猪瀬直樹著『天皇の影法師』…新元号は「光文に決定するであろう」という号外

2019-01-02 | 本/演劇…など

〈来栖の独白 2019.1.2 Wed〉
 元旦早々、「4月1日に新元号公表」との報道。「元号」と聞いて私が過敏になるのは、猪瀬直樹著『天皇の影法師』(中公文庫)を読んでからだ。東京日日新聞(現在の毎日新聞)の杉山記者は、元号スクープにより、一生を台無しにしている。政府(当時の枢密院)は元号をスクープされたために「光文」から「昭和」に急遽、変更。
 なぜそれほどメディアも政府も、元号「隠蔽・スクープ」に拘ったのか私には理解できないが、本年元旦早々報じられた「4月1日に新元号公表」にも、政府の慎重な気配が窺われる。
 以下、猪瀬直樹著『天皇の影法師』(中公文庫)から抜粋転写しつつ、再考してみたい。

  

『天皇の影法師』中公文庫 2012年4月25日初版発行 (単行本 1983年3月朝日新聞社刊) 

内容(「BOOK」データベースより)
 大正十五年十二月十五日未明、天皇崩御。その朝、東京日日新聞は新元号は「光文」と報じた…。世紀の誤報事件の顛末。歴代天皇の柩を担いできた八瀬童子とは?最晩年の森鴎外はなぜ「元号考」に執念を燃やしたのか?天皇というシステムに独自の切り口と徹底取材で迫る。

p30~
 東京日日新聞は、大正天皇の崩御からわずか2時間半後の午前4時ごろ、新元号は「光文に決定するであろう」という号外を出した。崩御は大正15年12月25日午前1時25分である。正式発表は午前2時40分であった。
 当時の整理部長川辺真蔵はこう回想している(『サンデー毎日・臨時増刊』昭和32年2月15日号)。
p31~
「この(崩御)発表が葉山(御用邸)の現地から電話でくると社内がテンヤワンヤのありさまであったことはいうまでもない。新聞の本紙をつくるいっぽう、号外も出した。しかも深夜であるから売る目的ではむろんない。家並にたたき起こして無料でこれをくばり回る手配をしたのであった。こうして本紙の大組ができあがり、降版に回したのは午前4時も過ぎたころであったろうか」
 冷たい冬の朝、玄関を叩く音で目を醒ました都心の人々は号外をみて、「今日はもう光文元年である」ことの感慨に浸ったことになる。
 販売店のオヤジや小僧は、夜明け前の暗い街頭でちょうちんを提げ鈴を鳴らしながら電柱にも号外を貼って歩いた。
 川辺の回想をつづける。
「本紙を(降版に回したあと)印刷機の音が工場に聞こえ出すとともにホッと一息いれたころには、実際誰も彼もみな身も心もクタクタになっていた。しばらくのあいだ私はガランとした報道本部になっていた室の片隅で、椅子にもたれたままウトウトしていた」
 午前9時ごろになると、徹夜組でない、帰宅組がボツボツと出勤してくる。その一人政治部副部長の四方田良し義茂が上機嫌で新聞のできばえをたたえた。
「今朝の新聞はよかったですよ。まず配達が早かったんです。それにすべてがそろっていましたよ。(p32~)年号の出ているところは他にありません。実際よかったですよ」
 社内の空気は、「光文」を大スクープと信じ、号外発行の手際の良さに満足していたのである。しかし、川辺には少し気がかりなことがあった。枢密院顧問官が一人も葉山の御用邸から退出していない、大丈夫だろうか。 そのうち葉山のほうから電話が入り、ようやく枢密院本会議が散会したという連絡である。同時に、元号は「昭和」と決まったという報せだった。
「葉山からは『光文』は送っていないはずなのに、いったいどこからそんな情報を得たのか」
 現場記者は昂奮し、咎めるような口調で抗議してきたのである。
「元号誤報事件」にはひとつの神話がいまもって語られ続けている。その神話は、東京日日新聞が「光文」をスクープしたために、当局はあわてて「昭和」に切り替えた。本当は、元号は「光文」になるはずだった、というものである。当局は新元号が事前に漏洩したという不祥事を隠蔽したのだ。午前6時45分から9時25分まで枢密院の会議が3時間近くも費やされたのはそのためである、という説であった。
 人の一生涯のうちには、稀に決定的な好機と呼べる瞬間がある。その機会のくぐり抜け方によっては、(p33~)たいへんな僥倖を得る場合もあるが、ときには生涯の痛恨事となることもある。
 白面の美青年杉山孝次が「元号誤報事件」の渦中にいたのは三十三歳のときだった。
 東京日日新聞政治部記者の杉山は眉が太く彫りの深いマスクで、白人との混血児と信じた者もいたほどである。加えて酒気芬々、頬はいつもサーモンピンクに染まり、記者仲間は彼をバロン(男爵)と呼んだ。
 バロン杉山の栄光は、わずか7時間で潰え去った。大正15年12月25日午前4時ごろから昭和元年12月25日午前11時近くまでの7時間である。
『毎日新聞70年』(昭和27年刊)によると、「(大正天皇)崩御よりだいぶ前、天皇に万一のことがあれば改元されるが、その場合は<光文になるらしい>との極秘情報が東日政治部長西村公明氏の下に、政治部一記者からもたらされた。西村部長は、それを紙片にしたためて、主幹城戸元亮(きどもとすけ)氏に手渡した。城戸主幹は、幹部会の席上、極秘情報としてそれを伝えた。その後、枢密顧問官清浦奎吾(きようらけいご)氏に接近している名村寅雄氏(東京日日秘書課長)その他2、3氏から、やはり <光文になるらしい>との極秘情報がもたらされた」。
 毎日新聞主幹、NHK会長を歴任した阿部真之介が「目撃者が語る昭和事件史」(『週刊現代』昭和32年5月7日号)で、その政治部記者が杉山孝次で、「確実に光文に決まる」という情報を伝えてきた、と発言している。この記事を書いた戸川猪佐武(いさむ)は『素顔の昭和・戦前篇』(昭和53年刊)にこう書いた。(p34~)「私が元号問題を取材した昭和36年にも、杉山の消息はつかめなかった。彼の人生にとって、元号誤報はこのうえない悲劇になったのである」
 明治天皇が崩御したとき、新元号の「大正」をスクープしたのは朝日新聞の緒方竹虎であった。「当時はまだ無名の青年記者でしかなかった彼が、このスクープによって社内に大いに認められ、後年大編集局長となり、大政治家となる道が開かれた」(高田秀二『物語特ダネ百年史』昭和43年刊)という話はよく知られている。
 明治から大正への改元に対して、大正から「光文」へは、幻のスクープとして泡のように消えた。杉山記者の未来も、緒方記者の僥倖とは縁遠い方向で一瞬のうちに消えた。
 光文誤報事件の真相を調べるため杉山孝次の消息を尋ね歩いたが、探しあてたときはすでに鬼籍に入っていた。
 生前の杉山は事件について家族にもほとんどしゃべらなかった。たまたまふとしたことで話題が元号におよんだとき、長女夫婦に「あれは本当は正しかったんだが…」と漏らして、こう説明したという。
「封筒に入れて新聞社の金庫にしまっておいたのに、上層部が、予定より早く封を切ってしまった。もう少し待ってくれればよかったのに…」
 やや奥歯にもののはさまったようないい方だが、「光文」神話を肯定する当事者の言い分と受け取っていいだろう。


