【産経抄】現行憲法と「国民の憲法」ぜひ前文の比較を(4月26日)
産経新聞2013.4.26 05:00
荒木とよひささんが作詞、作曲した「四季の歌」は、世代を超えて日本人に愛されてきた。〈愛を語るハイネのようなボクの恋人〉。ただ、3番の「秋」の歌詞には、首をひねる人が少なくない。▼「ローレライ」などの作品で知られるドイツのロマン派詩人は、れっきとした男性である。どうして「ボクの恋人」の形容に使われるのか。小欄は3番を歌うたびに、「何でやねん」と、大阪弁のツッコミを入れたくなる。▼美しい言葉が並んでいるようで、実は何を言いたいのかよくわからない。その最たる例が、翻訳調丸出しの悪文で名高い日本国憲法の前文だろう。作家の清水義範さんによれば、前文は「高度なボケ」なんだそうだ。こんな具合にいちいちツッコミを入れて、初めて笑えるギャグになる。▼「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し」「なにを言い出すねん」「わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し」「自分で自分の言ってること、わかっとんのか」(『騙(だま)し絵日本国憲法』集英社)。▼もちろん一番のツッコミどころは、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」の一節である。きのう、北朝鮮による拉致被害者の救出を求める署名が、ついに1000万に達した。信頼するだけでは、国民の安全を守れなかった事実を、大多数の日本人は知ってしまった。▼そんな前文と、小紙がきょう発表した「国民の憲法」要綱の前文とを、ぜひ読み比べていただきたい。日本の誇るべき国柄と、日本国民がめざす理想について、わかりやすく格調高く書いてある。美しい国土と自然、そして四季の恵みのありがたさを再認識させてくれる。
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産経新聞80周年「国民の憲法」要綱 前文
産経新聞2013.4.26 10:30
日本国は先人から受け継いだ悠久の歴史をもち、天皇を国のもといとする立憲国家である。
日本国民は建国以来、天皇を国民統合のよりどころとし、専断を排して衆議を重んじ、尊厳ある近代国家を形成した。山紫水明の美しい国土と自然に恵まれ、海洋国家として独自の日本文明を築いた。よもの海をはらからと願い、和をもって貴しとする精神と、国難に赴く雄々しさをはぐくんできた。
日本国民は多様な価値観を認め、進取の気性と異文化との協和によって固有の伝統文化を生み出してきた。先の大戦による荒廃から復興し、幾多の自然災害をしなやかな精神で超克した。国際社会の中に枢要な地位を占め、国際規範を尊重し、協調して重要な役割を果たす覚悟を有する。
日本国は自由主義、民主主義に立脚して、基本的人権を尊重し、議会制民主主義のうえに国民の福祉を増進し、活力ある公正な社会を実現する。国家の目標として独立自存の道義国家を目指す。人種平等を重んじ、民族の共存共栄をはかり、国際社会の安全と繁栄に積極的に貢献する。
われら日本国民は、恒久平和を希求しつつ、国の主権、独立、名誉を守ることを決意する。これら崇高な理想と誇りをもって、ここに憲法を制定する。
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≪解説≫
まず国家論、簡潔に前文改稿
「国民の憲法」前文は、日本の伝統文化を基礎に「国のかたち」を簡潔に示すことを心がけた。国民主権や基本的人権を尊重し、議会制民主主義を堅持することはいうまでもない。
起草委員会はまず、現行憲法の前文が米国憲法やリンカーン米大統領演説など「外来歴史的文書のつぎはぎ」であることを問題視した。とくに、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」との一節は、自らの生存を他国にゆだねる悪文と判断した。そこには当時の占領軍が、二度と米国に刃向かわない国家にしようとした意思が刻まれていた。
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そこで現行憲法前文を白紙に戻し、日本の国柄を意識しながら全面的に書き直した。初めに日本の伝統的な価値観と、新しい価値観との融合を討議した。独自の伝統文化としては、国の統一と永続性の象徴である天皇を「国の基(もとい)」と表現し、日本が立憲君主国家であることを定義した。
四方を海に囲まれた海洋国家としてのありようは、聖徳太子の十七条憲法や明治天皇の御製を織り込んで、和の精神と雄々しさを表した。とくに、戦後の復興や東日本大震災後に示した日本人の高い道徳性を踏まえ、道義立国という概念を提起している。
