安田純平さんめぐり激論 ネット「自己責任」VSジャーナリスト「擁護」  ダルビッシュ「ルワンダで起きたことを勉強してみてください」2018/10/26

2018-10-27 | メディア/ジャーナリズム/インターネット

安田純平さんめぐり激論 ネット「自己責任」VSジャーナリストから続々「擁護」
2018/10/26 20:14
   シリアで解放されたジャーナリストの安田純平さん(44)は、何度も拘束された経緯などから、ネット上などで激しいバッシングが続いている。
   安田さんを疑問視する著名人のツイートも、大きな反響を呼んだが、報道現場にいるジャーナリストらが安田さん擁護の声を上げている。
■「欧米のジャーナリストから、不思議な現象と言われる」
   「欧米のジャーナリストたちと話すと、自己責任論という概念がそもそも理解できない、不思議な現象、と言われる」。フォトジャーナリストの安田菜津紀さんは2018年10月25日、ネット上で繰り返される「自己責任論」に対し、ツイッター上でこう指摘した。
   イラクで行動を共にしたオランダ人ジャーナリストは、「バッシングに使うエネルギーを、ここで起きていることを知るために使ったらいい」と話したという。安田菜津紀さんは、「伝わらなければ、救援さえ集まらない現状がこの世界に無数にある」と取材の意義を訴え、ブログでも、自己責任論を取り上げて、「『自業自得』と同義で使われがちではないだろうか」と疑問を投げかけていた。
   また、中国ルポライターの安田峰俊さんは、26日のツイートで、日本で自己責任論を唱える人たちについて、中国のウイグル人弾圧問題で「メディアが真実を報じない!」と訴える人たちと似ているとして、「彼らは誰がウイグルに取材に行くべきと思ってるのだろう」と皮肉った。これに対し、「日本にいてもわかることをまとめればいいじゃないですか!」とのリプライを複数受け、理解に苦しんだとも明かした。
   安田純平さんについては、国の勧告を無視したと非難する声もネット上で出ているが、このことについても、ジャーナリストらから反論があった。
■新聞労連も声明
   元産経新聞記者の福島香織さんはツイッターで、「お上の判断に従って、取材しないというのはジャーナリズムではない」と述べ、「行くなと言われても行くジャーナリストを不快に感じて、体はって得た情報や成果も興味をもってもらえないのであれば、それはもうジャーナリズムは死ぬしかない」と嘆いた。
   ジャーナリストの江川紹子さんは、「『自己責任』というのは、自分が受けた被害を誰のせいにもしないこと。それが充分すぎるほど分かっている人に対し、わーわー『自己責任』言い募っても無意味」だとツイートしたうえで、「それとは別に、国は自国民保護の責任があるから、国に責任がない事態でも、海外で困難な状況に陥った国民は助けなければならない」と指摘した。
   マスメディアの団体からも、自己責任論を懸念する声が出ている。
   新聞労連は10月25日、「安田純平さんの帰国を喜び合える社会を目指して」とする声明をホームページで発表し、「『反日』や『自己責任』という言葉が浴びせられている状況を見過ごすことができません」と訴えた。そして、「安田さんは困難な取材を積み重ねることによって、日本社会や国際社会に一つの判断材料を提供してきた」「今回の安田さんの解放には、民主主義社会の基盤となる『知る権利』を大切にするという価値が詰まっている」としている。
   とはいえ、ニュースのコメント欄やツイッター上などでは、安田純平さんへの疑問や批判は止まないままだ。
   「日本が止めてるんですよ?それを無視した人を擁護するって」「プロとして全く危機管理ができていない」「危険エリアに入ることを軽視しすぎてたと思う」といった声が次々に上がっている。さらに、「今回の開放にかかった費用を国に返済していくべき」「彼が帰国後、この件で利益を享受する事があってはいけない」といった意見もあった。
(J-CASTニュース編集部 野口博之)

 ◎上記事は[J-CASTニュース]からの転載・引用です
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安田純平さんの帰国を喜び合える社会を目指して 
