イラク派遣 10年の真実
「クローズアップ現代」2014年4月16日(水)放送
煙に包まれる自衛隊の車両。
自衛隊がイラクで行った訓練を撮影した映像です。
自衛隊員 「大丈夫ですか?大丈夫ですか?」
イラク派遣から10年。
膨大な映像記録が初めて開示されました。発足以来、最も戦場に近い場所での活動となったイラク派遣。自衛隊は現地での任務を、1,000本にも及ぶテープに記録していました。
武装した群衆に囲まれる車両。宿営地への攻撃。そして、多国籍軍との活動。戦場に近い場所に派遣されることの現実が見えてきました。
自衛隊員 「前方、炎上中。」
隊員が死亡した場合の準備まで、極秘裏に進められていたことも分かってきました。
元統合幕僚長 「棺を準備して持ってって、そこはわからないように非常に気をつかいながら準備だけはしてた。」
自衛隊の任務の拡大に向け議論が進められている今、イラク派遣が残した教訓を未公開の資料から探ります。
“戦場に近かった” イラク派遣10年
今年(2014年)1月。イラク派遣10年を機に開かれた懇親会。現地に派遣された隊員たちが全国から集まりました。
元派遣隊員 「いつテロがある緊張の中で過ごしていましたので、精神的にきつかったのはある。」
元派遣隊員 「あそこは戦場に近かった所だったかな。」
イラク派遣10年 極秘映像は何を語る
この10年公開されることのなかった映像記録が、防衛省に保管されていました。半年に及ぶ交渉で初めて開示されました。自衛隊が撮影した、1,000本に及ぶイラク派遣の記録です。その内容の大半は医療支援や給水、道路の修復など、人道復興支援活動の様子でした。
しかし詳しく見ていくと、これまで明らかにされてこなかったイラク派遣の実態が、記録されていたことが分かりました。
派遣からおよそ1か月後。夜間の宿営地を映した映像です。
自衛隊員 「ただいまの時刻、イラク時間10時57分です。突然、鉄帽と防弾チョッキ着用が命令されました。」
自衛隊員 「戦闘服。」
自衛隊員 「A警備の要員はただちに指揮所に集合。」
宿営地にアナウンスされたA警備。
不測の事態に緊急で警戒に当たる態勢のことです。この夜、武装勢力が宿営地を攻撃するかもしれないという情報が、現地警察から寄せられていました。 自衛隊は、派遣された当初から武装勢力に狙われていたことが分かります。
そして、この1か月後。宿営地に向けて迫撃砲が撃ち込まれました。映像には、迫撃砲の着弾地点を探す隊員たちが映っていました。
自衛隊員 「ここです。」
自衛隊員 「間違いなく破裂してるね。」
着弾地点から数メートルにわたって、土地がえぐられていました。
自衛隊員 「おそらく82ミリ迫撃砲。」
迫撃砲は、各国の軍隊にも配備されている殺傷力の高い兵器です。
こうした迫撃砲やロケット弾による宿営地への攻撃は、13回に及びました。
イラク派遣10年 “非戦闘地域”の実相
自衛隊が派遣された非戦闘地域。こうした線引きをしたのは、憲法9条の下で海外での武力行使が禁止されているからです。そのために作られたイラク支援法。非戦闘地域への派遣であれば、他国の武力行使と一体化せず憲法に抵触しないとしたのです。
当時、陸上自衛隊のトップを務めていた先崎一さんです。
自衛隊の転機となった任務だったと振り返ります。
元統合幕僚長 先崎一さん
「政治的には非戦闘地域といわれていたが、対テロ戦が実際に行われている地域への派遣で、派遣部隊からみれば何が起こってもおかしくないと。
戦闘地域に臨むという気持ちを原点に置きながら、危機意識を共有して臨んだ。」
派遣から1年半後の訓練の映像です。
自衛隊員 「痛い! 痛い!」
自衛隊は路上に仕掛けられた爆弾で攻撃されたことを想定していました。
自衛隊員 「負傷者3名。 警戒処置等、取れない。」
イラクで、多国籍軍を狙ったテロが一向に収まらなかったからです。
自衛隊員 「搬送が終わった者については警戒に就け、警戒!」
人道復興支援の陰で、こうした訓練を繰り返さざるをえない状況が続いていました。訓練には、多国籍軍が参加していたことも分かりました。付近に展開する他国の軍隊と共に活動することが、日常化していたのです。
先崎さんは攻撃によって隊員が死亡した場合の対応まで、極秘に検討していたことを明かしました。
遺体をどのように運ぶのか、詳細に手順を検討。
国主催の葬儀も考えられていました。さらに宿営地に棺まで持ち込んでいたといいます。
元統合幕僚長 先崎一さん
「忘れもしないですね、先遣隊、業務支援隊が、約10個近く棺を準備して持っていって、クウェートとサマーワに置いて。隊員の目に触れないようにしておかないと、かえって逆効果にもなりますから、そこは分からないように、非常に気をつかいながら準備だけはしていた。自分が経験をした中では一番ハードルの高い、有事に近い体験をしたイラク派遣だったと思います。」
イラク派遣10年 極秘映像は語る
ゲスト宮下大輔記者(社会部)
●非戦闘地域への派遣 かなり際どい現場だった?
