秋葉原通り魔事件 加藤智大被告 獄中手記『解』 週刊ポスト2012/7/20-27号

2012-07-11 | 秋葉原無差別殺傷事件

秋葉原17人殺傷通り魔事件 加藤智大被告 衝撃の獄中手記 
 週刊ポスト2012/07/20-27号
 惨劇から4年が経った。加藤智大被告は2008年6月に東京・秋葉原で17人を殺傷(7人死亡、10人負傷)した罪に問われ、1審で死刑判決とされた。被告側は「死刑は重すぎる」と主張して控訴。だが第2審では姿を見せぬまま結審を迎え、判決は9月12日に下る。(中略)
 本誌取材班は加藤被告本人が事件の全貌とそこに至るまでの胸中を綴った手記を出版予定という情報を得て、関係者への取材を開始。そして7月中旬に発刊予定という手記を独占入手した。

もう後戻りはできない
 裁判冒頭、廷吏が告げた。
 「本日、加藤智大被告の出廷はありません」
 7月2日、東京高裁102号法廷で行われた加藤智大被告の控訴審第2回公判---。
 証言台に立つ遺族らは、口々に怒りを露わにする。
 「反省の1かけらもないと思う」「いいかげん、逃げるのはやめてください」
 この言葉を受け止めるべき男はこの場にはおらず、法廷には遺族たちの虚しき思いだけが漂っていた。
 被告はなに故に、無辜の人々を次々に殺傷したのか。
 加藤智大被告が獄中で記した『解』(批評社)と題された手記はこんな懺悔の言葉から始まる。
 〈2008年6月8日、私は東京・秋葉原で17名の方を殺傷しました。直接被害にあわせた方々やご遺族をはじめ、その関係者の皆様には本当に申し訳なく思っています。その刑事責任は逃れられるものではないと考えますし、逃れるつもりもありません〉
 そして事件の全容を明かすことこそ、被害者や多くの関係者への償いに繋がるとして、「今回、改めて全てを説明しようと、この本を書くことにしました」と続けた。
 実際、この手記には、公判では明らかにされなかった事件詳細と加藤被告の内面が述べられている。
 例えば08年6月8日、12時33分、秋葉原で繰り広げられた惨劇の瞬間---。
 〈4回目に交差点に向かう時には、心を殺していました。直前で、右側から1台の車が私のトラックの前に右折して入ってきて、その時私は、「これではいけない」と判断し、減速を始めました。「また失敗か」と、ほっとしました。しかし、見えてしまいました。対向車線を使って交差点に突入していける道が、です。(中略)私の前に入ってきた車の右側に出て、加速して追い越し、左のミラーでそれを確認して車線を戻しました。(中略)そこに、ふたり並んでいる人が現れ、そのう手前の人と目が合いました。その目は「なんで?」と訴えてくるようで、殺したはずの私の心が帰ってきました。しかし「やっぱり嫌だ」と思った時にはもう、ぶつかっていました〉
 加藤被告は、派遣先だった静岡のレンタカー店で借りたトラックを殺意をもって運転したが、歩行者天国の入り口となる交差点に差し掛かるたび逡巡して駅前を巡回した。
 〈頭では突っ込むつもりでいるのに、体の方が勝手にブレーキをかけた〉
 3回目も失敗した時には、トラックで人の中に突っ込むという考えに疑問を持ち始めたのだったが---。
 〈掲示板に秋葉原無差別殺傷事件を宣言してしまったことで、もう後戻りはできないところまで来てしまっていることに気づきました〉
刺した手応えもなかった
 加藤被告が「後戻りはできない」と考えたのには2つの理由がある。1つは後述するが、ネット上のトラブルがきっかけとなり、掲示板での交流ができなくなったこと。もう1つが事件3日前、加藤被告は静岡の自動車製造工場を辞め、職場の友人を失ったことだ。
 〈仕事を失ったのは、「ツナギ事件」が原因でした。一言でいえば、いつものパターンです。5日の朝、工場に出勤すると、ロッカーに私のツナギがありませんでした。共用のロッカーで、20着くらいの同じ色、形のツナギが掛かっていますが、それまで半年以上、普通に毎日見つけていたのですから、この日に限って見落とすことなどあり得ません。(中略)ツナギを隠されるという嫌がらせが私に入力された時にはもう無断帰宅が頭に出力されていて、そのまま怒りにまかせて、すぐに行動になりました。(中略)工場を出て駅に向かって歩いている間、「またやってしまった」と、泣きたい気分でした〉