          2018年10月25日
           日本新聞労働組合連合(新聞労連)
           中央執行委員長 南 彰

 2015年からシリアで拘束されていたフリージャーナリストの安田純平さんが3年4カ月ぶりに解放されました。人命と引き替えに金銭を要求する犯行グループの行為は卑劣で、真実を伝える目的を持ったジャーナリストを標的にすることは言論の自由や表現の自由への挑戦です。新聞労連としても安田さんの「即時解放」を求めてきましたが、同じ報道の現場で働く仲間の無事が確認された喜びを分かち合いたいと思います。
 安田さんはかつて信濃毎日新聞の記者を務め、新聞労連の仲間でした。2003年にフリージャーナリストに転身しましたが、紛争地域の取材に積極的に取り組み、民衆が苦しむイラク戦争の実態などを明らかにしてきました。
 その安田さんや家族に「反日」や「自己責任」という言葉が浴びせられている状況を見過ごすことができません。安田さんは困難な取材を積み重ねることによって、日本社会や国際社会に一つの判断材料を提供してきたジャーナリストです。今回の安田さんの解放には、民主主義社会の基盤となる「知る権利」を大切にするという価値が詰まっているのです。
 安田さんはかつて「自己責任論」について、新聞社の取材にこう語っています。
  「自己責任論は、政府の政策に合致しない行動はするなという方向へ進んでしまった。でも、変わった行動をする人間がいるから、貴重な情報ももたらされ、社会は発展できると思う」
 観光や労働の目的で多くの外国籍の人が訪れ、また移り住むという状況が加速している私たちの社会は、より高い感受性と国際感覚が求められています。そのベースとなるのは、組織ジャーナリズムやフリーを問わず、各地のジャーナリストが必死の思いでつかんできた情報です。
 解放された安田さんに対して、「まず謝りなさい」とツイッターに投稿する経営者もいますが、「無事で良かった」「更なる活躍を期待しているよ」と温かく迎える声が大きくなるような社会を目指して、新聞労連は力を尽くしていきます。
 以上

 ◎上記事は[レイバーネット日本]からの転載・引用です
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ダルビッシュ、自己責任論に反対 「誰も来ないとどうなる」
2018年10月26日 17時01分
 【ロサンゼルス共同】内戦下のシリアで拘束され、3年4カ月ぶりに解放されたジャーナリスト安田純平さん(44)に対する「自己責任論」に対し、米大リーグのカブスに所属するダルビッシュ有投手(32)が26日までにツイッターで反対意見を展開した。
 ダルビッシュ投手は約80万人が死亡したとされる1994年のルワンダ大虐殺を例に「危険な地域に行って拘束されたのなら自業自得だ!と言っている人たちにはルワンダで起きたことを勉強してみてください。誰も来ないとどうなるかということがよくわかります」などとつづった。

 ◎上記事は[中日新聞]からの転載・引用です
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安田純平さん「身代金」の内幕は 本人は暗号で「拒否」、政府も払わず、そこにカタールが...
2018/10/25 21:03 J-CASTニュース 
  3年間の拘束から解放されたフリージャーナリスト・安田純平さんへの風当たりがインターネット上で強い。日本政府を批判しながら紛争地帯に飛び込んだにもかかわらず、拘束されてから時折ネット上に公開される映像の中で、助けを求める発言をしていたのが「都合が良すぎる」というのが、批判の大きな根拠となっている。
   ただ、解放後に安田さんの妻がメディアで公開した「直筆メモ」には、「(身代金を)払っちゃあかん」と読み取れる暗号のようなメッセージを残していたことが明かされた。安田さんはどこまで「助け」を求めていたのか。そして、実際に身代金を払ったとされるカタールの意図とは。
■「チキン国家」ツイートなどがネットで物議
   シリアの武装勢力から解放された安田さんは、トルコ南部アンタキヤの入管施設で保護された後、イスタンブールに移動し、2018年10月25日未明に日本へと出発した。
