とある夫夫(ふうふ)が日本で婚姻届を出したときの話
僕が夫に出会うまで
七崎 良輔 2019/02/14
2015年9月30日。僕と亮介君はカップルから家族になった。この日から、僕らは自分たちを夫夫(ふうふ)と呼んでいる。
亮介君と付き合い始めてちょうど1年、出会ってからは3年以上経っていたこの日に、僕らは江戸川区役所に婚姻届を提出した。当時僕は27歳、亮介君は31歳だった。
前の晩は、眠れなかった。僕らが男同士で婚姻届を提出すると、窓口の人はどんな反応をするだろうか。
写真;著者の七崎良輔さん(右)と夫の亮介さん(左)(撮影 前田賢吾(L-CLIP)
もしかすると「ふざけるな!」と言って、突き返されてしまうかもしれない。そうなれば、僕らの真剣な思いを伝えなければならない。それだけならまだいい。窓口の人が、これは冗談だと、鼻で笑って、話をきいてくれなかったら……。窓口には多くの男女のカップルがいて、みんなの笑いものになってしまったら……。そうなったら、僕はまだしも、亮介君は耐えられるだろうか。
差別的なことを言われて、傷つけられてしまうことだって考えられる。そういう扱いは、今までも、さんざん経験してきた。その時のために、やり取りを録音しておいた方がいいかもしれない。いや、やっぱり、知り合いの弁護士に同席してもらうのが賢明なのかもしれない……。
そんな妄想が膨らみ、不安が次々に押し寄せ、眠気はどこかに行ってしまっていた。
そんな僕の隣で、目をとじて、まるで眠っているように見える亮介君からは、いつもなら聞こえてくるはずの寝息が聞こえない。亮介君も同じ気持ちなのだろう。僕も目をとじることにしたが、頭の中は明日のことでいっぱいだった。結局その夜、亮介君の寝息を聞くことはなかった。
「お2人は、男性同士ですか?」
次の日、僕たちはスーツ姿で、戸籍課の窓口に立っていた。婚姻届を提出する際に、わざわざスーツを着ていく人は少ないかもしれない。ただ、僕たちは、婚姻届を提出するその行為が、いたずらではないこと、真剣であることを、たかが服装であってもキチンとした形で示した方がいいと思ったのだ。
窓口の方は、僕らが記入した婚姻届に指を這わせ、その指は、僕らが記入した文字を追っていた。僕らの目も、その指を追った。指は、僕らの名前の文字を何度も、何度も往復していた。
「亮介さんと……、良輔さん……。お2人は、男性同士ですか?」
「そうです」
僕がすかさず答えた。昨夜僕は、いろんな想定をしていたのだ。こう言われたら、こう言おうと。かかってこい。録音だってしているんだ。偶然にも、僕も亮介君も、どちらも同じ「りょうすけ」という名前だから、余計にふざけていると思われるかもしれない。
「男性同士で、婚姻届の提出をお望みということで、よろしいでしょうか」
「そうです」
「少々お待ちいただけますか」
窓口の向こう側には机が並び、多くの人がそこで仕事をしているのが見える。窓口の人がその1人に声をかけ、僕らの婚姻届を見せると、その人がまた違う誰かを呼び、また人を呼び、1つの机に小さな人だかりができていくのを、僕らは見守っていた。この後何を言われるのか。もう覚悟はできている。
戻ってきたときには、窓口の人と、あと数名の職員がついてきていた。
「大変申し訳ありません」
それが、第一声だった。
「本来ならば、この場で処理ができるはずなのですが、いったんこちらで預からせていただいても、よろしいでしょうか。お2人揃って来ていただいたのに、申し訳ありません」
罵倒されたとき、言い返すために、寝ずに考えていた言葉の数々が、必要なかったことに安堵した。
「今はまだ、この婚姻届を受理することはできないんです」
この日提出した婚姻届は、数日後に『男性同士を当事者とする本件婚姻届は、不適法であるから、受理することはできない』という紙を貼られて舞い戻ってきた。僕らはそれを受け取りに行ったのだが、窓口の方はとても残念そうにこう言ってくれた。
「申し訳ありませんが、今はまだ、この婚姻届を受理することはできないんです」
「今はまだ」という言葉に涙が出た。僕の中で「今はまだ」は、「いつかきっと」という希望を見出せる言葉となったからだ。
もちろん、婚姻届が不受理となることは、想定した上で提出をした。
この話をすると、「不受理になるのがわかっていたのに提出するなんて、役所にとってはいい迷惑だ」と役所の職員でもない人に言われたことがある。そうかもしれない。僕はただ、当たり前のことを当たり前にしたかったし、認められないことを前提として、行動を制限されるのが嫌だったのだ。
