和歌山カレー事件が題材 帚木蓬生著『悲素』 ヒ素という秘毒を盛る「嗜癖の魔力」 毒は人に全能感を与え、その〈嗜癖〉性こそが問題

2018-02-02 | 本/演劇…など

【著者に訊け】帚木蓬生 和歌山カレー事件が題材の『悲素』
2015.09.05 16:00
【著者に訊け】帚木蓬生(ははきぎ・ほうせい)氏/『悲素』/新潮社/2000円+税
 「私は小説を、自分や世の中の不明に怒りながら書いとっとです。こんちきしょう、このバカタレがってね」
  本書『悲素』での怒りは1998年7月、祭りで提供されたカレーに何者かが毒物を混入、死傷者67名を出した和歌山カレー事件にあった。
 「犯人はもちろん、カレー事件だけを恣意的に裁いた裁判官もバカタレですよ。せっかく井上(尚英)先生たちが毒物を砒素と特定し、その他1件の殺人及び3件の殺人未遂を究明したのに、その地道な努力が報われんかったとですから」
  福岡県中間市内に精神科のクリニックを開く作家・帚木蓬生氏が、地元の医師仲間でカレー事件やサリン事件にも捜査協力した井上尚英九州大学名誉教授から鑑定資料一式を託されたのは3年前。「知られていない事実があまりに多すぎる」ことに驚いた氏は、井上氏をモデルにした〈沢井直尚〉を主人公に、同事件や裁判の経緯を克明に再現する。
  毒は人に全能感を与え、その〈嗜癖〉性こそが問題だと氏は言う。つまり毒に見入られた者は2度3度と過ちを繰り返し、愚かで悲しい「悲劇の素」になると。
  昭和40年代にSMONの薬害研究を手がけ、パーキンソン病の研究でも知られる神経内科医・井上氏は、日本に数少ない砒素中毒の第一人者。その彼に和歌山県警から極秘の鑑定依頼があった1998年8月から、2009年5月の死刑確定前後までを、本書では主人公・沢井及び林眞須美ならぬ〈小林真由美〉を軸に、小説に描く。
 「例えばカレー事件以前に彼女が従業員や夫にかけた保険金の正確な金額など、当時はわかっていないことも小説なら整理して書ける。時系列が多少前後してでも、事件の全体をわかりやすく書く必要があったとです。
  たぶん彼女は保険をかけた他の麻雀仲間にも砒素を盛り、急死した母親も含めれば何人手にかけたか知れない。その事実はみんなが知らなきゃいけませんし、他人に簡単に保険をかけて、死亡保険金や入院給付金を何重にもせしめられるなんて、一度やったらやめられなくなる〈貯蓄付きの宝くじ〉みたいなもんです!」
 出色は、和歌山と福岡を往復し、カレー事件の被害者と併せて砒素の後遺症に苦しむ保険金事件の被害者の診療にあたる沢井が、学内の総力を挙げて事実を科学的・多角的に究明しようとする姿勢やチーム力だ。
  尤も事件は当初、食中毒や青酸中毒と発表され、沢井への依頼はマスコミも知らない極秘事項。和歌山では粗末な宿舎に缶詰めにされ、食事も全て出前だった。
 「ただでさえ忙しい中、業績にもならない仕事に善意で協力し、家には記者が押しかける。県警も鰻くらい取ると思って小説では出前を鰻にしたんですが、後で先生に聞いたら、鰻じゃなくてカツ定食でした(笑い)」
  被害者の髪や爪を分析し、砒素が盛られた時期や保険金詐取との関係を探る間、沢井は17世紀にイタリアで販売された初の毒物〈トッファーナ水〉や、毒殺史を塗り替えた〈マリー・ラファルジュ事件〉にも言及。また砒素による自殺を克明に描写した『ボヴァリー夫人』やアガサ・クリスティ『蒼ざめた馬』を読んだ毒殺魔グレアム・ヤング、さらに各種薬害や公害史を網羅した挿話も読み処だ。
 「『ボヴァリー夫人』を砒素の恐さを描いた小説として読む先生の今一つのライフワークが毒ガスの研究で、平時は日の目を見ない研究を地道に重ね、症例を一例ずつ蓄積してこそ、有事の時の対処もできるんです。
  今回も砒素に触れた痕跡が毛髪にどの程度残るかという、ある地味な研究が被疑者の毛髪採取に繋がった。その論文は事件が起きなければ見向きもされなかったんです。そのくせ何か事が起きると砒素のこともサリンのことも何も知らない連中が専門家顔で登場する。そんな連中を重宝がるメディアも大衆も、みんなバカタレですよ」
 さて被疑者が容疑を否定し、自供や物証を欠く中、結果的には現場に残された〈青色紙コップ〉とカレー鍋、さらに同宅で押収した砒素の〈異同識別〉が有罪判決のカギを握った。その後、再審請求中の弁護団は大型放射光施設〈SPring-8〉を用いた東京理科大・中井泉教授(作中では〈仲教授〉)によるこの鑑定を覆す反証を提出。冤罪を指摘する声もあるが、帚木氏は犯行動機も解明できないままカレー事件だけを裁いた〈論理の不均衡〉こそを問題視する。
 「あくまでこれは私の意見ですけどね。物証がないと言ったらどちらもないのに、カレー事件は無理やり有罪にして、それ以前の事件では『疑わしきは罰せず』と違う態度を取るのは、さすがに比重が傾きすぎです。
 10数年に遡る砒素混入や保険金詐取の実態を精査しなければカレー事件の闇は解明できず、一連の犯行を分断したのがそもそもいけない。それこそ毒には嗜癖性があって、どんな屈強な男性もイチコロにできると噂のトッファーナ水を買い求め、夫の皿に注いだ中世の御婦人方もそう。ひと度毒に見入られた者は、二度と手放せなくなるんです
  沢井が冒頭、母校の解剖学講堂が取り壊されたことを知り、〈将来しか見ない〉と嘆く場面がある。同講堂は昭和20年5月、米軍捕虜8名に行なわれた〈生体解剖〉の証言者であり、かつて海外で〈自分が伝統の中にあり、新しい伝統を築いていく責務を、知らず知らず感じ取る環境〉に学んだ彼には、過去の汚点を厄介払いする愚行に映ったのだ。
 「あの石井四郎の母校・京大の医学部資料館でも731部隊の扱いなど皆無に近く、そうやって過去を知らない医者が増えていくんです。
  その点、井上先生がかつて各種環境ホルモンや職業疾患を研究された産業医科大の講堂はラマツィーニホールと言って、『働く人々の病気』の著者・ラマツィーニを尊敬する先生らしい。液晶に使われる希少金属がインジウム肺を生むように、毒との格闘は今なお続き、不幸な事件や過去に学ばなければ、歴史も進歩もあったもんじゃありません」
  そう憤る帚木氏と別れ、乗りこんだ筑豊電鉄の各駅には、先の世界遺産決定を祝うポスターが並んでいた。同地の炭鉱や製鉄が日本の近代を支えたのが事実なら、氏が『三たびの海峡』に描いた強制連行も事実。それらも含めた蓄積が歴史なのだと、帚木氏は多分に愛情を孕む博多弁の「バカタレ」を本作にもぶつけるのである。
 【著者プロフィール】帚木蓬生(ははきぎ・ほうせい)
 1947年福岡県小郡市生まれ。東京大学文学部仏文科卒業後、TBS入社。番組制作に関わるが2年で退社し、九州大学医学部に入学、精神科医に。作家としても活躍し、1992年『三たびの海峡』で吉川英治文学新人賞、1995年『閉鎖病棟』で山本周五郎賞、1997年『逃亡』で柴田錬三郎賞、2010年『水神』で新田次郎文学賞、2012年『蠅の帝国』『蛍の航跡』で日本医療小説大賞等。著書は他に『ギャンブル依存とたたかう』等。169cm、68kg、A型。