そうですね。
映像にもありました、多国籍軍との訓練の1か月ほど前には、実際に自衛隊の車両が市街地を移動中に、道路に仕掛けられた爆弾で攻撃を受けるという事態がありました。このときは、隊員にけがはありませんでしたが、車両に被害が出ました。もちろん宿営地の外での活動を控えれば、部隊の安全はより確保できたのかもしれませんが、外で復興支援活動をしなければ、逆に今度は住民の不満が爆発しかねないという状況にありました。
映像にありました訓練に参加していたのは、オーストラリア軍ですが、自衛隊が宿営地の外での活動を安全に行うためには、治安維持を任務とする多国籍軍と連携して対処する必要に迫られていたといえます。
イラク派遣10年 隊員たちの心にも…
イラクへ派遣された陸海空の自衛隊員は、5年間で延べ1万人。隊員の精神面にも大きな影響を与えていました。
NHKの調べで、このうち帰国後28人が、みずから命を絶っていたことが分かりました。
28人は、なぜ命を落としたのか。
イラク派遣から1か月後に自殺した20代の隊員の母親が、取材に応じました。
イラク派遣のときの土産と、迷彩服につけていた記章が飾られていました。
派遣中の任務は宿営地の警備でした。
「(息子が)『ジープの上で銃をかまえて、どこから何が飛んでくるかおっかなかった、恐かった、神経をつかった』って。夜は交代で警備をしていたようで、『交代しても寝れない状態だ』と言っていた。」
息子は帰国後自衛隊でカウンセリングを受けましたが、精神状態は安定しませんでした。
母親は、息子の言動の異変を心配していました。
20代の隊員を亡くした母 「(息子は)『おかしいんじゃ、カウンセリング』って。『命を大事にしろというよりも逆に聞こえる、自死しろ』と、『(自死)しろと言われているのと同じだ、そういう風に聞こえてきた』と言ってた。」
この数日後、息子は死を選びました。
自衛隊はイラク派遣の任務が隊員の精神面に与える影響を、当初から危惧していました。
これは現地に派遣された医師が、隊員の精神状態を分析した内部資料です。
宿営地にロケット弾が撃ち込まれた際の隊員の心境を、聞き取っていました。
20代 警備担当 “発射したと思われる場所はずいぶん近くに見えた。恐怖感を覚えた。”
30代 警備担当 “そこに誰かいるようだと言われ、緊張と恐怖が走った。”
中には、睡眠障害を訴える隊員もいました。
20代 警備担当 “比較的近い所に発射光が見えたので、敵がそばにいる気がして弾を込めようか悩んだ。今でもその光景が思い起こされて、寝つけない。”
この隊員は生死に関わる経験のあと精神が不安定になる、急性ストレス障害を発症していると診断されていました。
さらに内部資料には、派遣されたおよそ4,000人を対象に行った心理調査の記録もありました。
睡眠障害や不安など心の不調を訴えた隊員は、どの部隊も1割以上。
中には、3割を超える部隊もあったことが分かりました。
隊員の心に深刻な影響を与えたイラク派遣。
自衛隊に求められる役割が広がる中で、防衛省はさらなる対策を迫られています。
防衛省 メンタルヘルス企画官 藤井真さん
「これまでも任務がいろいろ拡大するにつれ、メンタルヘルスケアに力を入れてきたが、どうしても心の傷を受けるような活動もあるので、今後とも力をいれて対策を講じていきたい。」
イラク派遣後みずから命を絶った28人の隊員たち。
帰国後、精神の不調を訴え自殺した40代の隊員の妻が、取材に応じてくれました。夫を支えられなかったことを今も悔やんでいました。
40代の隊員を亡くした妻
「どうしたらいいかわからない。孤立した感じで、かなりつらかった。私は主人のことをサポートして、生きていてもらいたいと思って。」
妻は自衛隊の活動が広がろうとしている今、隊員が直面する現実をもっと知ってほしいと語っていました。
40代の隊員を亡くした妻
「(自殺した隊員は)1人、2人ではないです。亡くなった人数ではないですけど、亡くなった人数の何十倍の人が苦しんでいるわけで、マイナス面も含めて表に出していかないと、苦しいですね。」
イラク派遣 隊員たちに何が…
ゲスト五百旗頭真さん(前防衛大学校校長)
●イラク派遣後28人の隊員が自殺 重い事実だが?
