辺見庸さんに中原中也賞 /犬と日常と絞首刑/よるべきはなにもなし 死刑と万博/東風は西風を圧倒したか

2011-02-17 | 本/演劇…など

中原中也賞:辺見さんに決まる
 現代詩人の登竜門、第16回中原中也賞(山口市主催)に12日、ジャーナリストで作家の辺見庸さん(66)の詩集「生首」(毎日新聞社)が決まった。辺見さんは宮城県生まれ。共同通信社北京特派員などを経て96年退社。91年に「自動起床装置」で芥川賞を受賞している。「生首」は07年から書きためた46編からなる初詩集。
 詩人で選考委員長の北川透さんは「現代社会にある問題をわしづかみにし、リアリティーがある。現代詩の世界でしかできないことを求め、この世界に新人として入ってきた」と授賞理由を話した。
 辺見さんは「高名な夭折(ようせつ)詩人の名を冠した賞を、老いさらばえた私が頂戴するのは筋が通らない思いがいたします」とのコメントを寄せた。
毎日新聞 2011年2月13日 東京朝刊
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「犬と日常と絞首刑 」 辺見庸
朝日新聞オピニオン〈寄稿〉 2009/06/17Wed
 
 私は一匹の小さな黒い犬と毎日をごく静かにくらしている。私は1日3食を食べ、犬は2食である。ぜいたくはしない。時々ずいぶん気張ったことをいったり書いたりもするけれど、世間と悶着をおこさぬようそれなりに気をつかっている。歳のせいか私は泣かなくなった。犬も無口というのか、あまり吠えない。できればこの日常が大きく変わることのないように願っている。私には脳出血の後遺症で右半身に麻痺がある。犬の排泄物はだから左手で処理している。しんどい。必死である。だいぶ以前の昼下がりにこんなことがあった。テレビに尻をむけ前かがみでふうふういいながら犬のトレイを掃除していたとき、短いニュースが流れ、背中でそれを聴いた。その日の午前中に3人の確定死刑囚に刑が執行されたというのだ。
 丸太ん棒でしたたか打ちすえられたような衝撃を背に感じた。ニュースに驚いたのではない。犬の糞をつまんでいた私の体勢と絞首刑の関係にショックを受けたのだ。恥辱か罪の影が胸裡をさっとかすめた。テレビ画面に背を向けたまま犬と眼が合う。たがいにたがいの眼の奥をのぞきこんだ。吠えない犬が突然かん高くひと声吠えた。私が別人のように緊張をはらんだ眼をしていたからだろう。
 何があったというのではない。たったそれだけの話である。夕方にはいつもどおりチェット・ベイカーを聴きながら無添加のドッグフードを計量カップで70cc分と粉末サプリメントを犬にあたえた。日常はそうするうちに屈託をほどき、ゆっくりと凪いでいった。なにがあったというのでない。それだけの話だ。
 ただ、あの姿勢で聴いた死刑のニュースがいまもわすれられない。私はべつに違法行為をしたわけではない。いつもどおりのさもない日常をくりかえしていただけだ。なのに、いうにいえない深い畏れのようなものを感じたのはなぜなのか。世界には麻痺した身体で犬のトイレを掃除している老人もいれば、おなじ日に絞首刑に処される人もいる。2つの事実にはなんらの相関も因果もない。うちわすれればよいではないか。そうおもわないでもない。だが、呑みこんだ鉛の玉のようにあの日の記憶が心に重たい。なぜかはわからない。わからないけれども、あの日、死刑の問題についてなにか大事なヒントをえた気がしている。
