【介護社会】
流老の果て<1> 幸せな老後、よもや
中日新聞2010年3月19日
とびきりの笑顔が2つ。
宮城県富谷町の食堂「たらふくや」の従業員が居酒屋に集まり、にぎやかな忘年会が催された。誰からともなくあがった「無礼講でいこう」の掛け声で始まったダンス。経営者の山田忠雄さん、登美子さん夫婦は恥じらうことなく手を重ねた。
それから約20年後、群馬県渋川市の「静養ホームたまゆら」の火災で亡くなる登美子さん=死亡時(84)=のその後を暗示させる影など、どこにも見当たらない。
「いい夫婦の見本。あんなふうになりたいと思った」。以前近所に住んでいた千葉稔さん(80)は、おしどり夫婦の2人を思い起こす。富谷町の国道沿いで長距離トラックに人気の食堂を営んだ高齢の夫婦は15年ほど前、忠雄さんの胃がんの手術を機に店をたたんだ。
「娘が東京にいるから」。2002年11月、山田さん夫婦は親しい友人たちに別れを告げ、墨田区のマンションに引っ越した。働きづめの毎日から静かな余生を願った生活は、3DKの部屋で家賃は月12万円。手元には10分な蓄えがあり、2人の年金もあてにできた。
しかし、体力の衰えた忠雄さんは車いす生活に。「リハビリで廊下を歩くご主人と、それを見守る登美子さんをよく見かけた」(隣人)。やがて入院し、再び帰宅することなく世を去った。
「優しい人だったのよ」。最愛の夫の死に、登美子さんは人前で涙をこぼした。平凡で幸せな暮らしは、忠雄さんとともに消えた。
独りぼっちになった登美子さんを認知症が襲う。夫の年金がなくなり、いつの間にか蓄えも底をついた。生活保護に頼らざるを得なくなった。
危うい生活を続ける登美子さんを、巨大団地の住民らは放置できなくなった。通報を受けた区は介護施設を探した。しかし、他人に触られることを極端に嫌がる強迫神経症のせいで、どこも受け入れを拒んだ。
最後に頼ったのが、当時“行き場のない”人たちを快く受け入れていた「たまゆら」だった。
「お父さん(忠雄さん)の所に帰りたい」。入所した登美子さんはたびたび駄々をこね、職員を困らせた。あてがわれた個室のテーブルには白黒写真を飾った。すらりとしたスーツ姿の男性。若き日の忠雄さんだ。
09年3月19日夜。たまゆらの建物が激しい炎に包まれ、3棟計400平方メートルを全半焼した。翌日、登美子さんも遺体で見つかった。
上州の空っ風が吹く山の中。登美子さんが大切にしていた写真も人知れず灰になった。
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入所のお年寄りら10人が死亡し、業務上過失致死容疑で運営団体の理事長が逮捕、起訴された「たまゆら」火災から、19日で1年。墨田区が送り込んだ6人が犠牲になったことが明らかになり、惨事は「終(つい)の棲(す)み家(か)」を求めてさまよう高齢者の姿と、行政の無策をあぶり出した。夫と働きづめで老後を迎え、静かな余生を願った山田登美子さんは、なぜここで命を落とすことになったのか。悲劇への足跡をたどり、高齢化と孤独、貧困が生み出す“流老(るろう)”社会の現実を追う。
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【介護社会】流老の果て<2> 繁盛店の評判夫婦
中日新聞2010年3月20日
「うまい・やすい・はやい」。大きくてカラフルなテント生地の看板は、関東と東北を行き来する長距離トラックが、ひっきりなしに訪れる人気店の目印だった。
山田登美子さん=死亡時(84)=が、夫の忠雄さんと宮城県富谷町に食堂「たらふくや」を開いたのは、今から23年前。近くで10年ほど料理店を営んだ2人が、国道4号沿いの土地を借りて設けた。セルフサービスでハムエッグが200円、おかわり自由のご飯が150円。安さと味の良さが自慢だった。
温和な忠雄さんは厨房(ちゅうぼう)を担当。接客とレジをしながら店を切り盛りしたのが登美子さんだった。店は繁盛した。毎年秋にはバスツアーで観光地をめぐり従業員たちをねぎらった。
「1日10万円、20万円の売り上げがあった。しっかりした奥さん。店はあの人で持っていた」。元従業員の高橋節子さん(70)は当時を懐かしむ。
お金をため、2人は町内の住宅地に一軒家を買った。胃がんの手術で忠雄さんの体力が衰えたのを機に、スッパリと店を閉めた。「それでも手元には800万円ほど残ったと聞いた」(高橋さん)
リタイア後、登美子さんは忠雄さんの通院に付き添う一方、趣味の民謡教室で仲間を増やしていった。友人の今野八千代さん(86)は「老人クラブで卓球をしながら歌ってた。愉快な人だった」と振り返る。
忠雄さんの健康以外、何の不安もなかった。2002年の秋、夫婦は養女一家が暮らす東京へ引っ越すことを決めた。家を売り、墨田区の分譲マンションを借りた。「娘のとこへ行くから安心なんだー」。登美子さんは笑顔で周囲に話していた。
その6年半後、元従業員の高橋さんは群馬県渋川市で10人が犠牲になった火災を伝えるテレビのニュースで、犠牲者の中に「山田登美子」の名前を見つけた。「同姓同名の別人でしょう」。皆とそう言い合った。
社交的で裕福だった登美子さんと「施設での孤独な死」が、富谷の人たちには結び付かなかった。「仲間内では経済的に一番豊かな人だと思った。皆が年金暮らしの中、将来設計もきちんとしていたのに」。町内会役員の女性は、登美子さんが生活保護を受けていたと知って絶句した。
「あなた、知らなかったの?」。ともに民謡教室に通った佐藤とき子さん(81)は、仲間から登美子さんの死を聞かされ、信じられなかった。
