光市事件差し戻し控訴審の判決は信じ難いもので、先週は第三者の私のような者まで半死半生の体(態)であった。正直なところ、いまも、精神不安定である。が、綿井健陽さんがご自身のブログに書いておられたことが、私の気持ちにも重なるように思う。 ↓
“さらに何よりも、私はこの判決内容を受け入れることができません。事実関係の認定で客観的に見ても明らかに誤りがあります。したがって、私は法律上ではないが、道義上のうえで世論に対して「上告」して、もう一度自分の取材活動を通じて、事実関係を「争う」ことにしました。”⇒ http://watai.blog.so-net.ne.jp/2008-04-26
ところで、先週1週間の拙ブログへのアクセス数は、goo内でのランキングだが、1005438ブログ中279 位であった(1,000位以上が表示される)。ご来訪の皆様への感謝は勿論あるけれども、被告人と弁護人への大きなバッシングを思うとき、複雑である。地上の殆ど総ての人が自分を否定している、凶悪犯だとして存在を許さない、こういう状況に人は耐えられるものだろうか。私は、胸が苦しくてならない。
来月は「母の日」ということで、昨日息子が、5月の対ヤフー戦のチケットをプレゼントしてくれた(ナゴド)。そうかぁ、もう交流戦かぁ、と気づいた。なかなかナゴドで松中やムネリン、和田を見る機会なんてない。息子に感謝。
5月は、コンサートを聴きに行く予定も、二つ。先週のピアノのレッスンでは、やはりハノンをやったほうがいい、と言われた。とりわけ、オクターブ(黒鍵)の5と4の指使い。それをしないと、ショパンを弾いていながら、ショパンにならない、と。ハノンは何十年もやっていない。が、「2年後はショパン生誕200年なので、音楽界はショパン一色になるでしょう。ショパンのコンサートが、あっちでもこっちでも催される」と、おっしゃると、なんだかワクワクした(判決の憂さも暫し忘れた)。
本日朝一番で、愛猫「くう」ちゃんを病院へ。左目が、結膜炎という診断だった。
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4月から月曜日夕方に、修道院のミサに与っている。主日早朝の教会でのミサが無くなると予告されたとき(2月)は暗澹とした思いだったが、これが大きな恵みであると知った。
これまでの私のミサに与る中心は、何十年来、オルガンを弾くことだった。1時間ほどのミサ中、絶え間なくオルガンを弾いているような具合である。それが身についてしまっており、それ以外の与り方を知らなかった。しかし、修院のミサで、オルガンはほんの少し弾くだけになった。
ミサ中は勿論、その前後各々20分ほど、シスターたちは念祷をなさる。私も、ご一緒させて戴く。ミサに加えて、この時間がとても良い。本日聖堂を辞去するとき、シスターが「ほんとに、オルガン、ありがとうございます」と、おっしゃるので「いえ、私こそ。修院のミサに与らせて戴くようになって、初めて祈った気がします。今まで祈りを知らず、しなかった。そんな気がします」とお礼を申し上げたが、実感である。
ミサのなかで、カトリックは、何度「いのち」という言葉を口にすることだろう。「いのち」の主に、「いのち」を希う。この「いのち」の場に、如何なる死を求める理由も、相応しくない。死刑を認容する如何なる理由も、正しくない。ミサを奉げる司祭・司教、念祷するシスター。誰一人として、死刑を是としない。例外は、ない。
ルカによる福音書 23, 18しかし、人々は一斉に、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫んだ。 20ピラトはイエスを釈放しようと思って、改めて呼びかけた。 21しかし人々は、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた。22ピラトは3度目に言った。「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから鞭で懲らしめて釈放しよう。」 23ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。 24そこで、ピラトは彼らの要求を入れる決定を下した。