モーリヤック著 『イエスの生涯』 杉捷夫訳 〈来栖の独白 2020.2.16〉

2020-02-16 | 本/演劇…など

 フランソワ・モーリヤック著、杉捷夫訳『イエスの生涯』(新潮社 / 新潮文庫、1952年)

p31~
 マリヤとヨセフがナザレに帰ろうとした時、子供がはぐれたのだった。(略)
 遂に、教師達の間に立ちまじって坐っている息子の姿を宮の中にみつけ、子供の問いかつ答え
(p32~)る言葉に教師達が喜び怪しんでいるのを見た時、両親は彼等と感嘆の思いを共にすることは考えず、母親は、恐らくこの時初めて、非難の言葉を息子にかけた。
 ---児よ、何故かかることを我らになせしぞ? みよ、汝の父と我と、うれいて、たずねたり。…
 そして、この時初めて、イエスは、ほかの子供なら答えるであろう答えをしなかった。あたりまえの学童の調子で答えなかった。不遜の態度を見せたわけではないが、あたかも、年がないかのように、一切の年齢を超越しているかのように、逆にこうきき返したのだった。
 ーーー何故われをたずねたるか? 我はわが父の家に居るべきを知らぬか?(ルカ・2の42-49)
 (略)
 ルカはイエスが両親にしたがいつかえ給う(ルカ・2の51)とは断言しているが、一度でも
(p33~)やさしかったとはつけ加えていない。福音書の中に伝えられているキリストの母親に対する言葉のどれ一つとして(最後の言葉を除き)女性に対する彼の独立不覇をきびしく表明していないものはない。あたかも肉の形をとってあらわれわれるために女を手段に使ったと言わんばかりであり、彼はその肉の外へ出たのであり、一見、もはや彼女と彼の間には何の共通するものもない。後に彼にむかって「なんじの母と兄弟たちと、なんじにもの言わんとて外に立てり。」と知らせてくれた者にむかって、彼はこう答えている。「わが母とは誰ぞ、わが兄弟とは誰ぞ。」それから、まわりに坐っている者の上に視線を走らせながら、こう言っている。「みよ、これは我が母、わが兄弟なり、誰にても神のみこころをおこなう者は、これ、わが兄弟、わが姉妹、わが母なり。」(マルコ・3の32-35、マタイ・13の47-50)

p38~
 かくれた生活の最後の数日。この職人はもはや職人ではない。彼はすべての注文をことわり、仕事場はうちすてられた場所といった様子を帯びている。
(中略)
 後に、キリストは歓喜の日に叫ぶ。「われ天よりひらめく電光のごとくサタンの落ちしを見たり!」(ルカ10:18)。彼がこの堕天の幻を見たのは、たぶん、この人に知られない生活の最後の時のことであろう。彼はまた見ていたであろうか?(どうして見ないということがあろう?)敗れた首天使が、彼のうしろに、幾百万という魂を、ひきつれるであろうということを。吹きすさぶ吹雪の中の雪片よりも数多く、ひしひしとひしめく魂を。
 彼はマントをはおり、くつの紐をむすんだ。彼は母親に永久に知られない別れの言葉をのべる。(~p40)

p64~
 中風を病める者のとなえたのも、この同じ声に出ぬ祈りの言葉だったに相違ない。「我をいやしたまえ!」ではなく、「我を許したまえ!」 その時、いまだかつて人間の口から洩れたことのない、この上もなく驚くべき言葉が湧きおこったのである。「汝の罪ゆるされたり。」
 あわれな人間の一生のすべての罪。大きな罪、小さい罪、世にも恥ずかしい罪、誰にも打ちあけることのできないもの、いやしいばかりでなく、もの笑いになるような罪、――それからまた、忘れることができないくせに、一度も己が考えをその上にとどめることをしなかったあの罪。すべてが消し去られた。明細を求められることなく、怒りの声を投げつけられることもなく、冷笑をあびせられることもなく、人の子は、悔い改めている者にその恥をいつまでも噛み味わうことを強制しない。すでに彼は、この魂を十分高く、遠く、詰めよる群集から遠く、はなしてしまった。魂の治癒が彼の心の中で肉体の治癒に立ちまさって見えるために。