 加藤被告の自己反省はすぐに憤慨へと変わる。職場の友人から「ツナギがあったよ」とメールが届いたのだ。
 〈再びもやもやしたものが出てきました。それはつまり、犯人がこっそりツナギを戻してそしらぬ顔をしているということだからです。(中略)ツナギをこっそり戻してそしらぬ顔をしているという間違った考え方には、無断退職することで対応することが思い浮かび(中略)「もう工場には行かない」と、すっぱりと自分から切り落としてしまいました。
 自分の居場所はこの世界にはない。交差点を前にして、改めてそのことに思い至った加藤被告が運転するトラックは、赤信号を無視して人混みの中へ突入する。
 〈人をはねた後のことは、覚えていません。気づくと私は、トラックで走っていました。人をはねたことはわかっています。罪悪感、後悔も残っています。それでいっぱいでした〉
 加藤被告は次の犯行に移った。掲示板に「車が使えなくなったら次はナイフ」と宣言したことを思い出し、それを忠実に実行した。
 〈私は、刺した人のうち3人しか記憶にありません。刺してなどいない、としゅちょうしたいのではなく、感覚的にはもっと何人か刺した気はするけれど、画像として記憶に残り、それを言葉で説明できる人が3人しかいない、ということです。(中略)刺そうとしていた体(腹から背中)ばかり見ていたために、顔を見ることはなかったのだと思います。トラックで人をはねた時のように誰かと目が合ってしまったら、それ以上人を刺すことはできなかったかもしれません。しかし、目が合うことはなく、刺した手応えもなく、血も見えず、刺した人がどうなったかもわからずに、次々と12名もの人を殺傷していました〉
孤立とは社会的な死のことです
 加藤被告は、全国で職を転々としてきた。埼玉の自動車工場、茨城の住宅関連部品会社、静岡の自動車工場・・・。派遣労働を繰り返していたという事実、そして事件発生が退職直後ということで、就職氷河期に悩む若者の「鬱屈」についての議論が喚起された。だが、事件の背景に「格差社会の歪み」があるのではないか、との見立てに対し、加藤被告は公判で一貫して否定している。犯行動機についてはこう主張し続けた。
 「ネット掲示板の成りすましなどの嫌がらせをやめて欲しいとアピールしたかった」
 加藤被告が憎悪の対象とする「成りすまし」とは、加藤被告が利用したネット上の掲示板において、加藤被告を装いコメントを書き込むユーザーを指している。
 加藤被告にとって、掲示板とはネット上における“ただの”ツールではない。
 公判では一部分しか表に出なかった事件の核心部が手記には綴られている。
 〈掲示板と私の関係については、依存、と一言で片づけてしまうことはできません。(中略)全ての空白を掲示板で埋めてしまうような使い方をしていた、と説明します。空白とは、孤立している時間です。孤立とは、社会との接点を失う、社会的な死のことです〉
 “社会的な死”を加藤被告が最初に意識したのは、茨城の工場で派遣労働をしていた06年のことだった。激務が続き、このままでは友人との交流を続けられなくなると工場を辞めた。
 〈その結果、仕事を失ったことで、私と社会との接点はひとつも無くなりました。孤立です〉
 加藤被告は手記の中で、肉体的な死よりも社会的な死の方が恐怖であると述べている。そうして社会的な死から逃れるために、自殺を考えたこともあったという。
 〈日曜は、8月中旬のとある日に決まっていました。(中略)地元青森の滑走路のような道路で、車で対向車線側のトラックにでも突っ込んで自殺するという手段も思い浮かんでいました〉
 東京にいた加藤被告は計画を実行するため青森に向かった。途中、友人に会うべく宮城に立ち寄っている。
