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【普天間問題】参院選モードで、決着したかのような空気 無縁で安全な場所から発せられる言葉に重みはない

2010-07-03 | 政治〈領土/防衛/安全保障/憲法/歴史認識〉

「普天間基地移設」という〈罠〉
田中 康博(国際基督教大学准教授)
中日新聞2010/6/28Mon.
 人々の注目が夏の参院選に集まる中、まるで「普天間問題」が決着したかのような空気が漂っている。昨年の暮れあたりから沖縄の米軍基地をめぐる報道が増え、やっと国民のの視線が沖縄に注がれていると思っていたが、あれは錯覚だったのだろうか。
 なんのことはない、新政権が選択した普天間問題の着地点は、自民党政権が画策していた原案に近いものだった。またしても「日米合意」が壁のように立ちはだかり、普天間基地の即時閉鎖を求めた沖縄の人々の声が日米両政府に届くことはなかった。
 まるで悪い夢を見ていたような気にもなるが、今回の一件ははからずも日本社会が抱え込んできた矛盾を浮き彫りにすることになった。それは、戦後日本の発展の陰には、継続する沖縄の占領があったという単純な事実だ。さらに重要なことは、沖縄の占領が、復帰を機に終わりを告げたのではないということだ。
 占領は、形を変えて今も継続している。2004年の夏、当時、私が勤めていた沖縄国際大学の本館ビルに激突炎上した米海兵隊のヘリは、そのことをもっとも暴力的な形で私たちに教えてくれた。加害者側であるはずの米兵がショットガンを抱えてキャンパスをうろつき、数日もの間、事件現場を占拠した。あの屈辱的な光景を忘れてはならないだろう。
 あのとき、沖縄の人々が痛みをともなって再確認したことは、基地と隣り合わせに生きることの危険性とともに、米軍、そして沖縄が、憲法を含む国内法の〈外部〉に位置するということだった。日米安保は、沖縄を宙づりにするための仕組みであり、それが米軍基地の押し付けを可能にしてきた。
 普天間をめぐる今回の一連の出来事を、「鳩山政権のぶれ」としてとらえる報道が多かった。たしかに鳩山内閣は迷走した。しかし、それは、システムとしての政治が安定に向かう際の微調整であったと考えたほうがいい。政権は交代しても、「日米同盟」を基礎にした外交や防衛の方針は変わらないことを国内外に示したわけで、アメリカ政府はさぞかし安心したにちがいない。
 あらかじめ県内ありきの意図をもって「普天間か、辺野古か」という二者択一を迫り、辺野古の新基地建設を認めなければ普天間を残すという、この間の政府要人たちの発言は恫喝に等しい。県内各地で沸き起こっている「沖縄は再び捨石になるのか」という声に耳を傾けるときが来ているのではないだろうか。
 戦後日本の風景を根底のところで規定してきた日米安保体制。その軸を安定させるために、いわば人身御供になってきた沖縄。そこには、否定しがたい差別の構図がある。沖縄ブームの下で、南国イメージのみが一人歩きする祝祭空間「沖縄」の風景は、構造的差別を覆い隠す舞台装置でもある。
 県民大会を受けて「沖縄は怒っています」と同情してみせる中央メディアの言葉は、それを発する者の立ち位置を示している。基地の騒音や米軍がらみの事件とは無縁で安全な場所から発せられる言葉に重みはない。「戦後」という空間に安住してきた日本と、その空間の外部に置かれ続けてきた沖縄との〈距離〉を、そろそろ真剣に考えてみてもいいだろう。
 不思議なことに、日米関係の危機を煽ることで、基地を沖縄に押しつけることに誰よりも積極的だったのは大手マスメディアだった。移設先をどこにするかという出口なき相対論に普天間問題を矮小化し、日米安保体制の見直し、抑止論の真偽、そして基地の必要性といった本質的な議論を回避したメディアの責任は重い。
 5月28日、「辺野古移設決定」の日米共同声明が発表された。その日私は、沖縄県庁前で開かれた県民集会に参加していた。「辺野古で13年間も基地建設を阻止してきたのだから、これからも基地は作らせない」。土砂降りの雨の中、傘を振りあげてそう言い放ったのは、近くに立っていた子供連れの女性だった。沖縄の人々に広く深く共有され始めている怒りと不退転の決意。政府やメディアや国民の今後の動きを、沖縄の人々は息を詰めて見守っている。
(たなか・やすひろ)=国際基督教大学准教授 社会学、メディア文化論。1957年、沖縄生まれ。琉球大卒、米ウィスコンシン大学博士課程修了。著書に『風景の裂け目ー沖縄、占領の今』(せりか書房)など。

「普天間基地移設」という〈罠〉


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