「三島事件」50年 自決の森田必勝に兄の元三重県議「本心どうなんや」
2020年11月17日 中日新聞 夕刊
森田必勝の遺影に手を合わせる兄の治さん。隣には三島由紀夫の写真が並ぶ=三重県四日市市で(板津亮兵撮影)
作家の三島由紀夫らが陸上自衛隊市ケ谷駐屯地(東京都新宿区)で自決した「三島事件」から、二十五日で五十年になる。三島を介錯(かいしゃく)した後、自決した「楯の会」学生長、森田必勝(まさかつ)=当時(25)=の兄治さん(91)=三重県四日市市=は弟の墓に通い、冥福を祈り続けてきた。政治的な思想は交わらなかったが、肉親の情は今も変わらない。 (佐藤大)
「その日、どこに立ち寄ったのかはっきりしないんです」。必勝が遺(のこ)したという事件前日の一九七〇年十一月二十四日付中日新聞の三重版を見ながら、治さんは半世紀前の記憶をたどり始めた。
当時の新聞は必勝の死後、「楯の会」メンバーから受け取った遺品の中にあり、二十三日付の在京紙も含まれていた。事件は二十五日に起きたことから、とんぼ返りで故郷の四日市に戻ったとみられる。しかし、実家には立ち寄らなかった。「墓参りをして帰ったのでは。私に会うと、感情があらわになったり、乱れたりすると思ったのでしょうか」
必勝は二歳半で父、三歳で母を亡くし、十六歳年上の治さんは親代わりだった。
性格は真っすぐで快活。政治的関心が強く、自民党の重鎮だった河野一郎衆院議員に弟子入りを志願したこともあった。早稲田大で民族運動に身を投じ、三島と知り合う。
70年夏に帰省したが、とりとめのない話を交わしただけで、異変に気付かなかった。ただ「三島さんと会わないかん」という理由で、早めに東京に戻ったことは覚えている。(中略)
歴史的には必勝が三島に殉じたという評価が根強いが、「三島さんといろいろ話し合い、最後の行動に入ったんだと。対等とは言わないが、三島さんの命を受けて、ということではなかったのでは」と、弟も主体的に動いたと信じる。
足腰の衰えで、数年前から毎日の墓通いは難しくなった。あの世に呼ばれたら、やりたいことがある。「国を憂えての行動だったと私は理解しましたけど、本心どうなんや、と本人に詰めてみたい。三島さんとも話をしてみたいですね。天国か地獄かは知りませんけど、話ができれば、ね」
◎上記事は[中日新聞]からの書き写し(=来栖)
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〈来栖の独白〉
>あの世に呼ばれたら
本題とは関係のないことながら、近頃になってやっと私は、「あの世」などは存在しないと考えるようになった。スピリチュアルの類の本もある程度読んできたが、「あの世など、存在しない」というのが今の私の考えだ。死んで肉体が無に帰すると「脳」も同様。肉体と別個の「霊魂」など存在しない。