その結果、尊厳ある国家の目標として「独立自存の道義国家」を掲げ、国際協調によって積極的に平和に貢献することを誓っている。同時に国の主権、独立、名誉が損なわれる場合には、断固たる対処も辞さない覚悟を示した。
起草委員の問題意識には、国家論なき憲法はありえないとの思いがあった。従来の「憲法は国家権力を制約する」との一面的な憲法観を排除し、国民が参加して自由に議論すべきことを提起している。
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憲法改正の首相答弁要旨(23日)
産経新聞2013.4.23 21:16
【参院選での争点化】
昨年の衆院選のわが党の公約に96条改正が入っている。当然、この7月の参院選でも、われわれは堂々と96条の改正を掲げて戦うべきだ。私は自民党総裁としてそう考えている。
わが国は憲法を制定して以来60数年にわたって全く手をつけていない。諸外国は何回も憲法を改正している。同じ敗戦国でもドイツは50回以上改正しているが、日本はなかなかできなかった。自民党も綱領に掲げながら、チャレンジをずっと見送ってきた。
96条改正が国民の手に憲法を取り戻すことにつながっていく。自民党総裁としてぜひ、96条改正にチャレンジしていきたい。
【憲法改正の意義】
戦後の占領時代に事実上、占領軍の手によって憲法と教育基本法が作り上げられた。日本が真の独立を取り戻す上では、私たち自身でしっかりと自分たちの基本的な枠組みを作り直していく必要がある。
【憲法前文の認識】
『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した』とあるが、自分たちの国民の安全や命を他国の善意に委ねてよいか。このこと自体を疑問に思わないほうがおかしい。
【96条への疑問】
衆参両院で3分の2(の賛成)がなければ発議そのものができない。その後の国民投票で過半数を得なければ、憲法改正はできない。たとえば、60%、70%の国民が改正したいと考えていたとしても、3分の1をちょっと超える国会議員が「ダメだよ」と言ったらできない。おかしい。
【国民投票法】
国民投票法が成立した際、「3つの宿題を3年間で解決せよ」と決めた。(1)有権者を18歳とするのであれば、他の選挙権や民法上の権利・義務と整合性をせよ(2)公務員の公益性をどうするか(3)国民投票は何を対象に考えるのか。憲法改正だけに限るのか-だ。
当時、自民党は(宿題を)やろうとしたが民主党が全くやらず、ボイコットしたのが現実だ。国民投票法はできたが、宿題は埋まっていない。しっかりと議論していただきたい。 *強調(太字・着色)は来栖
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本紙「国民の憲法」要綱を発表 「独立自存の道義国家」
産経新聞2013.4.26 05:00
産経新聞は創刊80周年と「正論」40周年の記念事業として進めてきた「国民の憲法」要綱をまとめ26日、発表した。わが国にふさわしい「新憲法」として国柄を明記、前文で国づくりの目標を「独立自存の道義国家」と掲げた。平和を維持する国防の軍保持や「国を守る義務」、緊急事態条項を新たに設けた。「国難」に対応できない現行憲法の致命的欠陥を踏まえ「国民の憲法」要綱は危機に対処でき「国家の羅針盤」となるよう目指した。
■12章117条、「天皇は元首」「軍を保持」明記
「国民の憲法」要綱は昨年3月からの起草委員会の27回に及ぶ議論を経てまとめた。国家や憲法とは何かなどから議論は始まり、現行憲法の不備を正しつつ堅持すべき事柄も精査した。
「国民の憲法」要綱は、前文のあと、「天皇」「国の構成」「国防」と続き、12章117条で構成する。
まず、わが国が天皇を戴(いただ)く立憲君主国という国柄を第1条で定めた。現在の「国民統合の象徴」に加えて天皇は「国の永続性の象徴」でもあるとした。たびたび議論があった天皇の法的地位も国の代表者である「元首」と明記。皇位も「皇統に属する男系の子孫」が継承するとした。
前文ではわが国の文化、文明の独自性や国際協調を通じて重要な役割を果たす覚悟などを盛り込んだ。連合国軍総司令部(GHQ)の「押しつけ」とされる現行憲法で、特に前文は「翻訳調の悪文」「非現実的な内容」「日本の国柄を反映していない」といった批判があった。憲法は国民に大局的指針を示す格調ある法典でもあるべきだとして、全面的に見直した。
「国民」「領土」「主権」や国旗・国歌について第二章「国の構成」で新たに規定した。国民主権を堅持し、国家に主権があることも明確にした。主権や独立などが脅かされた場合の国の責務も明らかにした。