   帰国の飛行機内でメディアの取材に答えているが、その中でも注目されたものの一つが、NHKが同日に報じた「トルコ政府側に引き渡されるとすぐに日本大使館に引き渡されると。そうなると、あたかも日本政府が何か動いて解放されたかのように思う人がおそらくいるんじゃないかと。それだけは避けたかった」といった発言だ。
   15年6月に消息を絶って拘束された安田さんだが、映像が何度かネット上に公開されてきた。16年5月には日本語で「助けてください これが最後のチャンスです」と手書きされた紙を持った画像がアップ。18年7月には、2人の人物から銃を突き付けられた状態で「私の名前はウマルです。韓国人です」「助けてください」と日本語で話す動画が投稿された。
   こうした安田さんの言葉は、日本のネット上で批判も浴びた。安田さんは拘束前、ツイッターで
「戦場に勝手に行ったのだから自己責任、と言うからにはパスポート没収とか家族や職場に嫌がらせしたりとかで行かせないようにする日本政府を『自己責任なのだから口や手を出すな』と徹底批判しないといかん」(15年4月3日)
 「日本は経験ある記者がコバニ(編注:シリアの都市)行っただけで警察が家にまで電話かけ、ガジアンテプ(編注:トルコの都市)からまで即刻退避しろと言ってくるとか。世界でもまれにみるチキン国家だわ」(15年6月20日)
といった書き込みをしていたためだ。「助けて」といったメッセージが出た時、一般ユーザーから「さんざん日本に反抗しといて、困ったら泣きつく」といった声があがることになった。
■「はろ(払)ちゃあかん」のメモ
   ただ、本意として「泣きついた」かどうかは定かでない。まず、武装勢力によって撮影された写真・映像では、助けを求めるよう脅迫されていた可能性はある。加えて、安田さんの妻・深結(みゆ)さんが24日、日本テレビの報道番組で、拘束中の安田さんによる直筆メモを公開しており、「いろんなメッセージが込められていた」と語っている。
   メモは解放交渉の関係者だという人物を介し、深結さんが安田さんに投げかけた7つの質問に回答したものだ。書かれていたのは「Harochaakan, Danko6446, Bujifrog」という文字列。「はろ(払)ちゃあかん、断固無視しろ、無事帰る(フロッグ=カエル)」と解釈できるとして、「身代金を払うな」というメッセージだったとの推測がなされている。深結さんは、質問を書いたのは15年、回答のメモを見たのは18年。これだけ手の込んだメモで、真意と異なることを書くとは考えづらい。
   日本政府も今回の解放にあたり、菅義偉官房長官が23日深夜の会見で「身代金を払ったという事実はない」と発言。菅氏は16年3月の会見でも、安田さん解放のための身代金要求について「承知していない。政府の対応方針が変わることはない」と表明していた。
■「巧みなカタールの外交戦略」?
   こうした関係からは、身代金をめぐって安田さんは「払うな」、日本政府も「払わない」という考えがあったとも推測される。安田さんが本当に政府に泣きついたり、政府が身代金を払って安田さんを解放しようとしたりしたというのは、疑問が残る。そうした中で、解放にあたって別の国で身代金の授受があったとの情報がある。カタールだ。
   複数メディアの報道によれば、在英民間団体「シリア人権監視団」のラミ・アブドルラフマン代表が23日、カタールが身代金100万~300万ドル(約1億1100万~3億3800万円)を支払ったと主張したのだという。
   なぜカタールが日本人解放に金銭を出してまで動くのか。同代表は、「解放に尽力した姿勢を国際的にアピールすることだ」と指摘したことが報じられている。
   また、前東京都知事で元厚生労働相の舛添要一氏は24日、ツイッターで「サウジなど4カ国に断交され孤立しているカタールの狙いは、人道面の貢献で国際的評価を上げ、また日本政府の支援を受けること。サウジが非難されているときに、巧みなカタールの外交戦略である」と身代金支払いの思惑について投稿した。安田さん本人の意思と無関係なところで、解放の動きが進められていた可能性がある。
(26日追記)読者からのご指摘を受け、本文の一部を修正いたしました。

 ◎上記事は[J-CASTニュース]からの転載・引用です


BLOG