宮下記者:はい、重たい事実だと思います。
ただ防衛省は、亡くなった28人の方がイラク派遣と直接因果関係があるかどうかについては、分からないとしています。
また派遣された多くの隊員は、現地での任務にやりがいを感じていたといいます。
ただVTRにもありましたように、派遣された隊員の1割から3割ほどの人たちが、精神に不調を訴えていたという事実は、今後の自衛隊の任務を考えるうえで、忘れてはいけないことだと思います。
また防衛省は派遣当初から、現地でカウンセリングを実施したり、帰国後も必要に応じて対応を取ってきましたが、こうした取り組みは今後も重要性を増しています。
●イラク派遣 校長として一番大変だったと思う点は?
五百旗頭さん:防大校長を5年8か月している間に、イラク派遣の陸自の隊長10人、代わる代わる出られた中で、そのうちの2人の人が、東大で防衛学の教官を務めてくれて、親しく、そういう人たちは、学生たちにとって、実際にそういうのを経てきたということを教えられる、尊敬のまなざしで見られる人たちですね。
あの中での非常に難しかったところというのは、今、見せられたように危険度の非常に高い、戦闘がいつでも起こりかねない、そういう事態の中で、日本の自衛隊が独自に人道復興支援、平和構築の仕事をやろうと、誰かを撃つんじゃなくて、社会の再建をやろうという、そういう仕事をやり抜いたということだと思うんですね。
●敵か味方か分からない状況の中、身の安全を守り地域の人の反感も避ける 難しいことだが?
五百旗頭さん:それは一つには、例えば訓練不十分な国の兵士ですとね、住民の中に変なやつがいる、銃を持ってる、それだけで撃ちかねないから、間違ってもそういうことをしないように、自衛隊の場合には、平時の10倍、100倍の射撃訓練をやったんですね。
本当のエキスパートになって、振り向いたらもう撃ち抜けるというほどね、熟達させて、その上で隊長がなんて言ったかというと、分かったなと、君たちはこれほどの腕なんだ、軽挙妄動しなくていい、慌てて撃つんじゃないと、しっかりと見極めたうえでね、任務を達成するんだというふうに言って、自信を持たせて、そしてやたら撃たないようにという指導教育をしてるんですね。
---(むしろ名手になることによって、恐怖を乗り越えられる心の余裕が生まれる?)
そうなんですね。
ちょっと変な銃を持っている人がいるぐらいでね、撃つ必要はないと。
よく見て、撃ったからって、当たるもんでもないというかどうかは知らないですが、そういう心の余裕を持って、そして、本当に最後の最後にならなければ発動しないというふうな訓練を十分していったということが大きいと思いますね。
●異文化の中、しかも社会に受け入れられながら活動するのは困難だったのでは?
