【中韓サヨナラ…世界の親日国】 トルコ ・ポーランド・メキシコ・フランス 

2013-10-24 | 国際/中国/アジア

【中韓サヨナラ…世界の親日国】100年前エルトゥールル号の恩返し トルコ
 zakzak 2013.10.22 ★(1)
 2020年東京五輪の開催が決定した直後、ライバル都市であったイスタンブールの国トルコから、数多くの祝福の便りが日本に寄せられた。「親日国トルコ」を実感する出来事だ。
 トルコが215人の日本人の命を救ってくれたエピソードを紹介しよう。1980年から始まったイラン・イラク戦争は85年にエスカレートし、イラクの独裁者フセインは3月17日に突然、「今から48時間後、イラン上空を飛行する航空機はすべてイラク空軍の攻撃対象となる」と一方的に宣言した。
 日本政府の対応は機敏さを欠き、救援機派遣のタイムリミットはたちまち過ぎてしまった。各国民が続々と救援機で救出されてゆくのを、在イランの日本人は横目で見送るしかなかった。イランの首都テヘラン北部にはイラクのミサイルが着弾する状況で、一刻の猶予も許されない。
 この時、日本が最後の望みを託したのがトルコであった。日本側を代表して、伊藤忠商事の森永堯イスタンブール事務所長は、旧知のオザル首相(後に大統領)に電話をかけ、懇願した。
 しかし、トルコも多数の自国民を救出しなければならない。断られても当然の依頼であった。「今、日本が頼れる国はトルコしかありません」と迫る森永氏に、オザル首相は長い沈黙の後、ついに「オーケー」と答えてくれた。トルコ航空の2機のDC10がイランに飛び、215人の日本人は無事救出された。
 トルコ航空の乗組員にとっても、攻撃開始時間直前の決死のフライトであった。しかも、このあおりで、陸路イランを脱出しなければならないトルコ人も存在したのだ。
 「なぜ、そこまで日本人を優遇してくれたのか?」と聞く日本人に、トルコの人々は異口同音に答えた。「100年前のエルトゥールル号の恩返しです」と。
 エルトゥールル号は1890年、明治天皇に勲章を贈呈するために来日したトルコの軍艦であった。しかし、帰国途上、紀伊半島沖で台風に襲われ、座礁して乗組員650人中587人が亡くなる大惨事となった。
 この時、遭難者の救出・看護に自己犠牲的な働きをしたのが、地元・紀伊大島の島民だった。この年は漁獲量も少なく、また米価の暴騰もあり、食糧の乏しい大島ではあったが、島民は貴重な米を供出し、最後の非常食の鶏まで潰して遭難者にふるまった。
 生存者63人(一説に69人)は日本政府の厚遇を受け、2隻の軍艦により丁重に母国へ送り届けられた。この話はトルコの歴史教科書に載っており、トルコ人なら誰でも知っている。トルコはこの遭難事件の恩返しを95年後にしてくれたのだ。
 ロシアの圧迫に苦しんでいたトルコは、日露戦争(1904年~05年)での日本の勝利に喜び、さらに親日の度合いを高めた。子供にノギ(乃木希典陸軍大将)、トーゴー(東郷平八郎海軍大将)と名付ける親も続出した。
 トルコ共和国のケマル・パシャ初代大統領は、トルコ近代化のモデルを明治維新に求めた。トルコ人の「親日」は明治以来の筋金入りなのだ。
 <筆者プロフィール>藤井厳喜(ふじい・げんき)
 国際政治学者。1952年、東京都生まれ。早大政経学部卒業後、米ハーバード大学大学院で政治学博士課程を修了。ハーバード大学国際問題研究所・日米関係プログラム研究員などを経て帰国。テレビやラジオで活躍する一方、銀行や証券会社の顧問、明治大学などで教鞭をとる。現在、拓殖大学客員教授。近著に「米中新冷戦、どうする日本」(PHP研究所)、「アングラマネー タックスヘイブンから見た世界経済入門」(幻冬舎新書)
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『海難1890』を鑑賞 2015.12.9 「国会の承認が得られないので、日本人救出機を飛ばせられない」… 
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【中韓サヨナラ…世界の親日国】「美人の国」ポーランド、日露戦争から連綿と続く親愛感 日本人はモテモテ
 zakzak 2013.10.23 ★(2)
