曽野綾子独占手記 夫・三浦朱門を自宅で介護することになって そのとき、私は覚悟を決めたのです 『週刊現代』2016年9月24日・10月1日合併号

2016-10-12 | Life 死と隣合わせ

曽野綾子独占手記 夫・三浦朱門を自宅で介護することになって そのとき、私は覚悟を決めたのです   
 週刊現代  講談社  毎週月曜日発売
  いまや「自宅で介護を受けたい」と望む高齢者は半数近い。しかし、肉親にとってはそれなりの心の準備が必要だ。夫90歳、妻84歳—老年と向き合ってきた作家が、初めて語った在宅介護生活。
■「僕は幸せだ。ありがとう」
 夫は二〇一五年の春頃から、様々な機能障害を見せるようになった。内臓も一応正常。ガンもない。高血圧も糖尿病もない。私と違ってすたすた長距離を歩く人であった。しかしその頃から時々、すとんと倒れるようになった。その度に頭を打ってこぶを作り、顔面に青痣を作った。もっともその頃は、「この痣ですか? 女房に殴られたんです」と嬉しそうに言えるほどに普通だったが、次第に寡黙になって来た。今でもテレビを見ながら痛烈な皮肉を言うことはあるが、恐らく性格の変化は認知症の初期の表れだったのであろう。
 どこが悪いか検査するための入院をしたのが二〇一五年の秋だが、その短い入院の間に、私は日々刻々と夫の精神活動が衰えるのを感じた。ほんとうに恐ろしいほどの速さだった。病院側は、実に優しくしてくれたのだが、私は急遽、夫を連れ帰ってしまった。
 家に帰って来た時の喜びようは、信じられないくらいだった。「僕は幸せだ。この住み慣れた家で、廻りに本がたくさんあって、時々庭を眺めて、野菜畑でピーマンや茄子が大きくなるのが見える。ほんとうにありがとう」などと言うので、「世の中何でも安心してちゃだめよ。介護する人の言うことを聞かないと、或る日、捨てられるかもしれないわよ」と私は決していい介護人ではなかった。
 しかし私はその時から、一応覚悟を決めたのである。夫にはできれば死ぬまで自宅で普通の暮らしをしてもらう。そのために私が介護人になる、ということだった。
 日本が老齢人口の過剰に国家として耐えられなくなってくるだろう、ということに気がつきだしたのは、もうずいぶん前のことだが、私がそれを作品に書いたのは二〇一三年の末のことである。私はその小説を、一種の未来小説として書き、『二〇五〇年』という題を付けたのだが、この危険で破壊的な小説の内容は、当時あくまで空想上のことであった。
 むしろ現在だったら、私はこの作品を書けなかっただろう。最近の世相には、小説の中ですら、暗い話、非道徳的な話を書いてはいけないとするおかしな幼児性が、主にマスコミ自体の中に顕著に出て来たからである。それは小説作法の常道からは外れた考え方である。むしろ小説こそが、現世ではみ出た異常性、道徳に反する思想、などに光を当てるという任務を担ってきた。
 どういう点が危険だったかというと、私は作品の中で、若者のグループが老人ホームの火事によって、多勢の焼死者が出たのを喜ぶという場面を書いているのだが、それはあくまで社会の末期的な暗い状況として描いたので、今ならば、相模原市の知的障害者施設の元職員・植松聖という人が、「不要な人を社会から抹殺することを目的に」、十九人を殺し二十七人に重軽傷を負わせた事件があったから決して書かなかったに違いない。
 もちろん社会現象とは別に、私は八十代になっていた。作家は常に善悪にかかわらず、自分の立っている現在の位置を自覚して生きているのが普通だ。私は十分に年を取り、人間の個体としてあらゆる面で劣化し、時には差別され軽視されてしかるべき年になったから言えるようになった分野もあることを自然に感じていた。作家は完全な観念でものは書きにくい。笑い話のようだが高齢者には、ひがみと自信の双方があって自然だ。
■親たちを自宅で看取った
