画像;大空襲の供養塔を清掃する豊川高の生徒たち。左は生徒会長の鈴木湊音さん=7日、愛知県豊川市で(太田朗子撮影)
鎮魂清掃 若き後継 豊川高生 空襲供養塔磨く
中日新聞 夕刊 2021年6月9日(水曜日)
「東洋一の兵器工場」と言われ、太平洋戦争の終戦間際の1945(昭和20)年8月に米軍の大空襲を受け壊滅した豊川海軍工廠(愛知県豊川市)。その犠牲者の名前が刻まれる供養塔で今年春、地元の豊川高校の生徒が清掃活動を始めた。生存者らの団体「八七会」が昨年、高齢化で活動を終えたためだ。生徒らは「犠牲者の多くは私たちと同世代。会の思いを受け継ぎたい」と話す。 (川合道子)
供養塔は終戦翌年の46年9月、同市の豊川稲荷(妙厳寺)の裏手に建立された。台座の周囲には、命を落とした2500人以上の動員学徒や女子挺身隊らの名が刻まれている。
八七会は50年以上にわたり、空襲があった45年8月7日に合わせ毎月7日と、同20日に供養塔を清掃し、若くして亡くなった仲間を供養してきた。だが、会を支えた会長が2019年に90歳で他界。残る会員も高齢化し活動を続けることが難しくなった。
豊川高校3年の西川遥翔(はると)さん(17)が供養塔を訪れ、八七会の会員と偶然出会ったのは昨年8月7日のこと。当時、生徒会長を務め同校の前身である旧制豊川中学の犠牲者に花を手向けるため足を運んでいた。会員から手渡されたパンフレットを通じ、その日が最後の活動だったことを知った。
供養塔は高校から数百メートルの距離にある。西川さんは他の生徒会執行部のメンバーと「自分たちにできることはないか」と話し合う中で「清掃ならできる」と思いが一致。八七会から塔の管理を引き継いだ豊川稲荷に清掃活動を申し出た。
活動は始業前の午前8時から15分間と決め、初回の今年4月20日は当時の生徒会執行部9人でスタート。顧問の教諭を通じて各部活にも参加を呼び掛けると、5月7日は女子サッカー部、6月7日は女子ソフトテニス部も駆けつけた。
当時は月1回のペースとし、将来的には参加者を増やして月2回を目指す。
八七会の中には、今も個人で供養塔の清掃を続けている会員もいる。同校の活動当初からのメンバーで、生徒会長の2年鈴木湊音(みなと)さんは「会員の方と出会う機会があれば、当時の記憶を聞きたい。勉強会を開き、活動を豊川高校の伝統にしたい」と意気込む。
八七会副会長で、空襲時は14歳で工廠の見習工だった森田和夫さん(90)=愛知県新城市=は「会としての活動は終わってしまったが、高校生たちが自発的にやろうとしてくれるのがありがたい」と話している。
📝 豊川海軍工廠
主に海軍の航空機や艦船に装備する機銃や弾丸などを製造するため、1939年に開いた巨大兵器工場。最盛期には工員や女子挺身隊、動員学徒ら5万人以上が昼夜交代で働いた。45年8月7日、米軍機124機による爆撃を受け壊滅。10代の若者を中心に2500人以上が死亡、1万人以上が負傷した。工廠跡地には、陸上自衛隊豊川駐屯地や日本車両製造豊川製作所などの企業が立ち並ぶほか、2018年に豊川市が豊川海軍工廠平和公園を開園した。
◎上記事は[中日新聞]からの書き写し(=来栖)
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〈来栖の独白〉
八七会副会長・森田和夫さんは、90歳であられる。若い人が受け継いでくれる僥倖、いかばかり嬉しかったことだろう。