から「牧師自身が実際に見た殺人は何件でしたか」と尋ねられると、「たった1人です」と証言している。
 しかもそれは、警備の日本兵が不審尋問から逃げ出そうとしたシナ人の青年を射殺したものであり、虐殺と呼べるものではなかった。マギー牧師のように、南京を自由に歩き回ることのできた人ですら、日本軍による殺害をたった1件しか目撃していないのである。
 朝日新聞をはじめとする日本の新聞は「これぞ南京大虐殺の証拠」として、様々な写真を掲載したが、亜細亜大学の東中野修道教授らの調査・研究により、トリック写真や南京とは無関係の写真であることがすでに判明している。
<弾薬不足だった日本軍>
 南京にいた日本軍のなかに、一部軍律を守らない不心得者がいたことは事実である。しかし、ある推計によれば、殺人事件はせいぜい49件にすぎない。しかも、こうした不心得者の多くは、軍律に基づいて処罰されている。殺人事件は、南京に紛れ込んだシナ兵の便衣隊に悩まされていた日本軍が便衣隊と市民とを間違えて殺害したものがほとんどであり、戦争状態を考えればしかたがないことである。
 虐殺というからには、組織的かつ連続的に人殺しがなされなければならない。米軍のように焼夷弾や原子爆弾といった大量殺戮兵器を使用すれば、簡単に20万~30万人を殺すことは可能かもしれないが、南京の日本軍が持っていたのは通常兵器だけである。しかも、日本陸軍は建軍以来、一度として潤沢な弾薬を持ったことのない軍隊である。丸腰の市民を大量殺害するための弾の余裕などなかったのである。
 このままでは日本民族はいつまでも濡れ衣を着せられたままの犯罪国家として、子子孫孫まで生きて行かねばならなくなる。
<プロフィール>
濱口 和久 (はまぐち かずひさ)
 昭和43年熊本県菊池市生まれ。防衛大学校材料物性工学科卒業。陸上自衛隊、舛添政治経済研究所、民主党本部幹事長室副部長、栃木市首席政策監などを経て、現在、テイケイ株式会社常務取締役、国際地政学研究所研究員、日本政策研究センター研究員、日本文化チャンネル桜「防人の道 今日の自衛隊」キャスター、拓殖大学客員教授を務める。平成16年3月に竹島に本籍を移す。『思城居(おもしろい)』(東京コラボ)、『祖国を誇りに思う心』(ハーベスト出版)などの著書のほかに、安全保障、領土・領海問題、日本の城郭についての論文多数。 公式HPはコチラ
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 『日本人の誇り』藤原正彦著(文春新書)
p58~
 「明治・大正・昭和戦前は、帝国主義、軍国主義、植民地主義をひた走り、アジア各国を侵略した恥ずべき国。江戸時代は士農工商の身分制度、男尊女卑、自由も平等も民主主義もなく、庶民が虐げられていた恥ずかしい国。その前はもっと恥ずかしい国、その前はもっともっと・・・」
 占領後、アメリカは米軍による日本国憲法制定を手始めに、言論統制、「罪意識扶植計画」等により、日本をアメリカに都合の好い属国に造り替えてゆく。
p63~
 GHQすなわちアメリカはまず新憲法を作り上げました。GHQ民生局が集まり1週間の突貫工事で作ったのです。憲法の専門家はいませんでした。まず前文に「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と書きました。アメリカは他国の憲法を自分達が勝手に作るというハーグ条約違反、そしてそれ以上に恐るべき不遜、をひた隠しにしましたが、この文章を見ただけで英語からの翻訳であることは明らかです。「決意した」などという言葉が我が国の条文の末尾に来ることはまずありえないし、「われら」などという言葉が混入することもないからです。いかにも日本国民の自発的意志により作られたかのように見せるため、姑息な姑息な偽装を施したのですが、文体を見れば誰の文章かは明らかです。そのうえ、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」と美しく飾ってみても、残念なことに「国益のみを愛する諸国民の権謀術数と卑劣に警戒して」が、現実なのです。
