〈来栖の独白 2013/12/01 Sun. 〉
カトリック教会の典礼暦では、本日より新年。本日は待降節第1主日である。
13年前の昨日11月30日、113号事件死刑囚 勝田清孝帰天。名古屋拘置所在監の13年間交流し、死後13年経った。歳月を経て、物事にはすべて「時がある」、と思うようになった。すべてに「終わるときがある」。皆ちりから出て、皆ちりに帰る。
この日頃の私の楽しみ、支え、喜びは、自宅での一人の「ミサ」である。司祭の司式によらないので「秘跡」ではないが、私を支えてくれるに十分だ。つい先日まで、ミサ中に歌う聖歌、典礼聖歌を弾くだけだったが、先月「毎日のミサ」を購入してから、式次第通りに聖書朗読もするようになった。すると、「ミサ」に命の息吹が吹き込まれた(大袈裟だが)。私はあくまでも「オルガン弾き」としてミサに与っているという感覚だったので、ミサ中、歌のときも楽譜に気をとられて歌詞は二の次であった。聖書朗読のときなど、猶更だ。これでは、ミサの本質が抜けていたと、この頃になって気づいた。そんな私である。
いま、家で聖歌を弾いて歌い、「毎日のミサ」の聖書を読むことが、清新な喜びだ。「神に感謝」。
あ、もう一つの毎日の楽しみ。公園の猫ちゃん(鈴ちゃん・懸ちゃん・琵琶ちゃん・白ちゃん・・・)と会って餌をあげること。私の姿を目敏く発見して全速力で駈けてくる猫ちゃんの「真っ直ぐ」がたまらない。
いずれ、このブログも閉じる時が来る。ホームページも・・・。静穏な気持で終えることができそうだ。
旧約聖書 コヘレトの言葉(伝道の書) 3章
1 天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。
2 生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、
3 殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、
4 泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり、
5 石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、
6 捜すに時があり、失うに時があり、保つに時があり、捨てるに時があり、
7 裂くに時があり、縫うに時があり、黙るに時があり、語るに時があり、
8 愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。
9 働く者はその労することにより、なんの益を得るか。
10 わたしは神が人の子らに与えて、骨おらせられる仕事を見た。
11 神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。
12 わたしは知っている。人にはその生きながらえている間、楽しく愉快に過ごすよりほかに良い事はない。
13 またすべての人が食い飲みし、そのすべての労苦によって楽しみを得ることは神の賜物である。
14 わたしは知っている。すべて神がなさる事は永遠に変ることがなく、これに加えることも、これから取ることもできない。神がこのようにされるのは、人々が神の前に恐れをもつようになるためである。
15 今あるものは、すでにあったものである。後にあるものも、すでにあったものである。神は追いやられたものを尋ね求められる。
16 わたしはまた、日の下を見たが、さばきを行う所にも不正があり、公義を行う所にも不正がある。
17 わたしは心に言った、「神は正しい者と悪い者とをさばかれる。神はすべての事と、すべてのわざに、時を定められたからである」と。
18 わたしはまた、人の子らについて心に言った、「神は彼らをためして、彼らに自分たちが獣にすぎないことを悟らせられるのである」と。
19 人の子らに臨むところは獣にも臨むからである。すなわち一様に彼らに臨み、これの死ぬように、彼も死ぬのである。彼らはみな同様の息をもっている。人は獣にまさるところがない。すべてのものは空だからである。
20 みな一つ所に行く。皆ちりから出て、皆ちりに帰る。
21 だれが知るか、人の子らの霊は上にのぼり、獣の霊は地にくだるかを。
22 それで、わたしは見た、人はその働きによって楽しむにこした事はない。これが彼の分だからである。だれが彼をつれていって、その後の、どうなるかを見させることができようか。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
◇ 亀山郁夫氏の講座『謎解きカラマーゾフの兄弟』② / 『毎日のミサ』【ミサ―愛の秘跡・感謝の祭儀~】 2013-11-21 | 日録