「死刑とは何か~刑場の周縁から」 【「神的暴力」とは何か 死刑存置国で問うぎりぎり孤独な闘い】死刑の暴力の恐怖を、身体を接触し分かち合う感覚が中和している

2009-03-13 | 死刑/重刑/生命犯

〈来栖の独白〉
 本稿を起こすにあたって、【「神的暴力」とは何か 死刑存置国で問うぎりぎり孤独な闘い】を再度読んでみた。と胸を衝かれたところがあった。
  【「神的暴力」とは何か 死刑存置国で問うぎりぎり孤独な闘い】は、末尾で次のように述べる。

 それにしても、殺人や戦争といった人間の暴力の究極の原因はどこにあるのだろうか? ゴリラの研究で著名な山極寿一は、霊長類学の最新の成果を携えて、この問題に挑戦している(『暴力はどこからきたか』NHKブックス)。無論、動物で見出されることをそのまま人間に拡張してはならない。だが、人間/動物の次元の違いに慎重になれば、動物、とりわけ人間に近縁な種についての知見は、人間性を探究する上での示唆に富んでいる。
  山極の考察で興味深いのは、暴力の対極にある行為として、贈与、つまり「分かち合う行為」を見ている点である。狩猟採集民は、分かち合うことを非常に好む。狩猟を生業とする者たちは獰猛な民族ではないかと思いたくなるが、実際には、彼等の間に戦争はない。ほとんどの動物は贈与などしないが、ゴリラやチンパンジー、ボノボ等の人間に最も近い種だけが、贈与らしきこととを、つまり(食物の)分配を行う。
  暴力を抑止する贈与こそは、「神話的暴力」を克服する「神的暴力」の原型だと言ったら、言いすぎだろうか。チンパンジーなど大型霊長類の分配行動(贈与)は、物乞いする方が至近で相手の目を覗きこむといった、スキンシップにも近い行動によって誘発される。森達也が教誨師や(元)刑務官から聞き取ったところによれば、死刑囚は、まさにそのとき、一種のスキンシップを、たとえば握手や抱きしめられることを求める。死刑の暴力の恐怖を、身体を接触し分かち合う感覚が中和しているのである。

〈来栖の独白〉追記
 故藤原清孝は、一度被せられた頭巾を除いてもらい、「ありがとう」と言っている。私はこれを、過去2度もクビにした教誨師への詫びの気持も籠められていたのではないか、また刑務官を代表と見立てて「この世」(で関わったすべての人々)への謝罪と感謝を表明したかったのではないか、などと思っていた。
 しかし今回不意に、「藤原は抱いてほしかったのではないだろうか」との疑念が湧き、と胸を衝かれたのである。抱いてもらいたいなど、到底聞き届けられることではない。しかし藤原は、いま目の前に迫った死刑の恐怖から避難するように、「頭巾をとってくれ」と言い、教誨師の目を覗き込んで「ありがとう」と言った。その一言の会話が、一瞬、藤原の心を救ったのではないか・・・そんな気がしたのである。
 そういえば、加賀乙彦著『宣告』の主人公楠本も、所長に握手を求めている。 
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[神的暴力とは何か] 死刑存置国で問うぎりぎり孤独な闘い 暴力抑止の原型 大澤真幸(中日新聞2008/2/28) 
 「神的暴力」とは何か(上)死刑存置国で問うぎりぎり孤独な闘い
 大澤真幸(おおさわ・まさち)京都大学大学院教授
 論壇時評 中日新聞 2008/2/28
 20世紀初頭の偉大な哲学者ヴァルター・ベンヤミンの論考「暴力批判論」(1921年)に、神話的暴力/神的暴力という有名な区別がある。神話的暴力は、さらに、「法を維持する暴力」と「法を構成し措定する暴力」に下位区分される。法維持暴力とは、警察が行使する暴力や刑罰のことである。法措定暴力とは、革命や有事のような例外状態において、新たに法を設定する暴力のことを指している。
 問題は、法を否定する暴力とされる神的暴力である。「暴力」という語にネガティブなものを感じる人もいるかもしれないが、これは、恣意的であったり専制的であったりする法や国家権力から人を解放する力のことであり、ベンヤミンは、これをポジティブな意味で使っている。だが、それは具体的には何を指すのか?
 法維持/法措定/法否定のほかに、単純な犯罪のような法に違背する暴力もあるので、暴力は4分類できる。その内、「法維持/法違背」の2暴力は明らかに対抗的な関係にあるXだということになる。先の論考の結末部で、ベンヤミンは、「殺人の禁止」の規定との関連で、神的暴力とは、この規定と「孤独の中で闘う」者が担う暴力だと述べている。たとえば、革命や戦争や、そのほかぎりぎりの状況の中で、他者を殺すべきかどうかという問いに直面するときがある。この問いと孤独に闘う個人や共同体が神的暴力の担い手だ、と。どういうことだろうか?
 まず、国家権力による殺人、つまり死刑は、4分類の中のどれに入るか考えてみよう。一見、死刑は法の中に規定されているので、法維持暴力に思えるが、1人の人間をこの世界から完全に抹消してしまう行為は、法秩序のバランスの回復ということを超えている。むしろそれは、常軌を逸した犯罪者を抹殺することで、国家が、自らにとって法や正義とは何かをあらためて表明する場であって、法措定暴力に近い。
 日本は、「先進国」の中で死刑制度を存置しているごく少数の国家の一つである。井上達夫は、「『死刑』を直視し、国民的欺瞞を克服せよ」(『論座』)で、鳩山邦夫法相の昨年の「ベルトコンベヤー」発言へのバッシングを取り上げ、そこで、死刑と言う過酷な暴力への責任は、執行命令に署名する大臣にではなく、この制度を選んだ立法府に、それゆえ最終的には主権者たる国民にこそある、という当然の事実が忘却されている、と批判する。井上は、国民に責任を再自覚させるために、「自ら手を汚す」機会を与える制度も、つまり国民の中からランダムに選ばれた者が執行命令に署名するという制度も構想可能と示唆する。この延長上には、くじ引きで選ばれた者が刑そのものを執行する、という制度すら構想可能だ。死刑に賛成であるとすれば、汚れ役を誰かに(法相や刑務官に)押し付けるのではなく、自らも引き受ける、このような制度を拒否してはなるまい。
 森達也『死刑』(朝日出版社)は、死刑にさまざまな形でかかわっている人たち(弁護士、元死刑囚、教誨師、犯罪被害者等)にインタビューしながら、死刑存置/廃止を考えた記録である。結論は廃止に賛成ということだが、重要なのは、森が、この結論を最終的に選択する瞬間である。彼は、拘置所まで、光市母子殺人事件の犯人に面会に行く。犯人である少年と対したとき、森は、突如として強い思いに襲われる。彼を死なせたくない、彼を救いたい、と。
 殺人(の禁止)規定と孤独に闘うとは、まさにこういう場面を言う。法律で決まっているからとか、命令だから、という理由で人を殺すとき、人は、それが正しいことかどうかを考えない。超越的な他者(法や制度や命令者)が、何が正しいかを教えてくれるからである。責任はその他者に転嫁される。だが、そのような超越的な他者がどこにもいないとしたら、つまりあなたは孤独なのだとして、あなたはどうすべきか?そういう孤独の中の煩悶を通じて、あなたが自ら選び、そして行使されたりあるいはあえて回避されたりする暴力、それこそ神的暴力である。井上の挑発的な制度は、このような「孤独」の中に国民を投げ込む制度として、再評価できる。