 ともあれこの前文により、日本国の生存は他国に委ねられたのです。
 第9条の「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」は前文の具体的内容です。自国を自分で守らないのですから、どこかの国に安全保障を依頼する以外に国家が生き延びる術はありません。そして安全保障を依頼できる国としてアメリカ以外にないことは自明でした。すなわち、日本はこの前文と第9条の作られたこの時点でアメリカの属国となることがほぼ決定されたのです。この憲法が存在する限り真の独立国家ではありません。中国に「アメリカの妾国」と馬鹿にされても仕方ないのです。(~p64)
p104~
 南京大虐殺の不思議
 「南京大虐殺」も実に不思議な事件でした。1937年12月13日に南京を陥落させた日本軍が、その後6週間にわたり大規模な虐殺行為を行ったというものです。
 1997年にアメリカで出版された五十万部を超えるベストセラーとなった、中国系アメリカ人アイリス・チャンによる『ザ・レイプ・オブ・南京』によりますと、「ヒットラーは6百万人のユダヤ人を殺し、スターリンは4千万以上のロシア人を殺したが、これらは数年をかけて行われたものだ。レイプ・オブ・南京ではたったの数週間で市民30万人を殺し、2万人から8万人の女性を老若かまわず強姦し豚のように殺した、という点で史上最悪のものだ。天皇を中心とした日本政府がこれを仕組んだ」という内容のものです。「日本兵は女性の腹を裂き、胸を切り刻み、生きたまま壁に釘づけにした。舌を鉄の鉤に吊るしたり、埋めてセパードに食い散らかせた」などとも書いてあります。
 私達の父や祖父達がこんなことを組織的にしていたとしたら、私たち日本人は百年は立ち上がれないでしょう。祖国愛や誇りを持つなどということもあり得ないことです。
 そのためにも事実を明らかにし、東京裁判史観に染まった国民にどうしても真実を知ってもらう必要があります。
 1937年12月、南京攻略を決めた松井石根大将はとても神経質になっていました。日露戦争に従軍したことのある松井大将は、かつて世界1規律正しいと絶賛された軍隊でロシアと戦ったことを誇りに思っていました。
 そこで攻勢前に兵士たちに、「首都南京を攻めるからには、世界中が見ているから決して悪事を働いてはならぬ」という趣旨の「南京攻略要綱」をわざわざ兵士に配り、厳正な規律を徹底させました。これ自体が稀な行為です。そのうえ、還暦を目前に控えた松井大将は、陸軍大学校を首席で卒業した秀才ですが、若い頃からアジアの団結を唱える大アジア主義に傾倒していて根っからの親中派でした。孫文の革命を支援したばかりか、若き蒋介石が日本の陸軍士官学校に留学した時は親身で面倒まで見てやった人です。運命のいたずらで愛弟子と戦わざるを得なくなり、せめて規律だけは保たせようと思ったのでしょう。そして、攻略を始める前日の12月9日、南京包囲を終えた松井大将は中国軍に対し、民間人の犠牲を避けるため10日正午までに南京を解放するよう勧告しました。蒋介石をはじめ政府と軍の首脳はすでに7日に首都を放棄していました。続いて役人、警察官、郵便局員と姿を消したため、水道は止まり電気も消え、無政府状態となりました。
p106~
 ほとんどの戦争では、中国でもヨーロッパでも、市民を巻き添えにしないため軍隊は市内から出るものです。第2次大戦でパリはドイツに占領され、後に連合軍に占領されましたが、どちらの場合も軍隊は市街を出たので美しい町が保たれたのです。北京や武漢でも中国兵は町から出たので市民巻き添えという混乱はありませんでした。