 ヒントといっても名状は容易でないが、私は心底ぞっとしたのだ。ややあって想到した。私たちは絞首刑執行のしらせを家族で食事中に知るかもしれない。恋人とセックスの最中に、はたまた私のように犬の糞の処理中に耳にするかもしれない。知ったとて、快哉を叫ぶさけぶ人はまずいないだろうし、食事や恋人との語らいを中断する人もあまりいはしないだろう。死刑執行の報にたまゆら暗たんとする人はいるだろうが、しかし、ほどなく日常は完ぺきに復元することを、じつはだれもがわきまえている。この問題を過度に詰めない、議論しない、想像しない、はやくわすれる、ことあげしないほうが、おのれの内面にも世間にも波風たてずにすむことを、じつはこの国のみんなが暗黙のうちに弁別している。そういったある種ジャパネスクなたちいふるまいこそ、私たちの日常に滑らかな諧調と無意識のすさみをもたらしているのではないか。ヒントとはそういったことである。
 死刑制度とは、おもえらく天皇制同様に、この国のなにげない日常と世間の一木一草、はては人びとの神経細胞のすみずみにまでじつによく融けいり、永く深くなじんでいるジャパネスクな“文化”でもある。この国にあっては、したがって死刑制度は予測できる将来にわたり廃止されることはあるまいしその必要もない、と私がいいたいのではない。まったく逆である。あの日、いなずまのようなショックを受けて私が犬と顔を見合わせたのは〈いったい、ほんとうにこれでよいのか〉という年来の自問の原点に一瞬たちかえったからである。それは世間の声を追い風に死刑をためらわずつづける国家への不信だけにとどまらない。多少の葛藤はしつつも、とどのつまりは膠のような日常と世間に足場をとられている私と犬の生活への疑念でもあった。
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よるべきはなにもなし 死刑と万博
 作家 辺見 庸

 夜ふけに目ざめて夢がとぎれた。そんなこともあるのだろうか、言葉の夢であった。だから、見たというのではなく、あらましは夢におもったのだ。寒天のように芯のない文言だった。「すべてありうる。なんでも起りうる」。その次は、さて、なんだったか。年ふるにしたがい記憶すべき言葉と景色がふえつづけ、頭蓋からあふれるそれらは首筋から背骨をつたい、あるいは寝床へ、あるいは街路へ、ボロボロとこぼれていく。犬にひろい食いされる。すべてがありうる。なんでも起りうる。なにが起きようといまさら驚きはしない、と夢におもった。朝ぼらけ、カーテンのすき間からうすい血の色の光が流れこんでくる。のどに詰まった栓がぽんとぬけて、つづくべき言葉が浮きだしてきた。「よるべきものはなにもない」。しかし、言葉がさきにあったのではない。あらかじめ事実があった。そして事実が無意識の消し炭を熾し、後にであった言葉がそれを無意識に刻したのだ。「よるべきものはなにもない」と。
 ところは中国であった。「すごい」という、ほとんど無意味な形容詞は、日本のごときちゃちな日常ではなく中国という絶大な時空の万象にもちいてこそ適切である。そこには人の世のあらゆる質と形のものすごい醜さと欲と、ただちに「醜」と互換できるだろう「美」と裏切りのすべてが、昔もいまも凡人の想像をはるかにこえてあったし、ますます過剰にありつづけている。「社会主義制度は、とどのつまり、資本主義制度にとってかわるであろう。これは人びとの意志によって左右できない客観法則である」。いまとなっては中国紙幣に刷り込まれた人物とのみ象徴的にイメージされる毛沢東は53年前、ソ連最高会議で演説して冗談ではなくそう予言した。それだけでなく、現実を予言にあわせようと毛指導下の共産党は気が遠くなるほど多くの“反党・反社会主義分子”を拘束し死にいたらしめた。毛沢東の死後も死刑は毎日のようにせっせとつづけられている。