 〈ふと、風俗店に行くことが思い浮かびました。サービス業の女性を相手に金を使う、ということです。風俗嬢が作業をしている間は、孤立してはいません。(中略)他にも、出会い系で会った女性に金を渡したり、ヒッチハイクをしていた男子大学生を車に乗せてあげたり、最終バスを逃して困っていた女子高生を家の近くまで送ってあげたりしながら北上していきました〉
 だが一時的に「孤立」を解消できても、継続的な社会との「接点」を築くことはできなかった。結局、自殺予定日は訪れ、トラックに乗り込んだ。
 〈友人たちにメールを送信し、移動し、いよいよ、というところでケータイがメールを受信しました。(中略)登録してあった出会い系からのものでした。孤立の解消が期待できましたので、その時、反対車線側に見えた駐車スペースに車をとめてメールを確認しようととっさにUターンしたところ、勢い余って縁石に車をぶつけ、自走不能になりました。血の気がひきました〉
 こうして自殺は回避されたが、自らを取り巻く状況は何一つ変わらない。以後、社会との接点を探し、ネット掲示板にのめり込んでいく。
 〈私にとって掲示板が、友人と話をする居酒屋のようなものから、家族と話をする家のようなものになりました。感覚的に、「掲示板に出かける」のではなく、「掲示板に帰る」ことになったということです〉
「成りすまし」への心理的攻撃
 加藤被告が事件の直接的原因とする「成りすまし」による嫌がらせの書き込みが現れたのは事件直前の08年5月29日のことである。
 〈掲示板では、人の真似をして書き込む遊びはよくあることですが、この成りすましは、30日にかけて徹底的に私に成りすまし、私を殺すことが目的の、悪意のある行為でした〉
 続けて、「成りすまし」犯についてこう振り返る。
 〈成りすましは、成りすましをする前に、まず、私を障害者だとする書き込みを連発していました。それを私に軽く流されると、今度は女性のふりをして書き込み始めました。それも私から思うように反応されずに、次に彼がとった行動が成りすましでした。この一連の流れから、おそらく彼は誰かにかまってほしかったのだと思われます。(中略)私をハゲダデブだと挑発して、何とかして反応をもらおうとしていたようです。(中略)やはり、「かまってちゃん」です〉
 とはいえネット上のトラブルがなぜ現実世界の無差別殺傷事件に繋がるのか。その点を、加藤被告はこう述べている。
 〈ひとつ言えるのは掲示板でのトラブルだったから、ということです。成りすましはどこの誰なのか、まったくわかりません。(中略)成りすましはどこの誰なのかわからないために、殴るといった直接の物理攻撃も、にらむといった直接の審理攻撃も、不可能で、何かを通して間接的に攻撃するしかなかった、ということです。(中略)そこで、何故私が大事件を起したのかに心当たりのある成りすましらは、「ヤバい」「大変なことになった」「俺のところにも警察が来るかも」「マスコミにバレたらどうしよう」「何か責任をとらされるのか」等と、焦り・罪悪感・不安・恐怖といった心理的な痛みを感じることになるはずでした〉
 大事件の舞台として選ばれたのは秋葉原だった。
 〈無差別殺傷事件だったのは、近年大きく報道されていた事件として記憶していたのが無差別殺傷事件だったからだと思われます。その事件の凶器がナイフだったから、私もナイフを思い浮かべたのだと思います。(中略)日曜日なのは秋葉原の歩行者天国が思い浮かんだからで、秋葉原なのは、大事件は大都市、大都市は東京、東京でよく知っているのは秋葉原、という連想だったと思います〉
 事件当日、加藤被告は掲示板に「秋葉原で人を殺します 車でつっこんで、車がつかえなくなったらナイフを使います みんなさよなら」と題して、次のような書き込みを更新していく。
 「ねむい」(6時21分)、「時間だ 出かけよう」(6時31分)、「酷い渋滞 時間までに着くかしら」(10時53分)、「今日は歩行者天国の日だよね?」(11時45分)、「時間です」(12時10分)。
 これらの殺人予告は、「成りすまし」に罪悪感を与えるための攻撃だった。