 この二面性を、敢然として、しかし自然体で持ちうることは、一種の技術かもしれない。例えばアウシュビッツの一種の「全盛期」について、私たちは資料では惨憺たる強制収容所の日常のみを読まされたものだが、その中には意外にも、「囚人」たちが歌を歌い楽しんだ時間もあったという記録もある。それを描かなくては、本当の強制収容所の悲惨さは記述できないだろう。
 つまり、人生というのは善悪明暗が必ず渾然としたものなのだ。だから、私は連作として書くつもりの『二〇五〇年』の中でも必ず明るい部分を書く予定なのだが、私たちが直面している老齢人口の過剰、若年層の減少という基本的な力関係は、小説の前提として重く存在していることには間違いない。このような小説の背景を、私はひたすら統計を読むことから推測していったにすぎないが、人間の感覚もまた、単純ではないだろう。
 私はいま東京の南西の端の住宅街に住んでいる。そこはそもそも私の両親が住んでいた土地であった。私は一人娘だったから、自然にそれを受け継いだのである。そこに夫の両親が隣接の古屋つきの土地を買って引っ越してきたのであった。だから私たち夫婦は本来なら、四人の親たちと住むはずだったのだが、私の両親は六十歳を過ぎてから離婚してくれたので、父は再婚相手の若い奥さんと、別の土地で一緒に暮らすようになった。
 「離婚してくれた」という言い方はおかしいといわれそうだが、私の両親はそれほど若いときから性格が合わず、家庭は「火宅」同様だったから、私は二人が正式に別れてくれた時には、実はほっとしたのである。
 その結果、私は三人の親たち(夫の両親と私の実母)全員が自宅で息を引き取るまでいっしょに暮らし続けた。
 実状を語れば単純な話だ。しかしそこには、多少とも複雑な事情があり、私自身はその間作家としての仕事も続けていたので、親孝行に関しては、現実問題としてできるだけ手抜きをする他はなかった。見捨てて別居しようとは全く思わなかったのだが、昔風に親に仕えるという姿勢の暮らしをする余力は全くなかったのである。
■老人と暮らす「技術」
 当時私は、「我が家ではミニ養老院をやっておりますので」と世間に対しては言っていたのだが、親たちはそれぞれ棟の違う古い家屋に住んでいた。私たちの住む母屋と二軒の隠居所は軒と軒が触れ合うくらい近かったので、一軒が火事になれば三軒がいっしょに焼けることは目に見えていた。しかしそれは世話をする者にとっては便利であった。おかずを作って届けるにしてもほんの数歩で配達ができる。
 老人は外出することも少なくなるのが普通なのだが、私が一番食べさせたかったのは日本中の名菓であり、都会住まいには手に入らない食品であった。例えば新しい鮎を知人から送られた時、私は一番先に年寄りに届けるというルールを作った。つまり、鮎は頂いた本数にもよるけれど、まずおじいちゃん、おばあちゃんが食べるはずであった。
 「老人は先がないからな」と夫は十八歳まで同居していた息子に言った。
 「お前はまだ先が長いから、鮎なんかいつか自分で食べに行けばいい」
 すると息子は、
 「僕は将来文化人類学やって、生涯お金なんか儲けられない生活するつもりだから、今のうちに鮎は食べさせてよ」
 などと親と交渉していたこともあった。
 しかしそれでも私たちは優先的に息子には鮎を食べさせなかった。つまり、ルールを作れば簡単なものだったのである。もっとも、私たちが一番恵まれていたのは、当時私にも少し収入があったので、老人の生活を便利にするためにかかる費用について、あまり細かく言わなくて済んだということだった。我が家には既にだらしがない体制が定着していたのである。
 お金は私と夫の預金通帳を見て残高が多い方から下ろすというルールがあった。きちんと申し合わせたわけではなかったが、秘書もお金を下ろしに行ってくれる時、自然とそういうルールに従うようになっていた。
