光市最高裁判決と弁護人バッシング報道〔1〕なぜ弁論に欠席したか メディアによる殺せの大合唱 

2007-07-22 | 光市母子殺害事件

光市最高裁判決と弁護人バッシング報道 

〔1〕なぜ弁論に欠席したか  メディアによる殺せの大合唱  嫌がらせ電話にみる民衆意識
〔2〕検察が「凶悪」事件を作り上げた  裁判から疎外された被告人  鑑定書の示す事実
〔3〕自白調書から見える検察の意図  この事件は少年法改悪に利用された(関連「例のひどい手紙)
〔4〕重罰化に向けて一気に踏み出した最高裁判決 メルトダウンする司法
〔5〕被告人を守るシステムの崩壊
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光市最高裁判決と弁護人バッシング報道  安田好弘

〔1〕

 この講演は、光市の事件の最高裁判決の前夜、2006年6月19日、人権と報道連絡会の第215回定例会で「刑事裁判と弁護士の役割 弁護人バッシング報道検証」と題して行われたものに手を入れていただいたものである。

なぜ弁論に欠席したか

 こんばんは、安田です。
 私は最高裁の3月14日の弁論を欠席せざるを得ませんでした。最高裁は、1989年12月、国連総会で日本政府を含めて全参加国が満場一致で決議した「死刑に直面している者の権利の保護の保障の履行に関する決議」さえ守ろうとしなかったのです。そこでは、「死刑が規定されている罪に直面している者に対し、死刑相当でない事件に与えられる保護に加えて、手続のあらゆる段階において弁護士の適切な援助を受けることを含む弁護を準備する時間と便益を与えることによって特別な保護を与えること」と規定されているのです。過去においては、とりあえずは弁護人が交代した場合はもちろん、とりわけ本人がいままでとは違ったことを言っているという場合には、必ず、弁護を準備するに足る十分な準備期間を弁護人に認めていたわけです。私自身も過去、例えば名古屋の木村修治さんの事件、北海道の晴山廣元さんの事件など、弁論の直前に弁護人となり、最高裁と話し合い、いつ弁論を入れるか、そのためにどのくらい準備がかかるか、という話を詰めた上で、5~6ヵ月後に弁論をやってきたわけですが、今回、最高裁はまったくそれを認めませんでした。まして、私どもが延期申請を出したけれども、その延期申請に書かれた中身について事情聴取さえしないで、いきなり延期申請を却下してくる。被告人の権利を認めようとしない、つまり被告人の十全な弁護を準備する時間と便益を保障しなかった、あるいは保障しないという
ことに対して、私はたいへん腹立たしい思いをしました。今回の最高裁の動きは特殊なケースなのか、あるいは今の最高裁を表しているのか、なかなか量りきれないないんですけれども、少なくとも今回のケースでたいへん容易ならざる事態になったんだと思っています。
 それに対して今回、マスコミや社会一般からのものすごい感情的な反発があったわけです。私の事務所にも、かなりのいわゆる嫌がらせの電話、挑発電話がきました。多い日には1日100件ぐらいあっただろうと思います。すべてには対応しませんでしたし、最終的には電話番号を表記しない非通知の電話機からの電話は拒否しました。しかしそれでも、電話番号を表示して、抗議ないしは脅迫というような電話がありました。そのなかで共通に見られるのは、弁護人の弁護は不要である、ということです。あの被告人に対して弁護する必要はない、死刑にすべきだ、ということです。つまり被告人が弁護を受けるということ、弁護を受けて死刑からまぬがれることを否定するということは、司法そのものを否定していると言っていいだろうと思います。それは、最高裁がやったことの反映であるといっていいだろうと思うんです。つまりマスコミも、世間も、あるいは最高裁もすべて同じような価値観のもとにシンクロしているというのが今の実情だと思います。つまり、最高裁と脅迫電話をかけてくる人たちとは同じ考えの持ち主だということです。
 明日、最高裁が判決を出します。日にち的な問題からすると、明らかに従来から決めていたとおりの判決をそのまま維持しようとしている。つまり最高裁が弁論jを開こうとするときには、すでに裁判官会議が開かれ、判決の中身が決まっているわけです。そういう状況の中で弁論期日をしてくる、というのが従来の最高裁のやり方であったし、今回も全く同じだと思うんですね。最高裁は旧弁護人に対して昨年11月の末、弁護を入れたいと打診してきましたが、弁護人から、ちょっと待ってくれ、基本的なところでもういっぺん弁論の見直しをしたいと言ったにもかかわらず、一方的に3月14日の弁論期日を指定してきたわけです。そのときにはもうすでに、最高裁はどういう判決を出すかを実は決めていたわけです。それで私ども新弁護人がついて、延期申請をし、裁判所はこれを認めなかったため、準備の不十分と当日すでに他の仕事が入っていることを理由に3月14日を欠席した。すると一方的に今度は4月18日を指定し、しかもその指定の中では出頭命令・在廷命令という新刑訴法の中で新たに設けられた制度を初適用してしてきたわけです。
 私どもは、4月18日の弁論で、第一審判決及び原判決には根本的に問題があるということ、つまり第一審判決及び原判決はまったくの事実誤認であることを指摘したわけですけれども、今度は、一方的に6月20日の判決期日を指定してきたわけです。この経過を見ると、たとえば、私たちの主張を認めて、事実関係について根本的に見直す、つまり鑑定とかあるいは本人の供述をもういっぺん捉え直してみるというような作業をやるとすれば、4月18日の弁論のあと、こんな僅かな期間で判決が書けるはずがないわけです。この訴訟記録は、1万ページくらいあり、その中で写真が約800枚ぐらいあるわけです。その写真を一つ一つつぶさに見て、あるいは被告人の20数通ある自白調書を一つ一ついったいどこでどういう形で変遷し相互に違いがあるかということを吟味してゆくならば、こんな僅かな期間で記録を見て結論を出し、判決が書けるはずがないわけです。しかし彼らは4月18日の弁論から僅か2ヵ月しか経たない6月20日に判決を出すというのですから、彼等が出す結論は、従来から決めていた通りの結論をそのまま出す以外にありません。
 従来から決めていた通りの結論とは何か、もうすでに明らかです。この事件は1審が無期、2審が無期、これに対し、検察官が量刑不当あるいは判例違反で上告しているケースです。量刑不当というのは刑訴法では上告理由にあたらないですし、判例違反というのは、検察官のこじつけにしか過ぎませんから、本来ならば、弁論も何も開かずに上告理由なしということで「決定」却下されるべきなんですね。けれども、最高裁は弁論を開くと言っているわけですから、「判決」を出すということです。つまり刑訴法の規定によると、最高裁で判決を出すためには弁論を開かなければなりません。ですから、判決を出すということは決定ではない。弁論を開き判決を出すというということは、検察官の上告理由を認める。すなわちあまりにも刑が軽すぎる、この子については死刑しかないんだという検察官の主張を認めて、原審の見直しをさせるということになるわけです。ですから、その判決をそのまま明日言うのだろうと思うんです。