2016年04月08日 15時58分 JST  | 更新 2017年04月07日 18時12分 JST 
なぜ「世界」は80万人の死を防ぐことが出来なかったのか? ルワンダ虐殺から22年(前半)
原貫太   国際協力団体コンフロントワールド代表
アフリカの大地で起こった20世紀最大の悲劇、「ルワンダ虐殺」。
 1994年、フツ族系の政府とそれに同調する過激派フツ族の手によって、100日間で少数派ツチ族と穏健派フツ族約80万人が殺害された。
 4月にフツ系大統領が何者かに暗殺されたことをきっかけに抗争が激化。ツチ族系のルワンダ愛国戦線 (Rwandan Patriotic Front) が同国を制圧するまで虐殺は続いた。
 毎年4月7日は、「1994年のルワンダにおけるジェノサイド(集団殺害)を考える国際デー」(英名:International Day of Reflection on the Genocide in Rwanda)とされており、犠牲者の追悼とジェノサイド防止が呼びかけられる。またルワンダでは、4月11日にも様々な追悼イベントが予定されている。
 今年一月、私は虐殺が行われた跡地を巡るため、東アフリカに位置するルワンダを訪問した。
 現地で実際に目の当たりにした話を踏まえながら、「ヨーロッパによって持ち込まれた民族対立」「一夜にして起きた45,000人の虐殺」「ルワンダ虐殺における国際社会の大失敗」の3つに焦点を当てて、この"悲劇"を振り返りたい。
 (このようなトピックは非常に難しく、記事を書いている今も様々な葛藤が私を襲います。しかしながら、過去に対して目を逸らさず、事実を事実として受け止める事、そして考える事。現地に足を運んだ私の場合であれば、さらに伝える事。これらに取り組むことは、犠牲になった方々に対する最低限の責任だと考え、ここに記します。)
*ヨーロッパによって持ち込まれた民族対立
 「千の丘の国」とも呼ばれるこの緑豊かな美しい国は、近年ではその著しい経済成長から「アフリカの奇跡」とも呼ばれている。今日のルワンダだけを知っている人であれば、たったの22年前に80万人が虐殺された地だとは感じられないだろう。
 1918年の第一次世界大戦終結まではドイツ領東アフリカに置かれていたが、ドイツの敗戦と共にルワンダはベルギーの統治下に入った。
 上記したように、ルワンダ虐殺では多数派のフツ族が少数派のツチ族(並びに穏健派フツ族)を殺害したが、本来この両者の区別は曖昧で、身長や鼻の長さ、皮膚の色に多少の違いは見られるものの、その外見や文化、習慣などに差異を見出すことは難しい。
 植民地化されるまで、農業を中心に各民族は平穏に暮らしていたとも言われる。
 しかしながら、植民地化を行う過程で、宗主国のベルギーが「ツチ族の方がヨーロッパ人に近く、優秀だ。」という人種的差別観を持ち込み、両者が対立する原因が生まれた。
 ほぼ全ての首長をツチ族に独占させた他、税・労役・教育などの面においてツチ族を優先、1930年代にはフツ族・ツチ族の身分を区別するためにIDカードを導入。少数派であるツチ族が中間支配者層に、そして大多数のフツ族が更なる支配下に置かれたのだ。
 ヨーロッパ諸国が植民地化、特にアフリカのような多民族が生活する地を植民地化する際、支配される側の中に階層を作り、しばしば中間支配者が置かれた。この結果として
●大多数を占める被支配者(フツ族)の不満は中間支配者(ツチ族)に向かうため、宗主国(ベルギー)は安心して植民地経営を行うことが出来る
●一国内における階層が、独立後(特に民族間における)内戦の火種となる
といった事に繋がった。
*一夜にして起きた45,000人の虐殺
 今回の記事では、一夜にして45000人が虐殺されたという技術学校の跡地、ムランビ虐殺記念館を訪れた際の記録を書く。
 "丘の上の学校に避難すればフランス軍の保護が受けられる"という市長と教会の司教の言葉に欺かれ、避難していたツチ族約45000人が過激派民兵に殺害された。
 ※近年の研究によれば、ルワンダ虐殺は非常に組織立った形で行われたことが明らかとなってきており、この組織的犯行は「ジェノサイド」(Genocide)を構成する大きな要素ともなっている(関連記事:イスラム国は「ジェノサイド(大量虐殺)」に関与、アメリカ政府が発言。注目すべき点は何か?)。