五百旗頭さん:それが一番大事なところなんですね。
戦闘して相手を撃ち殺すというのではなくて、住民に支持される、受け入れられると、それができるかどうか、それを軍隊がやるというのは、普通と逆でしょ。
それをあえてしようとした。
しかし、日本の自衛隊はそれがわりとできるんですね。
東日本大震災で住民のために一生懸命やった自衛隊、それが外国へ行っても、同じような精神を持ってやるんですね。
それは防衛大学で幹部育成をやってますけれども、初めは理工系専攻しかなかったのが、3代の猪木正道校長のときに、国際関係論とか、人間文化とか、異質な社会への理解、複雑な国際関係への理解を指導、幹部自衛官を持たなきゃいけないというので、そういう専攻を入れたんですね。
その3代目の人が、初代の隊長になった番匠さんなんですね。
そういう教育がありますので、イラク社会というのは、どんなに違うのかということに関心を持って、その勉強していくんですね。
例えば600人行く中の100人は士官なんですが、その人たちは、たくさんある部族のいちいちにね、御用聞きに入るっていうんですかね、懇談して友達になる。
そして、宗教グループもいろいろある。
社会にいろんな層がある。
そのすべての所に入っていってね、了解を得る、一部だけをひいきにして、たくさん採用したら、反感が出る、できたらまちづくり協議会のような合意を皆さんで作ってほしいというようなことを自衛隊のほうから促すというふうなことをし、そして。
---(根回しのようなことも?)
そうですね、日本社会の中でやる。
そして異文化社会、理解ということを非常に重視しますので、例えば調べてみたら、イラクはああいう戦乱の中にあっても、子どもの健やかな成育っていうのを非常に大事にしている。
日本と一緒じゃないか、子ども第一。
それならば、こいのぼりを持っていって、ユーフラテス川で一緒にやろうというふうなね、そういう異文化社会、内在的理解に基づいて、住民との共感を作る。
この努力をしたもんですから、イラク派遣のたくさんの軍隊の中で、日本はどうして住民の人たちから、こんなふうに支持されてやれるのかというので注目されるようになったんですね。
そういう苦労、努力ということを見落とさないというのが非常に大事で、成功、結果だけを見ないで、こういうビデオを見て教訓を得てね、検証していくということが、非常に大事だと思います。
◎上記事の著作権は[NHK]に帰属します
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集団的自衛権を考える 「今」容認 国益損ねる
作家・佐藤優氏 2014年4月22日 中日新聞朝刊
私は集団的自衛権の行使そのものには賛成です。世界で軍事力の相互依存性が高まっているし、自衛隊はイラク戦争での米軍の後方支援などで実質的に行使したともいえる。憲法との整合性をはっきりさせておかないと、国際社会から「日本は何をするか分からない」と思われます。
でも、今踏み込むのは絶対にダメです。クリミア情勢をめぐって米ロの緊張がかつてなく高まっている。その中で、米国と密接なつながりがある日本が集団的自衛権の行使容認を表明すれば、国際社会に「日本はロシアと事を構えるのだな」と誤解されますよ。
尖閣諸島が問題化した3年前ならば「中国への牽制」だと受け止められるでしょうが、世界がいま注目しているのはクリミアです。ロシアからすれば日露戦争や旧日本軍のシベリア出兵の記憶を呼び覚ますことになり、北方領土周辺で日本漁船の拿捕や銃撃が頻発するのは目に見えています。
ロシアと戦いたい人なんて日本にはいないはずですが、安倍政権は無自覚で進んでいる。信条を優先して国益を損ねる事態は、靖国神社参拝で懲りたと思っていたのですが・・・。先日の国際司法裁判所での調査捕鯨の敗訴も、日本が「国際社会の共通認識を持っていなのでは」との疑義を持たれていると読むべきです。
今やるべきではないもう一つの理由は、安倍晋三首相が指名した小松一郎・内閣法制局長官の奇抜な言動です。憲法解釈をつかさどる重要な立場にいながら、野党の議員との怒鳴り合い騒動まで起した。海外メディアの特派員も注目しているので、いずれ世界に発信されてしまいますよ。
米ロが緊張し、議論を進める人にも問題がある状況下で解釈改憲に突き進むメリットが、私にはわからない。意味がわからないということは不気味ですよ。
◎上記事は「中日新聞4月22日付朝刊」より書き写し(来栖)
................