メディアによる殺せの大合唱

 マスメディアの今の関心ですけれども、マスメディアと言いましても、テレビメディアと新聞メディアに分ける必要があると思うんです。今回は、殺せ殺せという大合唱をしている、あるいは裁判なんか不要だと言っているのはいわゆるテレビを中心としたメディアなんですね。ところがそれに対し一定の距離を置いているのは新聞と雑誌メディアです。とりわけ気になったのは、被告人の写真を出し、名前を出し、そして死刑のキャンペーン、あるいは原判決不当のキャンペーンを張り続けたのは『週刊新潮』だったわけですけれども、私が見る限りでは『週刊新潮』はこれについてはほとんど沈黙しているという、たいへん面白い現象が起っているわけですね。
 それだけで結論を出すわけにはいかないですけれども、今の世論を形成し、世論を動かす原動力、あるいは司法と新たにシンクロナイズしているメディアというのは実はテレビメディアだったのではないか、いわゆるポピュリズム、大衆迎合主義と言われるようなものもテレビメディアなので
はないかという実感をたいへん強くしているわけです。
 テレビメディアにはもともと限界があるわけです。新聞メディアあるいは雑誌メディアは一ヵ月なり一週間なりという時間的資源を持っているわけですけれども、テレビメディアはわずか24時間しか時間をもっていない。彼らがいくら報道しようとしたところで最大24時間の枠内しか報道できないわけです。そういう中で送る側としては、常に、すべてを捨象して単純明快な図式、つまり善悪という価値のデジタル化、論理ではなく感情というわかりやすさに収れんしなければならないですし、受ける側としては、視覚と音声の両面から送られてくるものに関心が釘付けにされる、まるで共鳴箱のように共振するという作用を持っているんじゃないかと私は思います。単純でしかも感情的という扇動の図式が生まれるわけです。
 バッシングを受けてるよと、私に対してアドバイスをしてくれたり心配してくれたりいわゆる小姑、大姑が私の周りにたくさんいます(笑)。実は私自身はそれほどバッシングされているという感じは持たなかったわけです。現在でも実は実感としてないわけです。理由は単純でして、もともとテレビはあまり観ないし、嫌なテレビは観ないんです。
 かつて私はテレビが好きで、テレビが1時、2時に終わってしまうと何もすることがなくなって、ああ、明日までどうしようかなといった時期もあったぐらいテレビに釘付けだったんですけれども、私が逮捕されて東京拘置所に10ヵ月入れられている間にテレビを見る習慣はなくなってしまったんですね。それでどうなったかというと、テレビに同調して物事に関心が動かなくなったわけです。それまで、テレビを観ていると、テレビが関心を示しているのと同じように私も関心が移っていく。テレビの関心がなくなれば当然自分の関心もなくなる。テレビの報道量に応じて自分の関心が変転していくということだったんです。ところがテレビを観なくなってから関心事がまったく変わったんです。関心が持続するようになったんですね。たとえばイラクに米軍あるいは日本が進駐する、そのあと、いったいどうなるのかというのを一生懸命探し求め続ける。つまり、日本のメディアを通
してはほとんど見られないものを、インターネットで今日のイラクでどうなったのかというのばかりを追いかけはじめる。そういうなかで、私の実感がテレビと同調しなくなってきたんだろうと思うんです。
 それゆえに今回のバッシングというのは私はほとんど実感できずに終わりました。むしろ他の人たちが一生懸命心配してくれて、今日のシンポもそういう流れの企画じゃないかなあと思っています(笑)。  