p94~
 マグダラのマリヤは肉の宿命を克服したのである。愛は愛によってしか克服されえないから、彼女は火をふせぐ火を放ったのである。肉の創造が彼女の全生命であった日に、彼女にとって全世界がただひとりの人間のまわりに消滅したと同じく、(中略)今日、キリストがこの気ちがい沙汰を福に転じる。再び世界は無に帰するが、この度は神である人間をめぐってそれが行われる。(中略)古き欲望は死滅する。純潔と熱愛とが結合し、このしずまった心の中で和解する。マグダラのマリヤはイエスが食卓についている広間の中へはいって来て、ほかの客には目もくれず、まっすぐキリストの方に向かって進む。世界にはキリストとキリストを愛するこの女のほかに何ものもない。今や、彼女の愛は彼女の神となった。(~p95)

p99~
弟子達は、「君よ、我らはほろぶ!」(ルカ8:24)と口々に叫んで、彼の目をさまさせた。
p100~
キリストは立ち上って、海に命じ、たちまち海はないだ。弟子達は、おびえ、へさきに立って、長髪を風になびかせている人を、ただ眺めるばかりだった。彼等の恐怖は対象をかえていた。彼等は今、目の前に見る師の姿に見覚えがなかったからである。あのうちとけた、やさしい、激しい師はどこへ行ったのか? 血と肉との上に、未知の神がうかび出て、それが彼等に恐怖をおこさせたのである。病をいやすことも、いや、死人をよみがえらせることさえも、偉大な予言者にはその力が与えられる場合がある。彼等自身それに成功したこともある・・・しかし、風と波に向かって命令を下し、風と波がその命令に服するとは・・・「こは誰ぞ?」(ルカ8:25)この素朴な人々は互いにいぶかる。とはいえ、あの情熱的な、少し苛立った声には聞き覚えがある。「信仰なきは何ぞ?」(マルコ4:40)結局のところ、キリストは彼の愛する者達に腹を立てているわけではない。おそるべき力を突然にあらわしたのを見て、彼等が震え上がったとしても無理はない。それは束の間の命しか持たぬ存在に堪えうるより以上のことである。そして、彼キリストは知っている。人の子が、情熱がその深い淵まで開いて見せる心の嵐をしずめる時、もっと驚くべき奇蹟を成就するということを。ほかでもない。風も波も彼に抵抗しないが、愛のために引き裂かれた心は、欲望のためにつき上げられた肉は、気ちがいじみた力で拒もうとする。その時、風は「否!」と叫んで力なき神の横顔を打つ。

p143~
 彼等がイエスのまわりにつめかけ、叫び、イエスに問いかけている間、あわれな女は、髪をふりみだし、殆んど半裸体で、じっと立ったまゝでいる。恐ろしさのために生きた心地もなく、追いつめられた動物の目で、この見知らぬ人を、祭司長等が裁判官として彼女に与えたこの見知らぬ人を、じっとみつめている。
p144~
 彼は、イエスは、女の方を見もしなかった。身をかがめ、指で地面に何ごとか書いていた。そうやってこの女の告発者達の罪を数え上げていたのであると、聖イエロニムスは断じている。単純な真実はそんなことよりもずっと美しい! 人の子は、この不幸な女がおそろしさよりも恥ずかしさのために気絶しそうになっているのを知っていて、その方を見なかったのである。ある一人の人間の生涯のうちには、最大の慈悲はその方を見ないでいてやることであるような時刻があるものだからである。罪人に対するキリストの愛のすべては、このそらした視線の中にこもっている。キリストが地面に書いていた符号は、この哀れな肉体の方に目をあげまいとする彼の意志以外の何ごとをも意味していなかったのである。
 そこでイエスはたけり立つ群集が発言を終わるのを待った。そして、ついにこう言った。
ーーなんじらのうち、罪なき者まず石をなげうて。
 こう言ったと思うと、また身をかがめて、地面にものを書いた。「彼らはこれをききて良心に責められ、としよりをはじめ若き者まで一人一人いでゆき、ただイエスと中に立てる女とのみのこれり」
p145~
(中略)
 彼はたずねる。「おんなよ、汝を訴えたる者どもはいずこにおるぞ、汝を罪する者なきか。」女は答えた。「主よ、誰もなし。」イエス言う。「われも汝を罪せじ。ゆけ、この後、ふたたび罪を犯すな。」(ヨハネ8:5-11)
p146~
 女は立ち去った。女はまた帰ってくるであろう。というより、帰って来る必要を感じていなかった。二人は一つに結ばれていた。今から永久に。