 「神的暴力」とは何か(下) 「分かち合い行為」に暴力抑止の原型を見る
 ベンヤミンの「神的暴力」という概念のポイントは、そこに付せられた形容詞が含意することとは逆のところにある。すなわち、神に比せられる超越的な他者が不在であるとき、正しい行為を自らの責任において選択するということに眼目があるのだ。そうであるとすれば、神的暴力は、人民が、自分に外在する誰にも強制されたり、指導されたりすることなく、自らの意志で自らを統治する政治と、要するに徹底した民主主義と合致する。
 このような文脈においたとき、藤原帰一の「外交は世論に従うべきか」(『論座』)は、神的暴力に関する議論だということになる。藤原は、外交が民主主義に従うべきかどうかを考察している。外交は、国際法の中で国益や合理性を追求するものであって、ポピュリズムへと陥る危険性のある(国内の)民主主義に直接規定されるべきではない----たとえば世論は核武装問題より拉致問題を優先したがっても国益や国際平和に真にかなっていることは別かもしれない---という考えがある。
  藤原は、こうした考えにも一定の説得力があることを認めつつ、外交政策は民主主義に服するべきだと結論する。藤原によれば、ポピュリズムによくある外国や他民族への偏見は、国民が政治から疎外されていると感覚しているときに出てくる。要するに、民主主義が不完全・不徹底なときに出てくるのだ。外交を司るエリートと国民の間に信頼があるとき、つまり「神的暴力」の理念に含意された徹底した民主主義が成り立っているときには、外交は民主主義に導かれなくてはならない。
 それにしても、殺人や戦争といった人間の暴力の究極の原因はどこにあるのだろうか? ゴリラの研究で著名な山極寿一は、霊長類学の最新の成果を携えて、この問題に挑戦している(『暴力はどこからきたか』NHKブックス)。無論、動物で見出されることをそのまま人間に拡張してはならない。だが、人間/動物の次元の違いに慎重になれば、動物、とりわけ人間に近縁な種についての知見は、人間性を探究する上での示唆に富んでいる。
  山極の考察で興味深いのは、暴力の対極にある行為として、贈与、つまり「分かち合う行為」を見ている点である。狩猟採集民は、分かち合うことを非常に好む。狩猟を生業とする者たちは獰猛な民族ではないかと思いたくなるが、実際には、彼等の間に戦争はない。ほとんどの動物は贈与などしないが、ゴリラやチンパンジー、ボノボ等の人間に最も近い種だけが、贈与らしきこととを、つまり(食物の)分配を行う。
  暴力を抑止する贈与こそは、「神話的暴力」を克服する「神的暴力」の原型だと言ったら、言いすぎだろうか。チンパンジーなど大型霊長類の分配行動(贈与)は、物乞いする方が至近で相手の目を覗きこむといった、スキンシップにも近い行動によって誘発される。森達也が教誨師や(元)刑務官から聞き取ったところによれば、死刑囚は、まさにそのとき、一種のスキンシップを、たとえば握手や抱きしめられることを求める。死刑の暴力の恐怖を、身体を接触し分かち合う感覚が中和しているのである。
 論壇時評 中日新聞2008/2/28~29

   

 (2008/02/28 up)
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《死刑とは何か~刑場の周縁から》 加賀乙彦著『宣告』『死刑囚の記録』 大塚公子著『死刑執行人の苦悩』
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