そして、いつか日本でも、誰もが平等に婚姻する権利が認められた時には、この提出日に遡って婚姻が認められれば嬉しい。そんな想いもあり、提出させてもらったのだ。もちろん不受理になった婚姻届は今も大切に保管している。
*築地本願寺で行われた結婚式
その翌年、2016年10月10日の体育の日に、僕と亮介君の結婚式が執り行われた。
僕らが会場に選んだ築地本願寺は、由緒正しい、大きなお寺さんだ。
この日は晴天。青空のなかで白い雲が気持ちよさそうに伸びていた。
新郎と新夫(しんぷ)の控室で、揃いの羽織に袖を通した僕の表情は、緊張と興奮でひきつっていたかもしれない。少なくとも、亮介君の顔には、緊張がはっきりと見て取れた。
会場には多くの家族や友人が駆けつけてくれていて、なかでも、両親に出席してもらえたことが、なによりも嬉しかった。そんな家族や友人と会話をすることで、緊張も和らいでいき、沢山の人々に支えられ今日という日を迎えられていることを実感した。披露宴の結びのスピーチでは、身近な人たちだけでなく、僕らのような同性愛者など少数派の権利のために闘ってきてくださった先人たちにも感謝の意を表した。素晴らしい一日だった。
*幸せな未来を思い描くことができなかった
婚姻届を提出し、結婚式を挙げることができたのは、亮介君と出会い、夫夫になれたからこそ、たどり着けたステージだ。
だが、そんな幸せな未来を、過去の自分が思い描くことができていたかというと、そうではない。むしろ、僕は長い間、自分は幸せになってはいけない人間なのだと信じて疑わなかった。前世かなにかで大きな罪を犯したせいで、罰として、ゲイに生まれてしまったのだと思っていたものだから、この人生は罪滅ぼしのためのものなのだと自分自身に言い聞かせ、幸せになることを諦めていたのだ。もちろん、前世の記憶などないのだが。
そこで、僕が何を考え、何を感じて生きてきたのか、僕の物語を綴っていきたいと思う。過去の恥ずかしい出来事も、ふつうであれば秘密にしておきたいようなことも、書いてみた。なぜなら、この道のりがあったからこそ僕は夫に出会うことができたからだ。(#2「『ふだんの僕は変なんだ』と思わせた、大人たちの恐ろしい善意」に続く)
連載「僕が夫に出会うまで」
2016年10月10日に、僕は夫と結婚式を挙げた。幼少期のイジメ、中学時代の初恋、高校時代の失恋と上京……僕が夫に出会うまで、何を考え、何を感じて生きてきたのか綴るエッセイ。隔週連載。
写真=平松市聖/文藝春秋
◎上記事は[文春オンライン]からの転載・引用です
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〈来栖の独白2019.2.15 Fri〉
昨日、「同性婚めぐり初の集団訴訟 4都市で13組が国を一斉提訴」との報道。提訴の理由として
>法的な婚姻関係にあるわけではないため、法定相続人とはなれず、所得税や住民税の配偶者控除を受けることはできない。また手術が必要になった場合も、同意者になれないなど、制約がある。原告側はこうしたことから、法の下の平等に反すると訴えている。
とのこと。
両者が婚姻関係を誓い共に生きてゆけるなら、法定相続も税控除認定も、どうでもよいではないか、と私は考える。精神は、相続や税から飛び立って自由ではないのか。なぜ役所の「婚姻」認定が必要なのか。私は
僕はただ、当たり前のことを当たり前にしたかったし、認められないことを前提として、行動を制限されるのが嫌だったのだ。
そして、いつか日本でも、誰もが平等に婚姻する権利が認められた時には、この提出日に遡って婚姻が認められれば嬉しい。そんな想いもあり、提出させてもらったのだ。もちろん不受理になった婚姻届は今も大切に保管している。
という筆者の穏当な優しさ、精神の自由が好ましく感じられる。そして、結婚式を執り行った築地本願寺さんに敬意を表したい。
◇ カミングアウトした僕に、母は「私は、まともな子を産んだんだ」と言った 『僕が夫に出会うまで』最終回 七崎良輔
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◇ ゲイの僕に「自分は変なんだ」と思わせた、大人たちの恐ろしい善意 七崎良輔 2019/02/14
◇ 同性婚めぐり初の集団訴訟 4都市で13組が国を一斉提訴 2019/2/14
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