 南京守備軍の唐生智司令官はこれを無視しました。「首都と運命を共にする」と広言していた彼は、日本軍の猛攻を受け陥落寸前というときに撤退命令を出すや、逃げ出してしまいました。指揮系統はすでに失われていたので数万の兵に撤退命令は伝わりませんでした。大混乱の最大原因です。降伏命令だったら何も起きなかったからです。
 『「南京事件」の総括』(田中正明著、小学館文庫)に、軍服を脱ぎ捨てた数千の中国兵が安全区に入ってきてからの混乱が詳述されています。南京市は首都といっても面積は世田谷区の3分の2ほどの狭さです。日本軍の攻撃の迫った12月1日、南京市長は全市民に対し、安全区、すなわち国際委員会が管理する地区に避難するよう命令します。安全区は、狭い南京の一角に作られた2千㌔四方程度の最小の地区です。日本軍が攻略を始めた12月10日には、すでに揚子江上流に避難した中上流階級の人々を除く、全市民がここ安全区に集まっていました。 資料により異なりますが、この段階における安全区人口は12万から20万の間です。「惨劇」があったとしたら、すし詰めとなったこの安全区で起きたはずなのです。
 ところが不思議なことに、南京に入城した幾万の日本兵も、共に入城した百数十名の日本人新聞記者やカメラマンンも誰一人そんな惨劇を見ていないのです。皆が一糸乱れぬ口裏を合わせているのでしょうか。こんな狭い所で大虐殺が行われたというのに、そこに住んでいた国際委員会の外国人や外国人記者も目撃していません。
 日本軍が入城した12月13日から翌年2月9日までに、国際委員会は日米英の大使館に61通の文書を提出しており、そこには殺人49件、傷害44件、強姦361件(うち被害者多数3件、被害者数名6件)などがありますが、大虐殺と呼べるものはありません。この数字自身も、国際委員会書記スマイス教授が認めたように、検証されたものではなく中国人からの伝聞によるものでした。また国府軍側の何應欽将軍が直後の1938年春に提出した大部の報告書にも、南京での虐殺を匂わせるものはいっさいありません。無論、市民虐殺を示唆する日本軍の作戦命令も存在しません。
 当時、中国に関して最も権威ある情報源とされていた「チャイニーズ・イヤーブック」と呼ばれる年鑑がありました。上海で英国系新聞が出版していたものです。これにも虐待の影はありません。
 一口で言うと、虐殺を示す第一次資料は何一つないということです。(~p108)
p110~
 東京裁判で再登場した
 「南京大虐殺」が再登場したのは、南京戦後8年半もたった1946年、東京裁判においてです。証人となった中国人が次々に大虐殺を「証言」しました。日本兵は集団をなし、人を見れば射殺、女を見れば強姦、手当たり次第の放火と掠奪、屍体はいたる所に山をなし、血は河をなす、という地獄さながらの描写ばかりでした。
 この裁判は、通常の裁判とはまったく異なり、証人宣誓が求められず証拠検証もされませんでしたから、言いたい放題だったのです。殺害者数30万人という証言に疑念を抱いたロヴィン弁護人が「私の承知している限りでは南京の人口は20万ですが」と質問すると、ウェッブ裁判長は「今はそれを持ち出すときではありません」と慌ててこの発言をさえぎりました。
 中国人だけでなく金陵大学(のちの南京大学)のベイツ教授など数人の欧米人も証人として出廷しました。ベイツ教授は事件時に南京にいて国際委員会のメンバーであり、「戦争とは何か」を書いたティンパーリに、書簡で事件を教えた人です。「1万2千人の市民を含む非武装の4万人近い人間が南京城内や城壁の近くで殺されたことを埋葬記録は示している」という趣旨の証言をしましたが、やはり中国人からの伝聞のみです。
 埋葬死体が戦死者のものかどうかも確認していません。実はベイツ教授は、やはり国際委員会に属する金陵大学のスマイス教授と、1938年の3月から4月にかけて、多数の学生を動員して南京市民の被害状況を調査していました。スマイス教授は社会学が専門なのでこの種の調査には慣れていて、50戸に1戸を無差別抽出して、2人1組の学生がそこを訪れ質問調査するという方法でした。
