<少年と罪>第9部 生と死の境界で (上)因果 償いきれぬ 苦悩残し
2018/3/4 朝刊
幼さを感じさせる赤ら顔が思い浮かんだ。昨年十二月十九日。熊本県にある寺の住職(67)は、かつて向かい合った「元少年」の死刑執行をニュースで知った。関光彦(てるひこ)、享年四十四。一九九二年、十九歳で千葉県市川市の「一家四人強盗殺人事件」を起こした男だ。
寺には関が殺した犠牲者の遺骨がある。住職は事件の翌年、関の母親らに頼まれて、千葉刑務所で関と初めて面会した。「二度と過ちを犯さないと、御霊前に伝えてほしい」。そんな言葉を平然と吐く若者をこざかしく思った。
アトピー性皮膚炎にも悩んでいた。生きているからだろう---。そう言いたかった。犠牲者の無念の思い、アクリル板越しに怒りをぶつけたくなったこともある。
ただ、1審で死刑判決を受けた後は変化も感じた。
「生と死の境に立ち、命の重みを考え始めたのかもしれない」。面会のたびに犠牲者の供養を頼まれた。
「許す、許さないではない。ただ、願いは聞き入れられた」。罪の大きさに苦しんでいるとは見て取れた。
96年、東京高裁は関の控訴を棄却し、死刑判決が維持された。当時、東京新聞(中日新聞東京本社)の司法担当記者だった瀬口晴義(54)は関と文通を重ね、面会もした。あの永山則夫以来となる少年死刑囚の実像を探るためだった。
手紙では体重が120㌔を超えたことを嘆いていた。威圧感を覚える巨体。礼儀正しく、大腸がんを患った瀬口を本気で気遣った。「相対した印象と、残虐非道な犯行との差は、最後まで埋まらなかった」
関は死刑を「当然の報い」「それでも4人は戻らないし、何の償いにもならない」と語った。「真に償いを求めるなら、己の将来を考えてはいけない」とも。本心からの言葉なのか、いまの瀬口に答えは出ない。ただ「自分の命をもってしてもなお、償いきれない罪の大きさを自覚していた」とは思う。
01年、最高裁は上告を棄却し、死刑が確定した。上告審から弁護団に加わった一場順(より)子(71)は、その後も再審弁護人として面会を続けた。関から「4人がいつも『許さない』と言っているようで苦しい」と打ち明けられたこともあった。
一場は、実父から受けた虐待が関の人格に影響したと考え、二人で幼少時の記憶と向き合った。時折、細い目をつり上げて話す姿に、ため込んだ怒りを感じ取った。ただ、晩年は「僕のことは先生が知っていてくれるから、もう、いい」と穏やかな表情で語った。
一場への遺言はたった一言、「裁判記録は先生の元へ」だった。19年の生育歴と事件資料は、関の生涯の全てに等しい。何を伝えたかったのか、伝えてほしかったのか。一場は、託された意味を自問する。
一方、熊本の住職の手元には、関が12年前に書いて送ってきた2千5百字の写経が残された。犠牲者を供養する一節。昔、経本を差し入れたが、内容まで教えた記憶は無かった。
宗教者として死刑制度を肯定はしない。だが遺族の悲嘆を目の当たりにすれば、執行に「因果応報」を思う。揺れる気持ちのまま、死刑翌日の12月20日、関を供養した。「事件から26年間、彼なりに罪と向き合い続けた。それを否定するだけの根拠は、私にはないから」。それでも戒名は与えなかった。
同じ日、関が刑死した東京拘置所から5百50㌔離れた岡山刑務所。一人の元少年が、執行を報じる新聞記事にわが身を重ねていた。関の4年前に、犯罪史に残る「名古屋アベック殺人事件」を起した受刑者(49)=犯行時(19)=だった。
(敬称略)
◎上記事は[中日新聞]からの書き写し(=来栖)
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◇ <少年と罪>第9部 生と死の境界で(中)贖罪 「名古屋アベック殺人」(中日新聞2018/3/5)
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◇ 【少年事件 死刑判決】 石巻3人殺傷事件 市川市一家4人殺害事件 光市母子殺害事件 名古屋アベック殺人事件(2審で無期懲役)
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◇ 2人の死刑執行 関光彦死刑囚(=犯行当時19歳) 松井喜代司死刑囚 2017/12/19 上川陽子法相命令
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