 〈私は、成りすましとのトラブルから秋葉原で人を殺傷したのではなく、成りすましらとのトラブルから成りすましらを心理的に攻撃したのだということをご理解いただきたいと思います〉
母親は私を風呂に沈めた
 手記では犯行動機として掲示板のトラブルを挙げた上で、こう述べられている。
 〈たとえ私の生活と掲示板の利用の仕方に問題があり、掲示板でトラブルがあったとしても、私のものの考え方が違っていれば事件には至りませんでした。思えば、私の性格は問題だらけであり、この人のせいにする考え方もそのひとつです〉
 では、加藤被告の「ものの考え方」は、どのように形成されたのか。
 1982年、加藤被告は地元金融に勤める父と職場結婚した母親のもとに生まれた。加藤被告は、事件とは関係ないと前置きしながらも、公判で母親のしつけに言及することが多かった。
 「母親にトイレに閉じ込められた」「100点を取って当たり前、95点で怒られた」
 加藤被告は県内トップ高に進学。だが成績は伸び悩み、母親から「北海道大学の工学部に行くように云われていた」(公判より)のにもかかわらず、自動車関係の短大を選択した。
 「『北大ではなく自分の行きたい大学に変更したい』、と言うと、大学に行ったら買ってもらえるはずだった車を『買ってやらない』と言われ、あてつけの意味もあった」(同前)
 公判では非公開で両親の証人尋問が実施され、内容をまとめた母親の調書の要旨が読み上げられている。
 「夫が仕事で帰宅が遅く、イライラした気持ちを被告にぶつけた。屋根裏に閉じ込めたり、お尻をたたいたのはしつけの一環だった」
 親のしつけが幼少期の加藤被告に負の影響を与えたことは手記に記されていた。
 〈母親の価値観がすべての基準です。その基準を外れると母親から怒られるわけですが、それに対して説明することは許されませんでした。一応、「なんで〇〇しないの」と怒られるのですが、「なんで〇〇しないの?」ではなく、「なんで〇〇しないの!」と、質問ではなく命令でした〉
 母親の存在が事件の遠因であることも読み取れる。
 〈私が母親から99を教わったのに暗唱を間違える、という間違いを改めさせるために母親は私を風呂に沈めました。私が冬に雪で靴を濡らして帰宅する、という間違いを改めさせるために母親は私を裸足で雪の上に立たせました。しつけといえば、しつけなのでしょう。その意味では、私もなりすましらにしつけをした、と捉えることもできます〉
 両親への口答えが許されなかった加藤被告は、トラブル時における人とのコミュニケーション---例えば、相談や口喧嘩という概念が醸成されなかったという。
 相談などのプロセスを経ずに、相手に痛みを与えることを加藤被告は「無言の攻撃」と呼んでいる。
 〈私が母親より食べるのが遅い時、母親は私の食器に残っているものを広告のチラシにあけて食器洗いをし、(中略)「早く食べなさい」とは言いません。それでも私はそれが私が食べるのが遅いのが悪いのだということを理解して、どうにか頑張って食べようとしていました。(中略)このように、私は人の無言の攻撃の意味がわかってしまう人でしたので、他の人も当然わかるものと考えていました〉
 無言の攻撃は加藤被告には日常の行為である。だが、加藤被告が社会に対して無言の攻撃を行う度に、周囲は加藤被告の行動の真意をくみ取れず、そこに軋轢が生まれたという。
 〈もし私が人に相談していたなら、事件は回避された可能性があります。「掲示板で成りすましをされ、それを正当化されて、その怒りが抑えられない」と誰かに相談したなら、私などには思いつきもできないような解決方法が示されたかもしれません〉
 社会との「接点」が閉ざされた結果、引き起こされた白昼の惨劇。手記から動機の解明は進むに違いない。しかしながら、成りすましらへの「無言の攻撃」は秋葉原への通行人には何ら関係もないことである。7人の命は帰ってこない。遺族らのご冥福を改めて祈りたい。
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秋葉原無差別殺傷事件 帰る場所--「相談相手がいて」と、いうのである 2010-07-31  