 ヨーロッパ美人と結婚したい独身の日本人男性がいれば、まず最初に行くべき国はポーランドである。ポーランドはヨーロッパ有数の「美人国」であるばかりではなく、とにかく日本人というだけで「モテる」のである。「ポーランド語ができない」と心配する必要はない。名門ワルシャワ大学をはじめ、いくつもの大学に日本語学科があり、優秀なポーランド人の青年男女が日本語と日本文化を熱心に勉強している。
 帝政ロシアの圧迫下で苦しんでいたポーランド人が、日露戦争(1904~05年)における日本の勝利に喜んだのは言うまでもないが、それだけではない。ロシアの支配下にあったポーランドから召集され、日本の捕虜となった将兵は数千人とされるが、彼らポーランド将兵は日本で厚遇され、皆、大の親日家となって帰国したのだった。
 ロシア革命(17年)後、祖国の独立のために挙兵したシベリアのポーランド人部隊は、反革命派のコルチャック軍とともに戦ったが、勇戦奮闘も虚しく敗北。2000人近いポーランド兵は、武装解除されてウラジオストクに追い詰められた。この絶体絶命ともいえる窮地を救ったのも日本だった。日本軍はこの部隊を救済し、祖国へ送り届けている。
 20~22年にかけて、シベリアに送られたポーランド人の政治犯や難民の孤児たち765人を、日本が救済する出来事があった。陸軍、日赤を始め、官民をあげて、孤児たちは至れり尽くせりの看護と厚遇を受け、米国もしくは英国経由で本国に送り返された。この事件はポーランド人をさらに親日化させた。
 こういった日本の好意にポーランドも応えてくれた。第1次世界大戦(14年~18年)後、独立を回復したポーランドは、日本に対して、情報戦に不可欠の暗号化技術の基礎とソ連情報を提供してくれたのである。ポーランドのおかげで日本の暗号化技術は国際水準に達したといわれている。ドイツのポーランド侵攻(39年)後も、日本はポーランドの地下抵抗組織と協力関係にあり、日本は貴重な独ソ情報を得ていた。
 また、阪神淡路大震災後、95年と96年の夏休みには、被災児童計60人をポーランドに無償で招待してくれた。被災児童の中から、孤児たちが優先して選ばれたというが、彼らはポーランドでシベリア孤児4人の生存者と面会している。4人は被災児たちを励まし、日本人に恩返しできたことを大いに喜んだという。
 労働運動「連帯」を議長として率いてソ連の圧政から祖国を解放し、後に大統領となったワレサ氏は「ポーランドを第2の日本に!」と叫んだ。日本がこの期待に十分に応えられなかったことが残念だ。それでも、ポーランドの日本への親愛感は衰えていない。
 ■藤井厳喜(ふじい・げんき)
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【中韓サヨナラ…世界の親日国】メキシコ、不平等条約改正の“恩義”と高まるWin-Winの経済関係
 zakzak2013.10.24 ★(3)
 日本とメキシコの絆は、1609年(慶長14年)、メキシコ船サンフランシスコ号の遭難事件から始まった。メキシコは当時、「ヌエバ・エスパーニャ(新スペイン)」と呼ばれ、スペインの植民地だった。同様の植民地フィリピンから、ドン・ロドリゴ前総督ら373人を乗せてメキシコに向かった船は、現在の千葉県御宿沖で座礁し、現地住民の献身的な努力によって317人が救助されたのだ。
 ドン・ロドリゴは、江戸で徳川2代将軍・秀忠に会い、さらに駿府城(静岡市)に引退していた家康にも謁見した。家康は一行を歓待しただけでなく、座礁した船に代わって120トンの船を新造し、ドン・ロドリゴなどを無事メキシコに送り届けたのだ。
 その369年後、1978年に来日したメキシコのロペス・ポルティーヨ大統領は御宿にヘリコプターで飛び、現地住民が遭難者に与えた人道的な救助に対し、丁重な感謝の言葉をささげた。
 明治における不平等条約の改正と、敗戦後の日本の国際社会への復帰に関して、日本はメキシコから受けた恩義を忘れてはならない。
 1888年、日本はメキシコと通商条約を締結したが、これは日本がアジア以外の国と初めて結んだ平等条約であった。日本が関税自主権を確立し、治外法権を撤廃した最初の条約だったのである。日本はこれを実績として、次々と西洋諸国との条約改正に成功する。これは駐米公使の陸奥宗光が発案し、実行した戦略であった。日本政府はメキシコの不平等条約改正に感謝し、その大使館用地として、永田町の一等地を譲渡した。