 そのことと中国が世界にほこる北京五輪や上海万博にはなにもかかわりがないのだろうか。華やかな五輪の会場となった施設のなかには、かつてはスポーツだけでなく大がかりな人民裁判や見せしめのための公開処刑場としてもちいられたスタジアムもあった事実を当局は開示せず、人びともまたあえて知りたがらない。さしもおびただしい血を吸ったスタジアムの土には人工芝がかぶせられ、歴史は新しいペイントで幾重にも塗りかえられていく。すべてがありうる。なんでも起りうる。古い血のにおいは、日本の戦前・戦中史もまったくそうなのだが、新たな塗料のにおいに覆いかくされる。古い死の痕跡は年ごとにうすまっていく。現在の慶事が過去の弔事をなかったことにしてしまう。毛沢東の紙幣はいま、貧者を犠牲に世界資本主義を牽引している。よるべきものはなにもない。
 麻薬密輸罪により中国で死刑宣告された日本人4人にこの4月、刑があいついで執行された。めでためでたの万博前に、厄介ごとが「中国の法にもとづき」刑核的に処理されたのはうたがいない。案にたがわず人びとは史上最大規模だというエキスポをうちよろこび、壮大な書き割りにひとしい陽画で死刑の陰画をかき消した。しがない個人の想像というやつは、ところがどっこい、それでおさまるというものでない。昨年の中国の死刑執行数は例年よりだいぶ減ったとはいえ、千人とも2千人以上ともいう。とすれば、万博パビリオン建設にあわせるように中国人への死刑執行ラッシュはすごい数にのぼったのではないか。電線泥棒たちをも銃殺刑にした国である。いわんや麻薬密輸の重罪においておや、ということか。国内法にのっとった死刑の執行に外国が口をはさむ権利はないというのか。鳩山首相は日本人死刑執行につき「(両国関係に)影響がでないように国民も冷静につとめていただきたい」とコメントした。この人の口舌はことごとに空しい。
 同じ麻薬密輸罪で英国人に死刑が執行されたときブラウン英首相は「最大級につよい言葉で非難する」と猛反発した。そうできない日本のわけは、刑執行の多寡をべつにして、中国同様に積極的な死刑制度保持国家だからである。人の命や生活の質よりも党と国家を優先するアジア的思考の祖形が日中間にあってはさほどに大きくはことならないのかもしれない。すべてありうる。なんでも起りうる。よるべきものはなにもない・・・は上海万博のキャッチコピーではない。ラーゲリ(ソ連強制収容所)で静かにはやったという詩のかけらだ。資本のラーゲリにだってなんでもある。が、よるべきはなにもない。
中日新聞2010/05/18Tue.夕刊
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「東風は西風を圧倒したか」  
辺見 庸(へんみ・よう)
 44年宮城県生まれ。共同通信記者として北京、ハノイ特派員などを歴任、96年退社。今回の北京入りは、87年以来21年ぶり。91年「自動起床装置」で芥川賞受賞。著書に「もの食う人びと」「たんぱ色の覚書」など。
中日新聞2008/08/20~21
(上) 大中華意識の高揚
 北京五輪メーンスタジアムを視界いっぱいに入れたら立ちくらみがした。奇観と人いきれに気おされたこともある。いや、それよりも、“鳥の巣”とよばれる超現代的な構造物がつかのま、巨大な虫かさなぎに見えたからである。ある日眼をさますと、自分が虫になっていたというカフカの小説『変身』を連想し、社会主義を自称する大国の“メタモルフォーゼ”が人々にとって果たしてほんとうの幸せにつながるのか、変身はいったいどこまでつづくのかー思いをはせざるをえなかった。久方ぶりの北京の、いうならば見も蓋もない様変わりに、私は驚きあわて、そしてふるえおののいた。
 北京はかつて森の都であったという。芥川龍之介は1921(大正10)年初夏に北京を訪れ「誰だ、この森林を都会だなどと言ふのは?」という意外の感をメモにのこしている。北京は、紫禁城(現故宮博物院)を囲むように緑陰がしずかにひろがる「合歓や槐の大森林」だったというのだ。うっそうとした森が消え、かわいたメガポリス化しつつあるいまから思えば、まるで夢である。ひるがえって、87年前からすれば、北京でオリンピックが開催されるなど、夢のまた夢であったろう。歴史とは、けだし、蜃気楼のような幻の果てないつらなりである。