 〈来栖の独白 2010/7/31 〉
 加藤被告の供述の中に「場所」という言葉が散見されるように思う。インターネットの掲示板が彼の唯一の場所だった、というのである。次のように言っている。(「2010.7.27 産経ニュース」より)

 弁護人「逆に(掲示板の)利用をやめるということはできなかったのですか」
 被告 「できなかったです」
 弁護人「それはどうしてですか」
 被告 「掲示板は他に代わるものがない大切なものだったからです」
 弁護人「掲示板がそれほど大切なものだったということですか」
 被告 「大切なものというより、大切な場所だった」
 弁護人「どうして、そういう大切な場所になったんですか」
 被告 「ネットの社会があります。本音で(友人らと)ものを言い合える関係が重要だった」
 弁護人「あなたにとっては、どういう場所だったんですか」
 被告 「帰る場所。自分が自分に帰れる場所でした」
 弁護人「場所が重要だったんですか」
 被告 「掲示板も重要だったが、そこでの友人、人間関係が重要だった」
 弁護人「現実は建前といわれていましたが、掲示板でなく、現実に話し合える友人はいなかったんですか」
 被告 「そういう人はいませんでした」
 弁護人「掲示板でも(書き込み内容を)文字通りにとったら間違いになると言っていた」
 被告 「本音ではあるが本心ではないということです」」

 はかない風景だ。私事だが、インターネットというものに初めて触れたときから、ネットは、さながら「水面(みなも)に浮かぶ泡沫(うたかた)のようなもの」と感じてきた。電源を入れることで現れ、切ればたちまち消える。ホームページやブログを維持しながら、今もその印象は変わらない。
 いま一つ、加藤氏とはまるで違って、私は掲示板なるものを利用したことが殆ど無い。匿名性というのが利用者には都合が好いのだろうが、名前も住所も明かさない間柄では心の琴線に触れる話、肝胆相照らす話が生まれるとは思えない。その場限りの居場所、水面に浮かぶ泡沫である。
 小学校高学年まで「おねしょをしていた。オムツをさせられた。屈辱的だった」、家族揃っての「食事も会話がなかった上、黙々と食べていた」だけと供述する加藤被告であるから、幼少時から自分の居場所、帰る場所を求めていたのだろうか。
 加藤被告によって起こされたこのような事件を単に量刑を決めて落着させていては、社会は1ミリも変わらない。幾度も引用するが、安田好弘弁護士はその著『死刑弁護人  生きるという権利 』のなかで次のように言う。

   

 いろいろな事件の裁判にかかわって、はっきりと感じることがある。
 なんらかの形で犯罪に遭遇してしまい、結果として事件の加害者や被害者になるのは、たいていが「弱い人」たちなのである。他方「強い人」たちは、その可能性が圧倒的に低くなる。私のいう「強い人」とは、能力が高く、信頼できる友人がおり、相談相手がいて、決定的な局面に至る前に問題を解決していくことができる人たちである。そして「弱い人」とは、その反対の人、である。私は、これまでの弁護士経験の中でそうした「弱い人」たちをたくさんみてきたし、そうした人たちの弁護を請けてきた。

 “相談相手がいて”、というのである。
 ところで、30日、東京地裁であった3回目の被告人質問の供述から、加藤被告の【謝罪】の気持ちの部分のみ、以下に抜粋してみたい。友人や同級生が加藤被告に「会いたい」と言うのだそうだが、「被害者の人間関係をぶち壊した自分が友人関係を再開することは許されないので遠慮したい」と述べている。「帰る場所」となってくれるかも知れない友人や同級生である。しかし、被告は「会わない」と決心している。寂しいが、人間らしい佇まいだ

謝罪
 被害者や遺族の方は、そんなくだらないことで事件を起こしたのかと、怒りが再燃していると思う。人生これからという大学生の命を理不尽に奪った。
 トラックで川口隆裕さんをはねた時に目が合ったことは脳裏に焼きつき忘れられない。