 1948年の国連総会では、メキシコは日本との講和条約を提案し、51年にはサンフランシスコ講和条約をいち早く批准してくれた。メキシコは42年に日本に宣戦布告したが、日系人は米国のように収容所生活を強制されることはなく、差別や弾圧もなかった。
 2005年に日本・メキシコEPA(経済連携協定)が結ばれて以来、両国間の経済関係は発展し、日本の対メキシコ直接投資は著しく増大している。05年から12年までの累積投資額は93億ドル(約9121億円)を超え、米国を上回った。自動車関連産業の進出が目立っている。
 メキシコはもうすぐ日本の人口を越えるし、人口ボーナスは今後20年は続く。メキシコの輸出製造業は、中国のそれを凌駕しつつある。メキシコの輸出競争力は、労働力とエネルギー、輸送コストの安価さと、通貨安で支えられている。
 「反日」の中国より、「親日」のメキシコに進出する企業が増えている。メキシコは食糧輸出も盛んで、日本は近年、豚肉やカボチャ、アボカドなどを大量に輸入している。長い歴史に裏打ちされたメキシコの親日度は高まるばかりだ。
 ■藤井厳喜(ふじい・げんき)
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【中韓サヨナラ…世界の親日国】フランス、日本文化に惚れ込む 浮世絵、アニメに柔道…日本食も人気
  zakzak 2013.10.25 ★(4)
 パリにあるフランス料理の一流レストランで、最近、日本人料理人を採用する所が増えている。「日本人が働いているなら、美味しいし清潔に違いない」と評判になり、店が繁盛するのだという。パリ在住のフランス人から聞いた話である。
 日本料理屋でなく、フランス料理店というのが面白い。フランス人というと「自国文化に絶対の自信を持っている」とみられがちだが、どうやら、日本文化は例外のようだ。すしに代表される日本食は、米国以上にフランスで人気といえる。
 食文化と並んで人気があるのが、日本のマンガとアニメだ。人気マンガのほとんどが仏語訳されて出版されている。主要書店には、必ず日本のマンガとアニメの大きな売り場がある。マンガは青年、少年、少女などのジャンルに分けて売られているほど、種類が多い。
 毎年7月ごろに開催される日本文化の総合イベント「JAPAN EXPO(ジャパン・エキスポ)」は今年も大人気で、4日間で来場者数は23万人強を数えた。日本からはアニメやマンガ作者はもちろん、伝統文化や大衆文化の担い手が招待されて、実演や講演を行う。今年は「北斗の拳」の作者、原哲夫氏や、ゆるキャラ「くまモン」や「ひこにゃん」も登場した。茶道や華道、書道、さらに空手、柔道、合気道などの紹介も行われた。 忘れてはならないのは、フランスは硬派な国で、サッカー、ラグビーなどが強いだけでなく、日本の武道が盛んで、空手や柔道の競技人口も多いことだ。五輪の柔道では、毎回男女とも上位に選手を進出させている。
 フランスが日本文化に魅了された初めは、浮世絵であろう。浮世絵が印象派に強い影響を与えたことはよく知られている。フランスでの日本文化愛好(ジャポニスム)は2つの世界大戦の間の1920~30年代に全盛期を迎えた。
 当時、ジャポニスム雑誌の編集者だったアルフレッド・スムラーは、レジスタンスに加わり、アウシュビッツの監獄につながれるが生き延びて、戦後、日本特派員を務めた。彼は、戦後日本の政治状況について次のように語っている。
 「日本の愛国者が置かれている状況は、戦中、われわれが置かれていた状況と酷似している。外国(米国)の圧倒的な政治権力の圧迫下で、民族の独自性を取り戻そうと苦闘しているのが、日本の愛国者なのだ」
 彼は、日本とナチス・ドイツとの間に、何の同一性も認めなかった。
 仏左翼に型通りの反日論がないわけではない。しかし、ドゴールの片腕でもあった希代の知識人、アンドレ・マルローは日本文化の精神性を極めて高く評価した。舞踊家のモーリス・ベジャールは三島由紀夫の自決に触発されて「M」という舞踊劇を創作した。作家のベルナール・ミローは「KAMIKAZE」を著し、特攻隊の精神的高貴さを描き出した。
 フランスの一流の知識人が、日本文化に寄せる熱い想いの一端がうかがわれる。
 ■藤井厳喜(ふじい・げんき)
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