 芥川が訪中したのは、本人は知るよしもなかったのだが、じつは中国共産党が毛沢東らわずか57人の党員によって結成された歴史的な年であった。芥川は北京につく前、毛沢東の出身地、湖南省の長沙も見てまわり、「往来に死刑の行はれる町、チフスやマラリアの流行する町」などと記している。長沙にかぎらず中国は、諸外国から“東亜の病人”と呼ばれるほどのすさまじい貧しさであった。列強にいたぶられた半植民地状態にあった中国はその後、日中戦争と国共内戦でさらにすさみ貧困化する。毛沢東は、革命なった建国当初の中国をも「一窮二白」(一に貧困、二に空白)と自嘲気味に表現したものだ。中国とはかつて物質的には“壮大なゼロ”であったのだ。
 北京五輪のすさまじいばかりの民族主義的高揚は、そうした負の記憶延長線上で、おとしめられた過去への遺恨か反動のように噴きだしている。北京五輪組織委は「中国が世界の中心の華であること」を世界にアピールする大会といってはばからない。“中華”という臆面もない中心意識は、ひとり競技場だけでなく中国の全土に政治的にも植えつけられているようだ。中華とは、しかし、漢民族が、その文化や国土を理想的なものとした自称かつ美称なのであり、自画自賛にひとしい。周辺諸民族を東夷、西戎などと蔑称したことを思えば、まして、チベットや新疆ウイグルで中央政府への不信と不満がふくらむ一方であることをかんがえれば、中華振興はあまりといえば傲岸ではないのか。逆にいえば、中国が骨がらみ資本主義化して独自のアイデンティティや誇りをなくしつつあるからこそ、カンフル剤のように注入せざるを得ないのが、大いなる中華意識なのかもしれない。
 大中華意識の高まりは、思えば、かつての東風優位という自負と重なる。毛沢東はほぼ半世紀前「東風が西風を圧倒している」といいきり、社会主義の西側資本主義に対する優勢を、さほどの裏づけもなく誇示した。その際の「東風」は、しかし、実際にいま、西風を圧倒しているのだろうか。私の答えは、きわめて複雑な思いをこめて、「イエス」である。日米欧にくらべ、たしかに中国はかつてなく勢いさかんだ。そのうえ、なにかそら恐ろしいものが、たぎり逆巻いている。それが何かを私は北京で考えつづけた。“鳥の巣”で、かつて見たこともない豪壮な金融街で、きらびやかなデパートで、光彩の底にあるものを見ようとした。
 資本の水路が各所でひらかれ、ついに地金をだしたもの。それは「乏しきを憂えず、均しからざるを憂う」といった中国古来からの価値観とおよそ反対の、あくことのない物質的欲望である。北京から汗のにおいが消え、東京やニューヨークと大差ない商業的つくり笑いがあふれている。索漠とした空虚感も。そう、東風はいま西風を圧倒している。だが、東風は新しい人間的価値観ではない。「東風の資本」が、西風を圧倒しているにすぎない。中国は資本に負けたのだ。
(下) 理非おしきる無量無辺
 眼をつぶると、まぶたに人の海原がうかぶ。50万をゆうにこす人々が天安門広場を埋めつくし、渦まき、あふれた群衆が長安街でもうねる。人々は肖像写真をかかげ、地なりのような歓呼の声をあげる。大地が揺れた。空もどよめいた。遠雷とまがう音がまだ耳の底にある。「無量無辺」という仏教由来の言葉を知ったのは日本である。が、無量無辺をまのあたりにして足が竦んだのは、昔の北京だった。数かぎりなく、とうていはかりしれない光景。プラカードの写真は時代とともに変わった。毛沢東、華国鋒、小平・・・。無量無辺の人々がときどきの指導者に歓声をあげた。中国では、けれども、日本的想像の射程をはるかに超える力が、ものごとの理非曲直をしばしば怒涛のようにおしきってしまう。右から左へ。左から右へ。昔もいまも。