 拘置所のラジオでカメラのコマーシャルが流れると、カメラを買いに来ていたという中村勝彦さんを思い出し、心臓が縮むような思いになる。
 「反省したから何なの」という遺族の方もいる。警察からの連絡を拒否するほど精神的に傷ついた被害者や下半身まひが一生残る被害者もいると聞いている。
 料理人として将来、自分のお店を持ちたいと考えていたと思う松井満さんの命も奪った。松井さんの料理を楽しみにしていた多くの方に本当に申し訳ないと思っている。
 重傷を負わせた湯浅洋さんは真相解明のために活動されていると聞き、申し訳なく、頭が下がる思いです。
 友人や同級生から「また会いたい」と言われても、被害者の人間関係をぶち壊した自分が友人関係を再開することは許されないので遠慮したい。
 責任はすべて自分にある。もっと自分のことをきちんと見つめ、正しい方向に進んでいくべきだった。
 わたしがやったことに相応の刑が言い渡されるだろうと思う。残された時間で被害者、遺族の方に少しでも償いをしていきたい。
  2010/07/30 20:07【共同通信】

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〈来栖の独白2010-07-28〉
 報道によれば、加藤智大被告は、事件の原因は三つ、だと述べる。
「まず、わたしのものの考え方。次が掲示板の嫌がらせ。最後が掲示板だけに依存していたわたしの生活の在り方」である、と。
 加藤被告は以前から「裁判は償いの意味もあるし、犯人として最低限やること。なぜ事件を起こしたのか、真相を明らかにすべく、話せることをすべて話したい。わたしが起こした事件と同じような事件が将来起こらないよう参考になることを話ができたらいい。事件の責任はすべてわたしにあると思う」と自分の裁判に対する姿勢を表明しており、今回の被告人質問への答えも、その趣旨に沿っている。
 事件の直接の原因となったネット掲示板について、「ネット掲示板を使っていた。掲示板でわたしに成り済ます偽者や、荒らし行為や嫌がらせをする人が現れ、事件を起こしたことを報道を通して知ってもらおうと思った。嫌がらせをやめてほしいと言いたかったことが伝わると思った。現実は建前で、掲示板は本音。本音でものが言い合える関係が重要。掲示板は帰る場所。現実で本音でつきあえる人はいなかった。」という被告の風景は、寂しい。
 この事件について、メディアでは、「ネット」や「派遣労働」が、問題として取り上げられた。確かに、そのような問題を当該事件は提起していた。
 だが、私が目を向けずにいられなかったのは、被告の生育環境だった。極々身近では、勝田事件においても、その起きた主たる原因は彼の成育環境にあった。このように言うことは、被告(或は死刑囚)の親を鞭打つことで、哀れであるが、しかし、犯罪の根が生育環境に大きく起因するように私には思えてならない。
 土浦8人殺傷事件公判においても、金川真大被告(=当時)の父親の証言から、同様のことを感じた。金川被告の父親は、息子を「被告人」と呼称して証言している。これは、加藤智大被告の母親と同じである。加藤被告の母親も、尋問で、息子を「被告」と呼称して意見を述べている。
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「秋葉原通り魔事件」そして犯人(加藤智大被告)の弟は自殺した 『週刊現代』2014年4月26日号 齋藤剛記者   
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◇ 『秋葉原事件』加藤智大の弟、自殺1週間前に語っていた「死ぬ理由に勝る、生きる理由がない」 
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◇ 秋葉原殺傷事件 弟の告白 『週刊現代』平成20年6月28日号(前編) 『週刊現代』20年7月5日号(後編) 
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