 (構成/橋本紀子) ※週刊ポスト2015年9月11日号

 ◎上記事は[NEWS ポストセブン]からの転載・引用です *強調(太字)は来栖
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「毒の魔力」に屈した女 医学的な視点で「あの事件」を追う長編小説
【書評】帚木蓬生『悲素』/評者 久坂部羊
 2015/08/09
 本書は1998年に発生した和歌山毒物カレー事件の捜査に取材した小説である。主人公は九州大学医学部の衛生学教授。参考文献からもわかる通り、実在の人物がモデルである。
 出だしから緊迫した描写に引き込まれる。被害者の症状や死因に、専門家ならではの目が注がれ、内部資料に基づく事実が次々と明らかになる。犯人の知らないところで着々と進められる緻密な医学的追究と容疑固めは、実にスリリングだ。
 それにしても、恐ろしいのは、容疑者「小林真由美」の果てしない保険金詐取の闇だ。次々と高額の保険を周囲の人間に掛けては、ヒ素と睡眠薬で殺害を企む。1億4千万円の保険金を受け取った実母の死にも疑惑があるというのだから、言葉を失う。
 だが、カレー事件については動機が不明だ。「真由美」は事件の前に夫を含む複数の知人に新たな保険をかけ、カレーで皆殺しを図った可能性が指摘されるが、彼女がヒ素を混入したのは、夫たちが夏祭りへの不参加を決めたあとだ。それでも犯行に及んだのは、ヒ素という秘毒を盛る「嗜癖の魔力」に、彼女があらがえなかったからだと著者は推理する。おそらくそれは本人にも自覚できない病態であっただろうと。
 本書は医学の力で犯罪をあぶり出そうとする主人公の活躍を描いた知的エンタテイメントである。あくまで事実に依拠した描写は、派手な展開はないものの、ボディブローのように事件の恐ろしさを読者の胸に叩き込む。
 毒殺の歴史や、第一次世界大戦の毒ガス攻撃、九大生体解剖事件、松本サリン事件などへの言及も興味深い。さらに540ページを越える長編でありながら、一度も「私」という一人称を使わない文体の技巧にも唸らされる。
 ただし、本作がいかにリアルな描写にあふれていても、小説であることを忘れてはならないだろう。知的興奮のあとに、底知れない恐怖が湧き上がるとしても、真実の奥深い闇は、だれの手も届かないものであるかもしれないのだから。
<筆者プロフィール>くさかべ・よう
 外務省医務官等を経て『廃用身』でデビュー。『悪医』で日本医療小説大賞受賞。『いつか、あなたも』他
 「週刊現代」2015年8月8日号より
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『悲素』
 著者:帚木蓬生 新潮社:2000円
ははきぎ・ほうせい   '47年生まれ。精神科医でもある。『閉鎖病棟』で山本周五郎賞、『逃亡』で柴田錬三郎賞受賞

  ◎上記事は[現代ビジネス]からの転載・引用です *強調(太字)は来栖
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和歌山カレー事件のヒ素鑑定~再分析した京大教授が否定(『週刊金曜日』2013年4月18日)
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