いのちあるものの匂い

2012-11-01 | 本/演劇…など

いのちあるものの匂い
纐纈あや
月刊「解放」2012年10月号 668号
 いきているものに共通するひとつの大きな特徴は“匂い”だ、と彼は言った。いのちあるものには匂いがある、というのだ。わたしたち人間はもちろんのこと、動物、植物、微生物、そしてそれらが排泄するものや住処にも匂いがある。人間であれば、人種や年齢、生活様式や食習慣によっても、まとっている匂いはみな違う。しかし戦後、社会が近代化していくなかで、さまざまな匂いが消えていった。汲み取り式の便所や肥溜めはなくなり、オヤジの加齢臭は嫌われ、いまやドラッグストアには多種多様の消臭剤が並ぶ。におう→くさいが、いじめの理由にもなる。無臭であること、あるいは芳香を漂わすことがよしとされている今日において、いま私はあらためていろいろな匂いと出会う機会をいただいている。
 前述の彼とは、泉州地域で精肉店を営む店主の北出新司さん。私が北出さんのお家に通わせていただくようになってもうすぐ一年になる。一家が精肉業を生業にしてきた歴史は七代前までさかのぼる。自営で牛、豚を育て、家から数百メートル先の公営と畜場に連れこみ、手作業で解体し、その肉を店先で販売する。この営みを永々と繰り返してきた。しかしその公営と畜場が今年の三月で閉鎖となり、家族で行う屠畜の歴史は幕を閉じた。私が初めて北出さんにお会いしたのは閉鎖が半年後に迫ったときだった。昔ながらの形態が奇跡的にも残ってきたといえるこの一連の仕事を、最後の一度だけでもなんとか映像に記録させていただきたいというところから、ドキュメンタリー映画としての撮影が始まった。
 それ以前にも、何度か屠場を見学したことがあった。作業場に足を一歩踏み入れると、そこには生と死が混在している空間の圧倒的な緊迫感とエネルギーが充満していた。刻々と流れゆく時間のなかで、自分と同じ人間が、正面きっていのちと向き合って労働する姿に、瞬きするのも忘れた。人間のために、私のために、目の前でいのちあるものが“肉”となっていく。その光景を、一時たりとも見逃してはいけないと必死だった。以来、私のなかで屠場は常に気になる場所だった。
 北出さん一家の屠畜作業は、実に厳かだった。自宅から牛の手綱を引いて屠場に連れて行くところからまさに真剣勝負が始まる。七〇〇キロもの牛が暴走したら大事故につながる。その緊迫感は、ハンマーで一撃して倒れるまで続く。そこからは静けさのなか、小学生のころから倣い覚えた見事な手つきと、阿吽の呼吸で粛々と仕事は進んでいく。北出さん曰く、自分の所で育てた牛は、解体しているときの匂いの違いでわかるそうだ。
 この日から、北出さんご一家の日々の暮らしや地域のコミュニティ、年中行事などの撮影を進めさせていただいている。数日後には盆を迎える。その起源が二五〇年前といわれる盆踊りは、村の人々にとって年に一度の最大の楽しみであった。先祖の霊を慰めるとともに、差別の痛みをいっきに爆発させる機会であり、それはやがてわき起こる解放運動のエネルギーの源であったともいう。
 匂いは目に見えないが、確実に感じられるものだ。それと同様に、思いや心、あるいは差別する意識も、目には見えないが確かに存在する。映像というものは、目に見えるものを映し込みながら、そこに見えないものをどう読み取ることができるかを問うものだと思っている。
(はなぶさ・あや/記録映画作家)
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 ドキュメンタリー映画「ある精肉店のはなし(仮)」(監督=纐纈あや)は、2013年完成予定で撮影進行中。製作協力金A=一口5000円
振込先=郵便振替口座 00120-7-586337
口座名義:映画「ある精肉店のはなし(仮)」を応援する会
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「ある精肉店のはなし(仮)」
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■肉と肉、いのちといのち
 日常食卓にのぼり口にする肉。しかしいのちあるものが肉となり食卓に届くまでの行程は、多くの人に知られるところではない。大阪で出会った北出精肉店では、7代に渡り家族で牛を育て、手作業で屠畜を行い、その肉を自営の精肉店で販売し、生計を立ててきた。彼らは700kgにもなる牛を命をかけて屠り、見事な手つきで内臓を捌く。確かな経験と技術により、牛は鮮やかに肉になっていく。厳かに行なわれるその作業の光景は、屠畜にまつわる様々な先入観を払いのけ、そこからは有機的に関係し合う肉と肉、いのちといのちの姿が実体を持って立ち現れてくる。
 しかし、彼らが利用し102年続いてきた公営と畜場が、輸入肉や大規模屠場への統合の影響により、今春閉鎖することになった。そして最後の屠畜作業を記録することから本作の撮影は始まった。
■暮らしから見えてくるもの
 熟練の技を持つ彼らだが、「自分たちの仕事は、子どもの頃から自然に倣い覚えたことで、何も特別なものではない。暮らしの一部だ。」と言う。店主として店を切り盛りするかたわら、高齢化、過疎化が進む地域に尽力する長男。年に一度、心躍るだんじりにひときわ思い入れがある次男は、太鼓作りをしながら、屠畜の仕事から見るいのちの大切さを地域の学校で話して廻る。長女は一日のほとんどを台所で過ごし、家族のために温かくおいしい食事を作る。孫は、将来肉屋になりたいという中学一年生の元気な男の子。いつも微笑みながら家族を見守る87歳の母。ごく平穏な家庭の日常がそこにはある。
 しかし、彼らの生活を知ることは、被差別に生まれ、精肉業を引き継いできた中で、差別や偏見と向き合い、葛藤し、乗り越えようとし続けてきた家族、そして地域の歴史を知ることでもある。
 いのちあるものをいただき、自らを生かし、他者と関わり、社会とつながってゆく。この誰しもに共通するごく当たり前の営みも、その実体が見えなくなることで偏見や差別、先入観を作り出してきた。
 本作では、あらためて彼らの日々の暮らしを丹念に見つめていくことから“生の営み”の本質とは何かを捉え直していく。


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