地下鉄サリンの実行犯、死刑破棄求める
朝日新聞2009年9月14日19時9分
95年3月の地下鉄サリン事件で車内にサリンを散布したとして殺人などの罪に問われ、一、二審で死刑とする判決を受けた元オウム真理教幹部の豊田亨(41)、広瀬健一(45)両被告の上告審で、最高裁第二小法廷(竹内行夫裁判長)は14日、弁護側、検察側双方の主張を聞く弁論を開いた。上告した弁護側は「事件当時、両被告は精神的に追いつめられ、責任能力が減退した状態だった」などと、死刑とした判決の破棄を訴えた。検察側は「死刑が相当だ」と上告棄却を求めた。判決期日は追って指定される。
朝日新聞2009年9月14日19時9分
95年3月の地下鉄サリン事件で車内にサリンを散布したとして殺人などの罪に問われ、一、二審で死刑とする判決を受けた元オウム真理教幹部の豊田亨(41)、広瀬健一(45)両被告の上告審で、最高裁第二小法廷(竹内行夫裁判長)は14日、弁護側、検察側双方の主張を聞く弁論を開いた。上告した弁護側は「事件当時、両被告は精神的に追いつめられ、責任能力が減退した状態だった」などと、死刑とした判決の破棄を訴えた。検察側は「死刑が相当だ」と上告棄却を求めた。判決期日は追って指定される。
純人文系(というより天性の理系音痴)のくせに、中高生の頃からアインシュタインだの、何だのが大好きだった私からすれば、(阪大で宇宙物理専攻だった)最高幹部、村井秀夫氏が刺殺された後、オウム最高峰の物理学脳であった豊田亨被告こそが、オウムとは何であったかを語り得たはずだったし、今もなお彼はその義務から逃れ得ない、と思っています。
死刑が確定した後に、彼は語り始めるのでしょうか? もし、それも果たされぬなら、この国の司法、社会は、完全に底の抜けた無機なるものである、と絶望してしまいます。
(バリバリの理数脳である)鳩山由紀夫氏が98年に旧民主党を結成した折、TV番組で「政治を宗教の次元まで高めたい」と発言していたのが非常に印象的でした。 非常にオウム的な政治家だと感じたのを憶えています。
だから危ういなどと言う気は有りませんが、あれだけの惨事を経験しながら、未だオウムについて何も総括出来ていない、この社会はとても危うい、と思わざるを得ません。
コメント、ありがとうございます。
>“死ぬほど”頭を使いました。~それは今も続いているのかも知れません。
失礼でしたら、お赦しください。私には、好ましい景色として映りました。
>未だオウムについて何も総括出来ていない、この社会はとても危うい、と思わざるを得ません。
「“死ぬほど”頭を使いました」にも重複するのですが、人々が「考えなくなった」と思います。オウムの事件は、社会の多くの場においてしっかり考えられねばならない問題のはずでしたのに、例えばカトリックの世界でも、殆ど問題とされなかった。既成の教団が今の社会の人々の苦悩や混迷、嘆きに答えようとせず(教団維持に汲々して)、何らの方向性も権威も示しえなかったから、純粋な若い人々がオウムへ解決や救済を求めたのかも知れないのに、既成教団は他人事を決め込んだ。考えなかったと思います。
先週朝日新聞に載っていたコラムですが、先般のポピュリズム選挙との関連で、次のようなことが書かれてありました。
“娯楽や芸能の世界でも同じことが起きています。すぐ面白い、すぐわかる。そういう即効性が求められ、面倒くさいドラマはテレビの世界でも減っています。長期間訓練し、ある構造を持ったドラマを演じるような役者が減り、筋書きなしになんでも出切るタレントが増えている。これも象徴的です。特に問題は、双方向性を持つ電子メディアの誕生で、その中にはすぐに返事を書くことが求められているものがあります。若い人の間では携帯メールが届いたら3分以内に返信しないと嫌われるとか。じっくり考えるよりも、すぐに反応する。すぐに断定する。何でも二者択一で考える。”
>オウムとは何であったかを語り得たはずだったし、今もなお彼はその義務から逃れ得ない、と思っています。
豊田亨被告は自らの長い上申書(1995年12月11日)の末尾で、「自らの裁判の中で、自分の弁明をするのではなく、事実を明らかにし、それによって事件の全体像を少しでもはっきりさせるようつとめることが、自分のなした、文字どおり人間として許されざる犯罪によって取り返しのつかない被害を受けられた多くの方々に対する自分の反省とおわびの気持ちの表現であると考えております。」と、云っています。
仰る内容、全く以って同感です。
>カトリックの世界でも、殆ど問題とされなかった
仏教界も同様でした。 唯一、寂聴さんが元信者の方と会い、公には話すことの無かった、自身が出家を決意した時の心情を吐露され、その時の彼女の、それまでに見た事も無い、鬼気迫る表情が印象に残っているだけです。
豊田被告の上申書は読んだことが有ります。
“短絡”に満ちた内容だと感じました。
これで自身の行為の総括が出来たとは、本人すら思っていないに違いない、と感じました。
ただ、彼が今後何かを語ったからと言って、「考えなくなった」この社会の人々の心には、僅かな小波すら生じないのかも知れない。
五木寛之さんの『人間の覚悟』という本など数冊を、掛け持ちで読んでいるところです。今の時代の暗黒を感じます。鬱に陥らないとしたら、そのほうが稀だとすら思えてくる社会状況です。オウムの事件も神戸の酒鬼薔薇事件も秋葉原の事件も、天から降って湧いた事件ではなく、この社会のなかから現出した出来事であると思います。まさに「一人の人を凶悪と特定して死刑で片付けて済ませていては、社会は何も変わらない」と実感します。
豊田さんの上申書ですが、私は短絡との感想はもちませんでした。破綻もしていない。宗教という困難な状況下のご自分をよく客観なさっている、そんな風に感じました。
重い罪を犯した人がその罪状に向き合うことは、極めて苛酷な作業です。それを外に向かって発することは、更に苦難の業です。極端な例ですが、光市事件の被告人が真実を語り始めたのは、最高裁が差し戻した後でした。それほどに困難なことなのです。愚弟の清孝のことで恐縮ですが、彼も高裁で確定させるつもりでした。そういうなかで、豊田被告は上申書を出したわけです。
時間の経過の中で自己と所業を見詰めてゆく。そのことが望まれますが、裁判員裁判は、それをさせてくれません。未だ覚めやらぬ、そんな状況の被告人のなかに、無関係の他人がズカズカ入ってゆく。・・・
このような時代ですが、しかし、事件を他人事とせず、死ぬほどに考える人がいる、そこに私は希望を見出すのです。面白がったり劇場にしたりせず、真面目に向き合う人がいる、そういうことを伝えてあげたいようにさえ思いました。そして、千葉景子法相の就任にも希望を見ました。