 それにこの三人の親たちは誰もが適当につましいケチな性格だったから、私たちの経済力を当てにして身勝手を言うことは全くなかった。それでも親と同居することの第一の難しさはこの経済上の負担かもしれない、と私は今でも思っている。
 つまり、その頃から私は、老人とともに暮らすことの技術を少し覚えたのである。今私たちが住んでいる家は、約五十年前に建て替えたものである。そこが世間の言う事務所でもあり、私たちが実際にパソコンを置いて仕事をする書斎もあり、ごく普通の社会生活をする私的な家庭の部分もある。五十年も経ったので板壁は飴色になり、無数の傷もついていて、終戦直後の日本の家庭を題材にした映画を作る時には、ロケに貸したいくらいである。
 しかし最近になり……そこで新しい事態が発生した。冒頭で記したように、九十歳になった夫が自宅で療養するようになったのである。そのとき、私はこの古びた家の便利さに改めて感心した。
 五十年前、この家の図面を引いたのは私であった。夫は新築の家を建てることにも全く興味がなくて、「知寿子(私の本名)の好きなようでいい」の一言で自分が受け負わなければならない義務を放棄しようとしていた。だから私は予算を頭に入れながらも好きなように間取りを書いたのだが、五十年以上経った今、改めて一人の高齢者を看護しなければならない立場になっても、間取りに全くの不自由がないのである。
 第一に半世紀も前の家なのに、この家には段差がなかった。敷居もない。夫の生活状態を見にきたケアマネージャーさんが驚いて「この家は車椅子も動くようになっていますね」と言ってくださったが、それほどつまらない使い勝手のいい家なのである。当時少ししゃれた住宅は、食堂や客間の一部に装飾的な段差を付けたりしていたものだが、私はそうした装飾を一切省いていたのである。
 既にそのときまでに、高齢の親たちを見るのは私たち夫婦しかない、ということを覚悟していたおかげで、私は高齢者を介護するときに発生するであろう幾つかの困難を予想することができていたのである。
 つまずくこと。小回りがきかないこと。段差が辛いこと。孤立した空間に本人を置かないこと。トイレを汚すような事態になった場合に便器はおろかほとんど壁まで洗えるように、床に排水装置をつけることなどすべてを、その頃から用意してしまったのである。
■理想の暮らしなんてない
 もちろんそれから数十年間、私たち一家はごく普通の中老年として過ごした。息子は十八歳で地方の大学に行って独立し、後は三人の親たちと私たち夫婦だけの暮らしになった。この生活は私の母が八十八歳、夫の母が八十九歳、夫の父が九十二歳で自宅で亡くなるまで続いた。老人たちは一応「一病息災」の状態で暮らしてくれた。夫の母は気管支拡張症でときどき吐血したりしたが、一週間ほど入院して症状が治まると栄養注射を受けて元気になって帰ってきた。
 この母は新潟県出身で、つまり私は県民性だと思い込んでいたが、恐ろしく質素と言うかケチであった。新しく軽い布団を用意すると「私は昔風だからずっしりした重い布団でないと眠れない」というたちであった。そして私が用意した軽い羽布団をさっさとしまい込んでしまった。一方私の母は福井県出身で、どこか浪費家の性格をもっており、軽くて新しいものが好きだった。
 布団の重さに関しては、銘々の趣味で使えばいいのだが、夫の母が家の修理をさせてくれないのは困った。「私たちはどうせすぐ死ぬのだから、このままでいい」と言うのである。私はこの夫の母が入院中に素早く畳を換え障子を張り替え、家の根太も直し、伸ばし放題に伸ばした庭のあじさいなどを刈り込んで、知らん顔をしていた。そうしないと二人が住んでいる古い家をなんとか保たせることができなかったからである。夫の母は実は大いに不満だっただろうが、表だって私に文句を言うような人ではなかった。
 実母に関しては次回以下に譲るとして、私はそんな形で、どうやら家族の体裁だか、無届けの養老院だかの暮らしを整えていたのである。理想の生活などこの世にあるはずがない、というのが、昔からの私の実感であった。