4月1日に新元号公表 安倍首相、年頭会見で発表
2019.1.1 00:24
 安倍晋三首相は、天皇陛下の譲位と皇太子さまの新天皇即位に伴う新元号について、4月1日に閣議決定し、同日中に公表する方針を固めた。1月4日に伊勢神宮(三重県伊勢市)参拝後の年頭記者会見で正式発表する。首相は当初、4月11日の新元号公表を検討していたが、5月1日の改元に伴うコンピューターソフトのシステム改修が間に合わないため断念した。
 複数の政府関係者が明らかにした。今回の改元は明治以降初めて譲位に伴い行われるため、首相は皇室の伝統を尊重しつつ国民への影響を最小限にすることを重視するよう指示。杉田和博官房副長官らと断続的に協議を続け、昨年12月末に最終決断した。
 首相は当初、4月10日に財界などが天皇陛下ご在位30年の「お祝いと感謝の集い」を開くことから、翌11日に新元号を公表する方向で検討を進めてきた。
 ところが、米マイクロソフト社の基本ソフト(OS)「ウィンドウズ」の更新が間に合わず、企業の決算作業が混乱しかねないことが判明した。加えて年金や失業手当の給付に支障をきたす恐れもあるため、4月1日に前倒しして公表することにした。
 新元号に関しては、昭和~平成の代替わりの例を踏襲する。政府は4月1日、有識者による「元号に関する懇談会」、衆参両院正副議長の意見聴取、全閣僚会議を順次行い、新元号を閣議決定する運びとなる。閣議後に官房長官が速やかに記者会見で発表する。
 同日中に天皇陛下が新元号が記された政令に署名、一両日中に官報への掲載をもって公布する。元号を切り替える政令の施行日は5月1日とする。
 新元号の公表時期をめぐっては、天皇と元号を不可分とする「一世一元」を重んじる一部議員らが、新天皇による新元号の公表と公布、施行を求めてきた。
 しかし、政令公布に必要な御名御璽(ぎょめいぎょじ)(天皇の署名と押印)は5月1日の「剣璽等承継の儀」で引き継がれるため、官報掲載に時間を要し、改元が5月2日にずれこむ公算が大きい。しかも政令の署名は「平成」で行うため、新元号との並立は不可能となり、法的に実現は難しいと判断した。

 ◎上記事は[産経新聞]からの転載・引用です
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『東條英機 処刑の日』アメリカが天皇明仁に刻んだ「死の暗号」 猪瀬直樹著 (文春文庫) 2011/12/6

  

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