現行憲法で「戦争の放棄」だった章は第三章「国防」と改めた。国際平和を希求し、紛争の平和的解決に努めつつも、独立や安全確保、国民の保護と国際平和に積極貢献できるよう軍保持を明記。国家の緊急事態条項では、不測の事態下での私権制限が可能とした。
国民の権利、義務の章では、家族の尊重規定や国を守る義務を新設。権利と義務の均衡を図りつつ環境権や人格権など新しい権利を積極的に取り入れた。
国会では参議院を「特色ある良識の府」にすべく諸改革を提言。内閣では首相の指導力を強化するよう条文を見直した。憲法判断が迅速化するよう最高裁判所への専門部署の設置を提言したほか、地方自治の章では、地域に主権があるかのような主張を否定した。
要綱の提言を通じ本紙は国民の憲法改正への論議が豊かで実りあるものとなるよう期待している。
■独立自存 他の力に頼ることなく、自らの力で生存を確保することをいう。哲学者、西田幾多郎も著書「善の研究」で独立自存の重要性を説いている。
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「国民の憲法」要綱全文と解説 -2013年4月26日付産経新聞- [PDF]
◆ 『日本人の誇り』藤原正彦著(文春新書)
p58~
「明治・大正・昭和戦前は、帝国主義、軍国主義、植民地主義をひた走り、アジア各国を侵略した恥ずべき国。江戸時代は士農工商の身分制度、男尊女卑、自由も平等も民主主義もなく、庶民が虐げられていた恥ずかしい国。その前はもっと恥ずかしい国、その前はもっともっと・・・」
占領後、アメリカは米軍による日本国憲法制定を手始めに、言論統制、「罪意識扶植計画」等により、日本をアメリカに都合の好い属国に造り替えてゆく。
p63~
GHQすなわちアメリカはまず新憲法を作り上げました。GHQ民生局が集まり1週間の突貫工事で作ったのです。憲法の専門家はいませんでした。まず前文に「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と書きました。アメリカは他国の憲法を自分達が勝手に作るというハーグ条約違反、そしてそれ以上に恐るべき不遜、をひた隠しにしましたが、この文章を見ただけで英語からの翻訳であることは明らかです。「決意した」などという言葉が我が国の条文の末尾に来ることはまずありえないし、「われら」などという言葉が混入することもないからです。いかにも日本国民の自発的意志により作られたかのように見せるため、姑息な姑息な偽装を施したのですが、文体を見れば誰の文章かは明らかです。そのうえ、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」と美しく飾ってみても、残念なことに「国益のみを愛する諸国民の権謀術数と卑劣に警戒して」が、現実なのです。
ともあれこの前文により、日本国の生存は他国に委ねられたのです。
第9条の「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」は前文の具体的内容です。自国を自分で守らないのですから、どこかの国に安全保障を依頼する以外に国家が生き延びる術はありません。そして安全保障を依頼できる国としてアメリカ以外にないことは自明でした。すなわち、日本はこの前文と第9条の作られたこの時点でアメリカの属国となることがほぼ決定されたのです。この憲法が存在する限り真の独立国家ではありません。中国に「アメリカの妾国」と馬鹿にされても仕方ないのです。(~p64)
p104~
南京大虐殺の不思議
「南京大虐殺」も実に不思議な事件でした。1937年12月13日に南京を陥落させた日本軍が、その後6週間にわたり大規模な虐殺行為を行ったというものです。
1997年にアメリカで出版された五十万部を超えるベストセラーとなった、中国系アメリカ人アイリス・チャンによる『ザ・レイプ・オブ・南京』によりますと、「ヒットラーは6百万人のユダヤ人を殺し、スターリンは4千万以上のロシア人を殺したが、これらは数年をかけて行われたものだ。レイプ・オブ・南京ではたったの数週間で市民30万人を殺し、2万人から8万人の女性を老若かまわず強姦し豚のように殺した、という点で史上最悪のものだ。天皇を中心にした日本政府がこれを仕組んだ」という内容のものです。「日本兵は女性の腹を裂き、胸を切り刻み、生きたまま壁に釘づけにした。舌を鉄の鉤に吊るしたり、埋めてセパードに食い散らかせた」などとも書いてあります。
私達の父や祖父達がこんなことを組織的にしていたとしたら、私たち日本人は百年は立ち上がれないでしょう。祖国愛や誇りを持つなどということもあり得ないことです。
そのためにも事実を明らかにし、東京裁判史観に染まった国民にどうしても真実を知ってもらう必要があります。