 「週刊現代」2016年9月24日・10月1日合併号より

 ◎上記事は[現代ビジネス]からの転載・引用です
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「夫の後始末・その後」曽野綾子 2018/3/5 
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三浦朱門さん死去 91歳 作家、元文化庁長官
中日新聞 2017年2月5日 朝刊
 宗教や教育問題などに関する著作で知られる作家で、元文化庁長官の三浦朱門(みうらしゅもん)さんが三日、肺炎のため東京都内の病院で死去した。九十一歳。東京都出身。葬儀・告別式は近親者で営んだ。喪主は妻で作家の曽野綾子(そのあやこ)(本名三浦知寿子(みうらちずこ))さん。
 東京大卒。日本大芸術学部で教えながら、同人誌「新思潮」で小説を発表。「画鬼」(「冥府(めいふ)山水図」に改題)で文壇デビューし、遠藤周作さんや吉行淳之介さんらとともに「第三の新人」として活躍した。
 同人誌で知り合った曽野さんと一九五三年に結婚。キリスト教の洗礼を受け、小説は「カトリック作家の思索が秘められた作品」などと高く評価された。近年は老いをテーマにした著書や曽野さんとの共著も多かった。
 六七年から日本大教授を務め、八五年に文化庁長官に就任。作家の今日出海(こんひでみ)氏以来二人目の「文人長官」となった。九九年文化功労者。ほかにも教育課程審議会会長、日韓文化交流会議の日本側座長などを歴任した。二〇〇四年からは日本芸術院の院長も務めたが、一四年に高齢と健康上の理由から辞任した。
 一九八八年からの日本文芸家協会理事長時代には、永山則夫元死刑囚の同協会入会問題の対応などに追われた。
 最晩年は認知症となり、自宅で介護した曽野さんが週刊誌にエッセーを連載していた。
 作品に「箱庭」「犠牲」「武蔵野インディアン」(芸術選奨文部大臣賞)など。
 一九九八年に本紙夕刊コラム「放射線」(現紙つぶて)を執筆した。
■老いを思索
<評伝> 三日に死去した作家三浦朱門さんは晩年、老いについて思索していた。
 若いころから親交があった遠藤周作さん、安岡章太郎さん、吉行淳之介さんら、共に「第三の新人」と呼ばれた作家たちは、ほとんどが先に鬼籍に入っている。
 その度に弔辞を読むなどして、見送り続けた三浦さん。「老年の品格」など、近年発表した本の多くは老いがテーマだった。インタビューでは「僕は『第三の新人』の中で一番若くて、気が付けばもうほとんど残っていない。そろそろ俺にも順番が回ってきたんだと気づいて、だったら死の前にある老いについて書いてみようと思った」と心境を語っていた。
 「書き手は、同世代の人に共感を持たれることがある」と話していた三浦さん。八十代後半になり「同世代というものがなくなっちゃったんです。そろそろ書くのも終わりだと思う」。少し寂しそうだったのを覚えている。
 長い作家人生を共に歩んだのは、妻で作家の曽野綾子さん。二十七歳で結婚して以来、文壇を代表する「おしどり夫婦」として知られた。「夫婦のルール」など共著も多い。曽野さんは、足の痛みなどを抱えながら三浦さんを自宅で介護する様子を、手記として週刊誌に連載していた。
 自宅の仕事場はお互いの姿が見えないよう書棚で区切り、作品の話はしない。「『曽野先生はいらっしゃいますか?』なんて電話には『今知らない男(編集者)と出ていきました』と答えるんです」と冗談めかして話す一方、曽野さんについて語る言葉には価値観を共有する伴侶への共感がにじんでいた。 (共同・瀬木広哉)

 ◎上記事は[中日新聞]からの転載・引用です
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