 この日時をかけた調査結果は、日本兵の暴行による被害者は、殺された者2400人、負傷した者3050人でした。(「南京地区における戦争被害調査」)。ただし、調査は被害者救済のためのもので、誰も住んでいない家は調査対象となっていませんから、家族全員が犠牲になった家などは統計に入っていません。また死亡者の中に、南京に自宅のある兵で便衣兵(軍服を脱いで一般市民に混じった中国兵)として処刑された者もかなり混じっているはずです。この人たちは市民でもあります。というわけで実数はある程度上下するはずです。しかしこの調査はほとんど唯一の第1次資料と言えるものです。
 ベイツ教授はこの調査を知っていながら、東京裁判では大いに水増ししました。そればかりか、
 「日本軍侵入後何日もの間、私の家の近所の路に、射殺された民間人の屍体がゴロゴロしておりました。スマイス教授と私は調査をした結果、城内で1万2千人の男女及び子供が殺されたと結論しました」
 と述べたのです。一方のスマイス教授の東京裁判への出廷は、弁護側が要求したにもかかわらず認められませんでした。ベイツ教授は1938年と1946年に蒋介石より勲章をもらっていました。
 またマギー牧師は法廷で延々と日本軍による殺人や強姦の事例を証言しましたが、ブルックス弁護人に「実際に自分で見たのはそのうちの何件か」と問われ、「実際に見たのは1件だけ」と白状しました。しかもそれは、日本軍歩哨に誰何され逃げ出した中国人青年が射殺された件でした。当時、中国にいた宣教師たちが国民党におもねっていたことは、アメリカの上海副領事をしていたラルフ・タウンゼントが1933年に出版した『暗黒大陸中国の真実』(芙蓉書房出版)などに記されています。
p120~
 私は大虐殺の決定的証拠が1つでも出てくる日までは、大虐殺は原爆投下を正当化したいというアメリカの絶望的動機が創作し、利益のためなら何でも主張するという中国の慣習が存続させている、悪質かつ卑劣な作り話であり、実際は通常の攻略と掃討作戦が行われただけと信ずることにしています。さらに事を複雑にしているのは日本国内に、大虐殺を唱え続けることこそが良心と平和希求の証し、という妄想にとらわれた不思議な勢力があることです。「南京大虐殺」は歴史的事実ではなく政治的事実ということです。事実であるという決定的証拠が1つでも出るはるか前に、「カチンの森」が事件発生50年後のソ連崩壊時に告白されたごとく、「南京大虐殺」の真実が、アメリカの情報公開で明るみに出るか、中国の一党独裁崩壊後に告白されるのではないかと考えています。
 ただし、アメリカは時が来れば何でも情報公開する公平でオープンな国のように見えますが、肝心のものは公開しません。真珠湾攻撃前1週間の暗号解読資料とかケネディ大統領暗殺犯などについては、今もすべてを出そうとしません。南京事件が原爆投下と関係しているとしたら容易には出さないでしょう。
 南京の話が長くなったのは、これが未だに日本人を委縮させているからです。中国に対して言うべきことも言えないでいる理由だからです。尖閣諸島が中国のものと言っても、自分から体当たりしてきて謝罪と賠償を高らかに唱えても、怒鳴りつけることもできず、下を向いたまま「領土問題は存在しません」とつぶやくだけの国となっているからです。
 20年以上にわたり毎年10%以上も軍事費を増加させるという中国の異常な軍備拡大に抗議するどころか、すでに6兆円を超すともいわれる巨額のODAを与え、さらに援助し続けるのも、自らの対中防衛力を高める努力もしないでハラハラしているだけなのも、中国の不当な為替操作を非難しないのも、「南京で大虐殺をしましたよね」の声が耳にこだまするからです。中国の対日外交における最大の切り札になっているのです。(~p121)
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