 ルワンダ虐殺当時のカンパンダ首相は、ルワンダ国際戦犯法廷(International Criminal Tribunal for Rwanda,ICTR)の事前尋問において、「ジェノサイドに関しては閣議で公然と議論されていた。」と発言しており、また当時の女性閣僚一人が全てのツチをルワンダから追放することを個人的に支持しており、他の閣僚らに対して"ツチを排除すればルワンダにおける全ての問題は解決するだろう"と話していたとも証言している
 カンパンダ元首相はさらに、ジェノサイドを主導した者の中には軍や政府高官も多数含まれており、また地方のジェノサイド主導者であれば、市長や町長、警察官なども含まれると供述している。
 一人は斧で、一人は鉈で、一人は銃で。夫が妻を殺し、妻が夫を殺した。隣人が隣人を殺し、また隣人が隣人を殺した。
 21年と9か月前、まさに私が立っているこの場所で、老若男女関係なく多くの罪なき命が失われた。
 虐殺の跡地には、犠牲となった人々が当時着ていた衣服が残されている。虐殺を主導したフツ族過激派は、ツチ族を「根絶」するために女性や子供を好んで狙った。生後間もない赤ちゃんも虐殺された。
 殺害された遺体は、当初、写真にある穴(mass grave/集団墓地)に放置された。この穴からは、無数の死体と遺留品が出てきたと言われている。
 ※mass grave(集団墓地)には、「お互いに接した状態の二つもしくはそれ以上の遺体を含むもの」「少なくとも6体以上の遺体を含んだもの」などいくつか定義が存在する。
建物の中には、殺害された人々のミイラ化・白骨化した遺体が無造作に並べられていた。
 頭蓋骨の割れた遺体、赤子を抱いた母親の遺体、手足の切断された遺体、叫ぶように口を開けた子供の遺体……。
 部屋の中にはこれまで嗅いだ事の無い「死臭」が漂い、遺体は触るととても冷たく、決して人の身体とは思えなかった。
 「世界から虐殺は無くなっていない。今この瞬間も、多くの人々が不条理な死に追いやられている。」という私の問いに、当時12歳だった方は、「世界は何も学んでいない。」と答える。
 今日、虐殺の跡地では子供達が元気に笑う。ルワンダ虐殺から22年の月日が流れ、世界はどれだけ変わっただろうか。
 先進国に生きる私たちは、テレビに映し出される世界の紛争や貧困を未だ「可哀想」の一言で片づけ、愛する家族や恋人とディナーを続けているのだろうか。
 80万人の死から22年が経った今日、今年で6年目を迎えるシリア内戦では既に25万人以上が亡くなっており、多くの一般市民が人道危機に瀕している。
 そして、その多くが本来国民を保護するべき役割を担うはずのアサド政権によるものであるにも関わらず、安全保障理事会は、拒否権という国連を成立させるための米ソ妥協の産物により、その正義を果たせていない(関連記事::クラーク前NZ首相が国連事務総長選へ出馬。-国連の改革は進むか?)。
どれだけ恐ろしかっただろう。どれだけ悲しかっただろう。どれだけ悔しかっただろう。当時の状況を想像する事は出来ても、その奥底にある感情まで捉える事は究極的に難しい。
 なぜ「世界」は80万人の死を防ぐことが出来なかったのだろうか。そこには、国連を始めとした国際社会の大失敗がある。
 (「なぜ「世界」は80万人の死を防ぐことが出来なかったのか?――ルワンダ虐殺から22年(後半)」へ続く)
*記事執筆者:原貫太
 Twitter:https://twitter.com/kantahara
 Facebook:https://www.facebook.com/kanta0422

(2016年4月5日 Platnews「なぜ「世界」は80万人の死を防ぐことが出来なかったのか?―ルワンダ虐殺から22年(前半)」より転載)

  ◎上記事は[HUFFPOST]からの転載・引用です
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なぜ「世界」は80万人の死を防ぐことが出来なかったのか?―ルワンダ虐殺から22年(後半)
原貫太   国際協力団体コンフロントワールド代表
アフリカの大地で起こった20世紀最大の悲劇、「ルワンダ虐殺」。