 眼を開けると、めくるめく光市事件の洪水である。北京五輪のスローガンがいあるところにある。「一つの世界、一つの夢」。街には商品が溢れかえっている。ないものはない。快楽も、安心も、健康も、教養も、あらゆる種類の贅沢も、超弩級のスペクタクルも、ばかげた笑いも、1本2万㌦もするロマネ・コンティも、骨董品または笑いのネタとしての毛沢東の胸像や「毛首席語録」も、いっぷう変わったセックスも、金持ちと高級幹部だけが入場をゆるされる会員制クラブも。なんだって手に入る。お金さえあれば。お金がなければ、たちまち追い出されるだろうけれど。五輪の競技を薄型テレビで見ながら世界中どこにでもあるハンバーガーをほおばり、どこでも飲めるコーラを飲んでいる一家。険のないまなざし。「一つの世界、一つの夢」・・・。
 ただぼうぜんとするほかない。きょうのこの日、この光景を見るために、この国は無量無辺のエネルギーを蕩尽し、民衆をいくたびも絶叫させ、無量無辺の犠牲者をつくらなければならなかったのか。「走資派」(資本主義の道をあゆむ実権派)と書かれたステッカーを首にぶらさげて市中をひきまわされ、公開処刑された幾多の人々。あれはなんだったのだろう。“鳥の巣”がまた歓声にわいた。歴史の血痕と暗部をすべて洗いながすような爆発的な光と音楽が五輪会場に満ちる。歴史とは、善悪や虚実を超えたそのときどきの無量無辺の力の謂いなのか。
 生まれてはじめて魯迅の「知」に触れて胴ぶるいしたときのわが身におさめきれない興奮が、“鳥の巣”の大歓声で、突然によみがえった。「狂人日記」を読んだときのことだった。今から丁度90年前に生まれたこの短編小説を、若かった私は、けっして昔日の中国の物語とはとらなかった。生きのびるために人が人を食らう社会ーという極限の暗喩を、魯迅の封建中国観、儒教批判と受けとめることもできなかった。「食人(カニバリズム)」とは、中国という地理的、文化的、時間的枠を突破した「私たちのいま」だと思ったのだ。つまり、日本や米国の現在にも、視えない食人とその無限連鎖がある、と。富者と強者がただ貧者と弱者の犠牲のうえにのみ肥えていくしくみ、あるいは貧者と弱者がたがいをそこないながら生きざるを得ない世の中。美辞麗句でどうとり繕おうとも、それは食人社会と実質的に変わるところがない・・・。熱病にかかったようにそうした考えにとりつかれ、宗旨がえもできずに生きのび、私は再び北京にきた。
 狂乱の昔について北京の友人と語らい、私たちは声を上げて笑った。国中で毛語録をうちふるなんて、よくもあんなばかげたことができたものだ、と。笑った舌が、なぜか、すぐに凍える心地がした。“鳥の巣”にいるすくなからぬ観衆とその親、その祖父母も、かつては「毛首席万歳!」と叫んだのだから。魯迅は民衆というものをあらかじめ善なるものとはとらえなかった。なにかにつけて付和雷同し、裏切り、だましあい、たがいにたがいを食い合う度しがたい生き物と見ていた。魯迅の眼の深さは、食人的関係性にしばられた民衆を、たんに忌むべき、“他者”とはせずに、自己のなかにも民草のやりきれなさを見ていたことだ。
 五輪を開催した北京に、私はいわくいいがたい違和感をおぼえ、そのわけを探りあぐねていた。いま、やっとわけがわかった気がする。これはある種の自己嫌悪なのだ。資本という食人的関係性から逃れられない「われわれ」への。東風の資本は西側を圧倒しつつある。だが、資本の運動にはもともと西も東もありはしない。いまは魯迅にならい、こう祈ろう。「人間を食ったことのないこどもは、まだいるかしら?せめてこどもを・・・」(「狂人日記」竹内 好 訳)


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