嫌がらせ電話にみる民衆意識

 バッシングについて具体的な実感を話せと言われればそれほどお話しすることはない。だけどもたいへんな状態になってきたなあという感じはしています。
 私も何本かの嫌がらせ電話を取ったわけですけれども、電話の向うで、精神的な、感情や意識の面における凶暴化がものすごく進んでいるという実感を持ちました。もちろん死刑廃止運動をするなかで、死刑存置の人たちから抗議の電話なり意見の電話は少なからずあったわけですけれども、今回の電話はそれをはるかに超えていて、精神的な凶暴化がそこに見える。それは電話をかけてくる人たちに共通している。言葉で言っている中身は、許せないだけじゃなくて、「殺せ」という具体的な意思表示ですから、その中に出てくるのはものすごい凶暴、そして、ああいう奴は社会にそもそも存在を認めてはならんという暴力です。つまりリンチの中における、殺せ、殺せという大合唱とほとんど同種のものを私はその中に見てとったわけです。それだけにとどまりません。あんな奴の弁護をすることさえも許さないというわけですから、その凶暴性というのは憎いものを皆殺しにするというジェノサイド的なものではないかとさえ思います。
 私の思い込みかも知れませんけれども、実はこんな感じを持ったんですね。一つは私自身は直接体験していないんですけれども、関東大震災のときに住民がこぞって在日の人たちを虐殺していった。あの東京大虐殺をやりかねない精神風土ができつつあるのかなと思い始めたわけです。普通はたいへん従順で、おとなしくて冷静のように見えるけれども、実は一枚タガを外してみるとその中では凶暴性が蓄積されており、南京大虐殺、あるいは中国での三光作戦と言われる虐殺行為が、容易に繰り返されるのではないかという感じを持つわけです。いま「殺せ、殺せ」と言っている人たちは、より激しくなって、遂には棒とかそういうものを持って走る出すかもしれないという感じを持ち始めたわけです。
 そういう危機感が私だけにあるのか、それとも他の人たちも持っていらっしゃるんだろうか。この間のマスメデイアの動き方を見てくると、週刊誌的には、あるいは弱小メディア的には、わりあいそこら辺りについて危機感を持っているけれども、テレビメディアをはじめとして、新聞メディアも、おそらくそういうものに対して歯止めになるような論調とか事実報道というのがほとんどできていないのが実情じゃないかと思うわけです。誰が見ても今回のケースは司法そのものを放擲しようとする話ですから、ものすごく危険な話です。しかしその危険性についてはほとんど誰も問題にしない。むしろ今日の論調なんかを見ても、死刑か無期かという予測をして、さらに仇討ちが認められるかどうかという、いわば、忠臣蔵の仇討ちを見て楽しむレベルを超えて、もっと激しく仇討ちをさせようとしているような情勢にあるわけですね。しかしこの問題は仇討ちの問題でもないし、あるいは死刑か無期かというような、いわゆる賭事的なものでもない。問われているのは、司法のあり方です。司法はマスメディアとかあるいは被害者の求めに応答するようなものか、それともこれから超然として法を公平・公正に適用できるだけの力量を持っているかどうかということが、実は今回の裁判の中では試されているわけですけれども、そういう視点がまったくないということだと思うんです。
 暴走するマスメディア、あるいは暴走する世論を止める力というのはまったくなくなってしまったこの社会をどうしていくのかということを、やはりこれからは考えていかざるをえないわけです。
 
2007,7,6up

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