p206
 <魂の匂い>

p207~
 その後に続いた重苦しい沈黙の中で、ペテロはイエスの肩にもたれて横になっているヨハネに相図した。「誰のことを言い給うか、告げよ、」(ヨハネ13:24)と言う積りで。ヨハネは、目をあげ、僅かに、唇を動かしただけで、言おうとすることをわかって貰(もら)えた。

p208~
そこで、イエスは、この弟子の耳もとに、ささやいた。
 ――わが一つまみのパン(食物)をひたして与うる者はそれなり。
 こう言ったと思うと、皿の中にパンをひたして、一口分をユダの方に差し出した。ユダは、反対側に座っていたのであるから、話はきいたに相違ない。少くとも、彼は、キリストの顔が、彼の寵愛の弟子の顔の上にかがみこむのを見た。まさしくこの瞬間。「悪魔かれに入りたり。」 嫉妬に狂うばかりだったのだろう、このユダは。ひとが彼をのけ者にしていることがわからぬ程神経が太くはなかった。ヨハネが最愛の弟子だったとすれば、彼はいつでも一番愛されていなかった・・・この不幸な男の中に鎖を切って放たれる憎しみ。突如たる、天使の憎しみ。人の子は、もはやそれに耐え得る状態にはない。なお、全受難の過程を忍ばねばならぬ彼が。愛のためにつくられた魂の中に、この現実な、質量をそなえた悪魔の現存、そのことが彼に残された力を押し流した。彼はそこで、ユダを促した。
 ――なんじがなすことを速かになせ。(ヨハネ13:25~27)

p238
<死>

p239~
と、突然、胸をえぐる叫びが、この上もなく思いがけない、今なお我等の胸を凍らせる叫びが起った。
 ――わが神、わが神、なんぞ我を見すて給いし・・・(マタイ27:46)
 これは詩篇第21(第22)の最初の一行の文句である――キリストが死に至るまでその文面を生きることに没頭したあの詩篇の。然り、我等は我等の信仰の全力をあげて信じる。子はなおこの恐怖を、父に捨てられる恐怖を、経験しなければならなかったのであると。

p240~
(中略)イエスは言う。「ことおわりぬ。」「ついに首をたれて霊をわたし給う。」(ヨハネ19:30)しかし、その前に、彼はあのふしぎな大声を発した。一人の百卒長が、胸を打って、「げにこの人は神の子なりき・・・」(マルコ15:39)と叫んだほどの。いかなる言葉も必要ではない。創造主のよろこび給うところであるならば。叫び声だけで十分である。造られたものがそれを認めるのに。

p241
<復活>

p247
 何も獲物がなかった。一人の見知らぬ男が、舟の右へ網をおろせと教えた。あまりにたくさんの魚がかかったので、ヨハネが突然了解した。「主なり! ペテロよ、主なり!」と、ペテロは、一刻も早く愛する主に追いつくために海にとびこんだ。あそこにいる、岸に。まぎれもない主である。たき火が煙をあげる。太陽がペテロの着物を乾かす。とった魚をあぶる。イエスのわけてくれるパンを彼等は食べる。

p248
(中略)それからイエスは去り、ペテロがそのあとを追う。その少しあとから、ヨハネが――恰も「とくに愛し給いしもの」という彼の特権を失ったかのように。恰も、よみがえり給える主が、我が心の偏愛にもはやゆずり給わぬかのように。とはいえ、主はゼベダイの息子のことについて意味ありげな言葉を口にしている。それから、数週間後に、イエスが、弟子達の群から離れて、天にのぼり、光の中にその姿がとけてしまった時も、それは二度と帰らぬ旅立ちというべきものではなかった。すでに、主は、エルサレムからダマスコへ行く道の曲り角で待伏せをし、サウロを、彼の最愛の迫害者をねらっている。この時以後、すべての人間の運命の中に、この待伏せをする神がい給うであろう。
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〈来栖の独白 2020.2.16 Sun〉
 これは過去に読んだはずだけれど、まったく記憶がない。先日まで遠藤周作さんのものをいくつか読んだが、氏は「奇蹟物語」を否定、殆ど言及していない。が、氏に多大な影響を与えたモーリヤック氏は奇蹟物語に多く言及している。
 遠藤氏の作品の問題意識の中核となるのは「弱虫だった弟子たちが、なぜ殉教をも辞さぬ強虫になったのか」ということだが、遠藤氏のように、奇蹟を除外してしまっては、この答えは得られないのではないか。


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