1937年12月、南京攻略を決めた松井石根大将はとても神経質になっていました。日露戦争に従軍したことのある松井大将は、かつて世界1規律正しいと絶賛された軍隊でロシアと戦ったことを誇りに思っていました。
そこで攻勢前に兵士たちに、「首都南京を攻めるからには、世界中が見ているから決して悪事を働いてはならぬ」という趣旨の「南京攻略要綱」をわざわざ兵士に配り、厳正な規律を徹底させました。これ自体が稀な行為です。そのうえ、還暦を目前に控えた松井大将は、陸軍大学校を首席で卒業した秀才ですが、若い頃からアジアの団結を唱える大アジア主義に傾倒していて根っからの親中派でした。孫文の革命を支援したばかりか、若き蒋介石が日本の陸軍士官学校に留学した時は親身で面倒まで見てやった人です。運命のいたずらで愛弟子と戦わざるを得なくなり、せめて規律だけは保たせようと思ったのでしょう。そして、攻略を始める前日の12月9日、南京包囲を終えた松井大将は中国軍に対し、民間人の犠牲を避けるため10日正午までに南京を解放するよう勧告しました。蒋介石をはじめ政府と軍の首脳はすでに7日に首都を放棄していました。続いて役人、警察官、郵便局員と姿を消したため、水道は止まり電気も消え、無政府状態となりました。
p106~
ほとんどの戦争では、中国でもヨーロッパでも、市民を巻き添えにしないため軍隊は市内から出るものです。第2次大戦でパリはドイツに占領され、後に連合軍に占領されましたが、どちらの場合も軍隊は市街を出たので美しい町が保たれたのです。北京や武漢でも中国兵は町から出たので市民巻き添えという混乱はありませんでした。
南京守備軍の唐生智司令官はこれを無視しました。「首都と運命を共にする」と広言していた彼は、日本軍の猛攻を受け陥落寸前というときに撤退命令を出すや、逃げ出してしまいました。指揮系統はすでに失われていたので数万の兵に撤退命令は伝わりませんでした。大混乱の最大原因です。降伏命令だったら何も起きなかったからです。
『「南京事件」の総括』(田中正明著、小学館文庫)に、軍服を脱ぎ捨てた数千の中国兵が安全区に入ってきてからの混乱が詳述されています。南京市は首都といっても面積は世田谷区の3分の2ほどの狭さです。日本軍の攻撃の迫った12月1日、南京市長は全市民に対し、安全区、すなわち国際委員会が管理する地区に避難するよう命令します。安全区は、狭い南京の一角に作られた2千㌔四方程度の最小の地区です。日本軍が攻略を始めた12月10日には、すでに揚子江上流に避難した中上流階級の人々を除く、全市民がここ安全区に集まっていました。 資料により異なりますが、この段階における安全区人口は12万から20万の間です。「惨劇」があったとしたら、すし詰めとなったこの安全区で起きたはずなのです。
ところが不思議なことに、南京に入城した幾万の日本兵も、共に入城した百数十名の日本人新聞記者やカメラマンンも誰一人そんな惨劇を見ていないのです。皆が一糸乱れぬ口裏を合わせているのでしょうか。こんな狭い所で大虐殺が行われたというのに、そこに住んでいた国際委員会の外国人や外国人記者も目撃していません。
日本軍が入城した12月13日から翌年2月9日までに、国際委員会は日米英の大使館に61通の文書を提出しており、そこには殺人49件、傷害44件、強姦361件(うち被害者多数3件、被害者数名6件)などがありますが、大虐殺と呼べるものはありません。この数字自身も、国際委員会書記スマイス教授が認めたように、検証されたものではなく中国人からの伝聞によるものでした。また国府軍側の何應欽将軍が直後の1938年春に提出した大部の報告書にも、南京での虐殺を匂わせるものはいっさいありません。無論、市民虐殺を示唆する日本軍の作戦命令も存在しません。
当時、中国に関して最も権威ある情報源とされていた「チャイニーズ・イヤーブック」と呼ばれる年鑑がありました。上海で英国系新聞が出版していたものです。これにも虐待の影はありません。
一口で言うと、虐殺を示す第一次資料は何一つないということです。(~p108)
p110~
東京裁判で再登場した
「南京大虐殺」が再登場したのは、南京戦後8年半もたった1946年、東京裁判においてです。証人となった中国人が次々に大虐殺を「証言」しました。日本兵は集団をなし、人を見れば射殺、女を見れば強姦、手当たり次第の放火と掠奪、屍体はいたる所に山をなし、血は河をなす、という地獄さながらの描写ばかりでした。
この裁判は、通常の裁判とはまったく異なり、証人宣誓が求められず証拠検証もされませんでしたから、言いたい放題だったのです。殺害者数30万人という証言に疑念を抱いたロヴィン弁護人が「私の承知している限りでは南京の人口は20万ですが」と質問すると、ウェッブ裁判長は「今はそれを持ち出すときではありません」と慌ててこの発言をさえぎりました。