「群馬にいたなんて全然知らなかった。お金の心配なんてない人だった。何で…」
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【介護社会】流老の果て<3> 夫亡くし弱々しく
中日新聞2010年3月21日
お悔やみを告げる涙声。電話口で、山田登美子さん=死亡時(84)=の口調は別人のように弱々しく、独りぼっちの不安に満ちていた。
山田さんが宮城県富谷町を出て3年後の2005年10月。富谷で仲の良かった隣人の訃報(ふほう)を知り、移転先の東京都墨田区から遺族に電話をかけてきた山田さんは、泣きながら漏らした。「私も頑張っているんだけど…。ちょっと厳しくなるんですよ」。最愛の夫、忠雄さんを亡くして間もなくのことだった。
「お父さんがいればこその私」。それが口癖だった山田さんの暮らしは支えを失い、歯止めなく暗転していった。忠雄さんのみとりに、慣れない東京暮らしの寂しさが追い打ちを掛けた。認知症を発症した。
同じ団地の別棟で暮らす養女の家族とは、認知症を発症した当時、すでに疎遠だったとマンションの隣人たちは言う。「区を交えて養女と話し合いをしようとしても、応じなかった」(マンション住民)。「養女の家族も経済的に苦しかったようだ。家賃の滞納があり、法律事務所が入った。それが理由で結局、たまゆらの火災後に退居した」(自治会役員)。
「娘さんは今、いないんだよ」。養女の部屋を足しげく訪ねる山田さんに、近くの人が留守だと言っても理解できなくなっていた。不安そうな表情で、棟の下をただ歩き回っていた。団地で高齢者の見守り活動に取り組む男性は深夜、戸外でぼんやり腰掛ける山田さんをたびたび保護した。「おばあちゃん、帰りましょうよ」。なだめながら、部屋まで送った。
住民同士のつながりは薄かった。それでも山田さんを知る人たちは、顔を見れば声を掛け、何度も聞いた昔話に耳を傾けながら、その身を案じていた。
隣室には同世代の女性がいた。「お父さんが亡くなったからどうすればいい?」「料理の作り方を教えて」。1日に何度もチャイムを鳴らす山田さんの寂しさを受け止めた。
しかし症状は進み、山田さんは大通りの交差点を昼夜かまわず赤信号を無視して渡るようになった。住民がたしなめると感情的に反応し、徘徊(はいかい)も日増しに激しくなっていった。
住民が区役所に通報するようになり、配食や訪問介護のスタッフが入った。やがて「家で火を使わせるのは危ない」との声が出始めた。区はこれ以上、独居生活を続けさせられないと判断した。
顔なじみの住民は打ち明ける。
「最後のほうはカーテンもせず、部屋の明かりがいつまでもついていた。徘徊してるんだ、寝てないんだって思った。もうだめだって」
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【介護社会】流老の果て<4> 困窮、退去しかなく
中日新聞2010年3月22日
「ここにいたいけど、区が『こんなに家賃が高い部屋には入れておけない』って言うから」
東京都墨田区のマンションを退去する数日前、山田登美子さん=死亡時(84)=は隣人にそう漏らした。終(つい)の棲(す)み家(か)に選んだはずの場所を、山田さんはたった3年9カ月で去るよう迫られた。認知症の症状は進んでいたが、貯蓄も収入も細って退去せざるを得ないまでに追い込まれた状況を、はっきりと分かっていた。
山田さん夫婦は、長年の飲食店経営でつくった貯蓄と、宮城県富谷町の家を売ったお金を手にここへ来た。「来た当時、このマンションを買えるくらいのお金を持っていたと、本人が言っていた」。顔なじみの住民も証言する。
しかし、山田さんは夫の忠雄さんの死後、認知症によるトラブルを起こし続けた。問題視した区が資産を調べてみたところ、預金は短期間にみるみる減っていた。経済的に頼れる身内はおらず、生活保護を受けさせた。
東京23区の場合、生活保護で支給される単身者の家賃の上限は5万3700円。山田さんの部屋の家賃は12万円。退去するしかなかった。
山田さんは強迫神経症という、別の問題も抱えていた。「肩をポンとたたいたら『触んないで!』って。押し車を持ってあげようとしても、そう」(マンション住民)。他人に触れられることを極端に嫌がり、共用のトイレも風呂も、使うことを拒んだ。
区は認知症のグループホームに入れようとしたが、面接で断られた。「法的にきちんとした施設ほど、入所者を選ぶ傾向がある」。墨田区保護課の担当者は、一般論と前置きした上で説明する。「手がかかる人は採算が合わないため、施設は入所を拒む」「1カ所に断られれば、どこへ頼んでも同じ」。特別養護老人ホームの待機者が40万人を超える、それがこの国の現実だという。
困った区が最後に頼ったのが、東京の生活保護受給者を積極的に受け入れていた、群馬県渋川市の無届け施設「静養ホームたまゆら」だった。「分け隔てなく『うちならばいいですよ』と受け入れてくれたのが、たまゆらだった。うちとしてもぎりぎりの判断だった」。区の担当者は釈明する。
「前日に山田さんの妹が手土産を持ってあいさつに来た。『お世話になりました』って。その後のことは分からない」。隣人は振り返る。
山田さんは関東に住む妹夫婦の車に乗せられ、マンションをひっそり引き揚げたという。社交的で裕福なころの姿しか知らない富谷の人たちに、その行き先が想像できるはずもなかった。
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◆【介護社会】<流老の果て>番外編(上・中・下)
◆他人事ではない「無縁社会」