 1994年、フツ族系の政府とそれに同調する過激派フツ族の手によって、100日間で少数派ツチ族と穏健派フツ族約80万人が殺害された。4月にフツ系大統領が何者かに暗殺されたことをきっかけに抗争が激化。ツチ族系のルワンダ愛国戦線 (Rwandan Patriotic Front) が同国を制圧するまで虐殺は続いた。
 毎年4月7日は、「1994年のルワンダにおけるジェノサイド(集団殺害)を考える国際デー」(英名:International Day of Reflection on the Genocide in Rwanda)とされており、犠牲者の追悼とジェノサイド防止が呼びかけられる。またルワンダでは、4月11日にも様々な追悼イベントが予定されている。
 今年一月、私は虐殺が行われた跡地を巡るため、東アフリカに位置するルワンダを訪問した。現地で実際に目の当たりにした話を踏まえながら、「ヨーロッパによって持ち込まれた民族対立」「一夜にして起きた45,000人の虐殺」「ルワンダ虐殺における国際社会の大失敗」の3つに焦点を当てて、この"悲劇"を振り返りたい。
 ※「なぜ「世界」は80万人の死を防ぐことが出来なかったのか?―ルワンダ虐殺から22年(前半)」も併せてご覧ください。
*国際社会の大失敗
 100日間で80万人の犠牲-。ルワンダ虐殺での死亡率は、第二次世界大戦中にナチス・ドイツによって行われたユダヤ人大虐殺(ホロコースト)の3倍に匹敵するとも言われている。
 なぜ、ルワンダの虐殺はこれ程まで悲劇的なものになってしまったのか。そこには、国連を始めとした国際社会の大失敗が存在する。
●ルワンダ虐殺の伏線に対する国連の判断ミス
 ルワンダ虐殺が始まる約3か月前、当時の国際連合ルワンダ支援団(United Nations Assistance Mission for Rwanda, UNAMIR)の司令官を務めていたロメオ・ダレールの元にツチ族虐殺の密告が届いていた。この密告を受けてダレール司令官はフツ族民兵の武器庫制圧を国連に提案したが、安保理決議872でルワンダ支援団に与えられている権限を越えるものとして国連はこれを却下。
 この判断を下したのは、当時国連平和維持活動局のPKO担当国連事務次長であり、後に国連事務総長になるコフィー・アナンだった。なお、国際連合憲章第2条7項によって内政不干渉の原則が定められているため、虐殺が開始される前にフツ族へ武力行使をすることは出来なかった。
●アメリカの躊躇と安全保障理事会の無能さ
 ルワンダ虐殺の前年である1993年までは世界の平和維持活動を積極的に行ってきたアメリカだったが、映画『ブラックホーク・ダウン』でも描かれたように、ソマリア内戦へ平和維持軍として軍事介入を試みた結果米兵18人が死亡。
 遺体が市内を引き回される映像が流されるなどした結果、米国の世論は撤退や紛争地への介入に対する消極的な姿勢へと大きく傾いた。
 その為、ルワンダ虐殺当時のビル・クリントン大統領は、同国へのアメリカの関与に対しても消極的になり、アメリカが常任理事国の一国を務めている安全保障理事会もその機能を発揮することが出来なくなった。
 アメリカは1994年4月に、国連に対して国際連合ルワンダ支援団の撤退を呼び掛けている。また、ルワンダ虐殺が起きた際、アメリカ政府は「ジェノサイド」という言葉を使うことを躊躇した。
 仮にルワンダで進行中の事態を「ジェノサイド」と認める発言をしてしまうと、「集団殺害罪の防止および処罰に関する条約」(Convention on the Prevention and Punishment of the Crime of Genocide)*批准国として行動・介入する必要性が生じてくるため、「ジェノサイド」という言葉の使用を躊躇したとされる。
 また、虐殺の開始当初にベルギーの平和維持部隊兵10名が殺害されたこともあり、国連は安保理決議912号を可決。これによって、国連平和維持部隊は2500名から、4月21日には300名まで削減された。
 なお、ビル・クリントン大統領は、ルワンダ虐殺後に「私たちが虐殺を終わらせられたとは思わないが、減らすことはできたと思う」とCNNに対して述べている。