中国人だけでなく金陵大学(のちの南京大学)のベイツ教授など数人の欧米人も証人として出廷しました。ベイツ教授は事件時に南京にいて国際委員会のメンバーであり、「戦争とは何か」を書いたティンパーリに、書簡で事件を教えた人です。「1万2千人の市民を含む非武装の4万人近い人間が南京城内や城壁の近くで殺されたことを埋葬記録は示している」という趣旨の証言をしましたが、やはり中国人からの伝聞のみです。
埋葬死体が戦死者のものかどうかも確認していません。実はベイツ教授は、やはり国際委員会に属する金陵大学のスマイス教授と、1938年の3月から4月にかけて、多数の学生を動員して南京市民の被害状況を調査していました。スマイス教授は社会学が専門なのでこの種の調査には慣れていて、50戸に1戸を無差別抽出して、2人1組の学生がそこを訪れ質問調査するという方法でした。
この日時をかけた調査結果は、日本兵の暴行による被害者は、殺された者2400人、負傷した者3050人でした。(「南京地区における戦争被害調査」)。ただし、調査は被害者救済のためのもので、誰も住んでいない家は調査対象となっていませんから、家族全員が犠牲になった家などは統計に入っていません。また死亡者の中に、南京に自宅のある兵で便衣兵(軍服を脱いで一般市民に混じった中国兵)として処刑された者もかなり混じっているはずです。この人たちは市民でもあります。というわけで実数はある程度上下するはずです。しかしこの調査はほとんど唯一の第1次資料と言えるものです。
ベイツ教授はこの調査を知っていながら、東京裁判では大いに水増ししました。そればかりか、
「日本軍侵入後何日もの間、私の家の近所の路に、射殺された民間人の屍体がゴロゴロしておりました。スマイス教授と私は調査をした結果、城内で1万2千人の男女及び子供が殺されたと結論しました」
と述べたのです。一方のスマイス教授の東京裁判への出廷は、弁護側が要求したにもかかわらず認められませんでした。ベイツ教授は1938年と1946年に蒋介石より勲章をもらっていました。
またマギー牧師は法廷で延々と日本軍による殺人や強姦の事例を証言しましたが、ブルックス弁護人に「実際に自分で見たのはそのうちの何件か」と問われ、「実際に見たのは1件だけ」と白状しました。しかもそれは、日本軍歩哨に誰何され逃げ出した中国人青年が射殺された件でした。当時、中国にいた宣教師たちが国民党におもねっていたことは、アメリカの上海副領事をしていたラルフ・タウンゼントが1933年に出版した『暗黒大陸中国の真実』(芙蓉書房出版)などに記されています。
p120~
私は大虐殺の決定的証拠が1つでも出てくる日までは、大虐殺は原爆投下を正当化したいというアメリカの絶望的動機が創作し、利益のためなら何でも主張するという中国の慣習が存続させている、悪質かつ卑劣な作り話であり、実際は通常の攻略と掃討作戦が行われただけと信ずることにしています。さらに事を複雑にしているのは日本国内に、大虐殺を唱え続けることこそが良心と平和希求の証し、という妄想にとらわれた不思議な勢力があることです。「南京大虐殺」は歴史的事実ではなく政治的事実ということです。事実であるという決定的証拠が1つでも出るはるか前に、「カチンの森」が事件発生50年後のソ連崩壊時に告白されたごとく、「南京大虐殺」の真実が、アメリカの情報公開で明るみに出るか、中国の一党独裁崩壊後に告白されるのではないかと考えています。
ただし、アメリカは時が来れば何でも情報公開する公平でオープンな国のように見えますが、肝心のものは公開しません。真珠湾攻撃前1週間の暗号解読資料とかケネディ大統領暗殺犯などについては、今もすべてを出そうとしません。南京事件が原爆投下と関係しているとしたら容易には出さないでしょう。
南京の話が長くなったのは、これが未だに日本人を委縮させているからです。中国に対して言うべきことも言えないでいる理由だからです。尖閣諸島が中国のものと言っても、自分から体当たりしてきて謝罪と賠償を高らかに唱えても、怒鳴りつけることもできず、下を向いたまま「領土問題は存在しません」とつぶやくだけの国となっているからです。
20年以上にわたり毎年10%以上も軍事費を増加させるという中国の異常な軍備拡大に抗議するどころか、すでに6兆円を超すともいわれる巨額のODAを与え、さらに援助し続けるのも、自らの対中防衛力を高める努力もしないでハラハラしているだけなのも、中国の不当な為替操作を非難しないのも、「南京で大虐殺をしましたよね」の声が耳にこだまするからです。中国の対日外交における最大の切り札になっているのです。(~p121)
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