11月30日は「113号事件」勝田清孝の亡くなった(死刑執行された)日。2000年のことであった。 〈来栖の独白〉

2020-11-30 | 日録

〈来栖の独白2020.11.30 Mon〉
 毎年忘れていて、過ぎてから思い出すのだが、11月30日は「警察庁広域重要指定113号」勝田清孝の亡くなった(死刑執行された)日である。2000年のことであった。本年は、さっき、三島由紀夫氏の作品『金閣寺』を読んでいて、不意に思い出した。


私は死んだ人のように忘れられ・・・最期の姿(2)

   〈旧HP原稿〉
私は死んだ人のように忘れられ・・・最期の姿(2)
< 補 遺 >
  法務省が「執行命令書」「執行始末書」といった死刑執行に関する文書の保存を「永久」ではなく「10年間」としたことは、当サイトにお越しの皆様には、先刻ご存知のところです。
 尤も、死刑制度自体、密殺・密行であることに変わりはありません。
 私の受けた藤原清孝処刑の第一報は、死刑廃止運動体の弁護士からの電話でした。
 「清孝さんの遺体を引き取りに行ってください。清孝さんが死刑に反対し、激しく抵抗しました。そのため遺体の損傷が激しい。拘置所が家族に遺体を見せずに火葬にしてしまう、ということが考えられます。一人で大丈夫ですか。こういう場合、あちらが難しいことを言ってくることが考えられるのです。誰か弁護士をつけましょうか」と切迫した感じでした。
 「激しく抵抗」と云われましても、この1年程は強度の腰痛で横臥許可をもらう繰り返し、言ってみれば病人ですから、俄かに信じがたい思いでしたが、それよりも訃報そのものに恐慌をきたして、拘置所へ車を走らせたわけです。
 2階応接室に入るや、遺体との対面を要求しました。
 所長は「まだ御遺体が整っていないのです。どうか腰掛けてください。話を聞いてください」などと宥めるのですが、いっかな昂奮が収まらないものですから前掲の遺書を私に読ませ「こういう本人の気持ちを、私はあなたに伝えなければならないのです。本人の希望は、こうなのですが、どうですか」と訊きました。
 私が「家族としましては是非とも引き取らせて頂きたいと思います」と答えますと
 「わかりました」と即答でした。
 やっと気分が落ち着いた私に所長は、藤原の刑場に至るまでの立ち居振舞いを伝えてくれました。
 途中私が「藤原は自分の足で歩いて行きましたか」と尋ね、所長が「そうです」と答えたのは、生前清孝が面会で「(執行に際しては)はっきり告知してほしい。騙されるように連行されるのは嫌や。自分の足でしっかり歩いて行きたい」と語ったことを不意に思い出したからでした。
 上記に付随して、少しく述べておきたいことがございます。
 贖罪と言うには、あまりに程遠い点訳ですが、役所から許可された---刑確定者である藤原に、役所は、親族外(ライトハウス)との交通を特別許可してくれていました---点字を自分の目が見えなくなるまで、やり遂げたかった藤原でした。「少なくとも108冊以上、訳したい」と、恥ずかしそうに云ったことがあります(108とは煩悩の数だそうです)。
 けれども、執行の呼び出しを受けたときには「自分の足で…」と、藤原は切り詰めた語り口の中から私に伝えたのでした。やっと聞き取れるほどの低い声でした。
 武人のような潔い最期でもなければ、従容として死についたのでもない。「立派」と所長は形容してくださいましたが、多分さほどの景色でもなく、ただ諦めて逝った、それだけの佇まいだっただろうと思います。自分の気持ちに素直に、等身大のような死を死んだと思います。
 「人間らしい最期でした。人間というものを感じさせてくれました」と、僧侶は話されました。激しく抵抗し直近の係官を苦しめるような人柄ではなかった、と思います。
 後日、遺品の引き取りに行きましたとき、所長は言いました。「死亡から24時間経たなければ火葬には出来ません。法的にそうですが、何よりも藤原には名古屋市内にあなたというお姉さんがいらっしゃる。それを百も承知している我々が、お姉さんに一度も(遺体に)対面して頂かないで火葬になどするわけがない」と。
 遺族として、最期の姿をありのまま伝え、もはや死刑の周縁から遠く離れて休ませてやりたいと思います。

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《死刑とは何か~刑場の周縁から》 加賀乙彦著『宣告』『死刑囚の記録』 大塚公子著『死刑執行人の苦悩』
(抜粋)
 いま一つ、書いておきたいことがある。
 113号事件藤原(勝田)清孝は、2000年11月30日に死刑執行された。終了時刻は午前11時38分であった。知らせを受けて名古屋拘置所へ車を走らせた。所長や教誨師から最期にいたる藤原の様子を聞いたり、色々なことを拘置所から懇ろにして頂いた後、棺に納まった藤原の後を追って拘置所を出た。既に外は夕暮れていた。葬儀社に到着し、初めて一人だけで藤原と対面した。安らかで眠っているような顔であった。晩年あれほどに苦しんだ腰痛からやっと解放された、そんな表情にも見えた。首に絞縄の跡があったが、私の目にはさほど惨たらしくは映らなかった。また胸に触れてみると、仄かなぬくもりが感じられた。「温かい」と私が思わず呟くと、いつの間にか傍に来ていた葬儀社の人が「とても丁寧に死後の手当て(処理)がされているのです」とおっしゃった。
 上掲の加賀氏や大塚氏が書いておられるように、藤原も、執行直後こそ失禁・鼻血・突出した眼球・だらりと顎の下まで垂れ下がった舌等により、思わず目を蔽いたくなるような「死体」であったに違いないが、私が対面した「遺体」は刑務官によってきれいに整えられ、損傷もなく安らいでいた。


ラジオ深夜便
2020年(令和2年) 11月30日 (月曜日)

きょうの
「誕生日の花と花ことば」


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