 *なお、「集団殺害罪の防止および処罰に関する条約」(1948年採択)第2条によれば、ジェノサイドとは、"国民的、民族的、人種的、または宗教的な集団の全部または一部を、それ自体として破壊する意図"をもって行われる以下5つの行為を意味する。
・集団の構成員を殺すこと
・集団の構成員に対して重大な身体的又は精神的な危害を加えること
・集団に対してその全部又は一部に身体的な破壊をもたらすよう意図された生活条件を故意に課すること
・集団内における出生を妨げることを意図した措置を課すること
・集団の子供を他の集団へと強制的に移すこと
(関連記事:「イスラム国は「ジェノサイド(大量虐殺)」に関与、アメリカ政府が発言。注目すべき点は何か?」
●国連平和維持軍(PKO)の目的は停戦を監視することのみ
 国際連合平和維持活動の一つである国際連合ルワンダ支援団には、フツ族とツチ族の停戦を監視することのみを目的とするように命令が与えられていた。武装をしている理由は自衛のためとされていた上に、武器を使用するためには国連事務総長の許可が必要とされていた。
 ダレール司令官は、国連から与えられていたマンデートを無視して住民保護活動を行った。その後国連平和維持活動局本部からマンデートに従うように指示を受けたが、その後もマンデートを無視して駐屯地に逃れてきた避難民を保護した。しかしながら、人員不足とマンデートから積極的な介入行動を行うことが出来ず、目の前で殺され続ける多くの避難民たちを救うことが出来なかった。ダレール司令官は人員の増加やマンデートの強化を国連に求め続けたが、その要望は拒否され続けた。
 ロメオ・ダレールはその著書『Shaking Hands With the Devil: The Failure of Humanity in Rwanda』(悪魔との握手: ルワンダにおける人道の失敗)の中で、以下のように述べている。
 “「1994年4月12日は、世界がルワンダを見捨てた日だ。ルワンダへの無関心から、ルワンダの人々をその運命に任せ、置き去りにしたのだ。その夜、私は、罪悪感から一睡もできなかった。」(引用元サイト::山本敏晴のブログ
 虐殺を主導したフツ族過激派は、ツチ族を「根絶」するために女性や子供を狙った。生後間もない赤ちゃんも虐殺された。
●資源の乏しいアフリカの小国に安全保障理事会は無関心
 安全保障理事会の常任理事国は、アメリカ・イギリス・フランス・ロシア・中国。黒人の国は一つも入っていない。資源の乏しいアフリカの小国で起きている紛争に対して、安全保障理事会を構成する国々は消極的だった。その一方で、同時期に起きていた旧ユーゴスラビアのボスニア紛争には積極的に介入を行った。
 なお、ルワンダのPKO部隊員を削減する安保理決議912号が可決された同じ日に、ボスニア内における安全地帯防衛の堅持を確認した国連安保理決議第913号が通過されている。
 ルワンダ虐殺後、国際刑事裁判所(International Criminal Court)の設立、「保護する責任」の誕生、「人間の安全保障」の構築など、国際社会はその「反省」を活かし、様々な取り組みを行ってきた。
 それにも関わらず、世界から「虐殺」は無くなっていない。今年で6年目へ突入するシリア内戦では25万人以上が亡くなり、同じ中東のイエメンでは人口の8割に当たる約2100万人が人道支援を必要としている。先日アメリカ政府はイスラム国(IS)の行為をジェノサイドと形容し、またアフリカの多くの国々では未だ内戦や貧困により不安定な情勢が続く。
 世界に目を向けてみれば、不条理は限りなく存在し続けている。
 ルワンダ虐殺当時12歳だった人は、私に一言、こう語った。
 「世界は何も学んでいない。」
 ルワンダ虐殺から22年の月日が経つ。私たちは80万人の死から、一体何を学んだだろうか。
 ISなどのテロ組織が「虐殺」を行っている今、改めてなぜ虐殺が起こり、止められなかったのか、真摯に学び、国連、安保理の変革など、今大きな変化が求められているだろう。
(2016年4月9日 Platnews「なぜ「世界」は80万人の死を防ぐことが出来なかったのか?―ルワンダ虐殺から22年(後半)」より転載)

 ◎上記事は[HUFFPOST]からの転載・引用です
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