〈来栖の独白〉
世界(米ロ)がウクライナで緊張の今、集団的自衛権の行使容認はまずい、と私も考える。ただ、
>自衛隊はイラク戦争での米軍の後方支援などで実質的に行使したともいえる。
これは、どうか。実質的戦闘地域に派遣されながら、憲法に手足を縛られた自衛隊員の多くは矛盾と恐怖の中で精神に異状を来した、といわれている。集団的自衛権行使などできなかったのだ。帰国後、自殺した隊員もいた。彼らの苦悩は、察して余りある。
>小松一郎・内閣法制局長官の奇抜な言動
これまでの「法匪」に比べるなら、よほどマシである。
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◇ 実態知らない人たちの形而上学的反対…不思議の国日本の集団的自衛権 宮家邦彦のWorld Watch 2014-04-24
◇ 集団的自衛権で山本庸幸最高裁新判事「憲法解釈変更、難しい」 ← 「法匪」と呼ぶに相応しい 2013-08-20
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◇ 【憲法】 テロが「想定外」という欠陥/ ウソの文化=「議院内閣制」とは名ばかりで、実態は「官僚内閣制」 2012-09-07
【私と憲法】(3)ウソの文化と決別すべきだ 日本漢字能力検定協会理事長・高坂節三氏
産経ニュース2012.9.7 07:52
憲法について真剣に考え始めたのは経済同友会で憲法問題調査会委員長になってからだが、それ以前も商社にいたのでいろいろ思うことはあった。
その中で一番考えさせられたのは、イラン・イラク戦争でイラン国内に取り残された在留邦人をトルコ航空が救出してくれた昭和60年の事件だ。日本からは自衛隊機も民間機も「危険だから」と来なかった。海外邦人を守ってくれないことについて、日本の安全保障への疑問は多々あった。われわれは一生懸命、外貨を稼ぎ資源を持ってくるけれど、一朝事があっても国が何もしないのはどうなのかと。
かつて商社は戦争でもうかるなどといわれたが実のところ、戦争は明らかに商売上もマイナスだ。経済界としても平和は大事と考えているが、世界平和を求めなければいけない。一国平和主義では結局、日本の平和も守れないのが現実で、日本も力の体系を無視するわけにはいかないはずだ。
いったい、世界に冠たる経済大国にまでなった日本が自国民すら守れない、海外に派遣された自衛隊員も他国の軍隊に守られて活動するということでいいのか。集団的自衛権についても「持っているけど使えない」などというのは明らかな論理矛盾だ。最高裁ではなく、内閣法制局がその判断をしているのもおかしい。最高裁は「政治がからむ高度な問題は司法判断になじまない」として“職場放棄”している。また、最高裁が衆院の一票の格差は違憲状態だと判断しても、国会がいつまでたっても是正しない。この国はどうなっているのか、と思わざるをえない。
学校の先生はウソをつくなと教えているが「持っているが使えない」というウソを国として教えているわけだ。子供の教育上も非常によくない。われわれはこうした精神の腐敗をもたらすウソの文化から決別すべきだろう。
【プロフィル】高坂節三 こうさか・せつぞう
京都府生まれ。京都大卒。伊藤忠常務、栗田工業会長、東京都教育委員などを歴任。経済同友会で憲法問題調査会の委員長を務めた。平成23年から現職。兄は政治学者の故高坂正堯氏。著書に「経済人からみた日本国憲法」など。76歳。
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■ 『賢者の戦略』〈手嶋龍一×佐藤優〉新潮新書 2014年12月20日発行 第4章 集団的自衛権が抱えるトラウマ
『賢者の戦略 生き残るためのインテリジェンス』手嶋龍一×佐藤優 新潮新書 2014年12月20日発行
p169~
第4章 集団的自衛権が抱えるトラウマ
安倍総理と岸家の「深い傷」
手嶋 安倍晋三総理の強い意向を受けて、日本の安全保障論議の中心テーマだった集団的自衛権の行使が戦後初めて国家の現実的な選択肢となりました。集団的自衛権とは、日本と密接な関係にある外国が武力攻撃を受けた場合、日本は直接攻撃を受けていないにもかかわらず武力を使って攻撃を阻止する権利をいいます。(略)
p170~
2014年の7月1日、安倍内閣は、こうした従来の憲法解釈を変えて、集団的自衛権の行使は可能だという見解を閣議で決定しました。これでいよいよ日本は戦争に突き進むと心配する人もいて、安倍内閣の支持率に一時陰りが生じました。安倍総理をここまで集団的自衛権の行使に突き動かしたものは何だったとみていますか。
佐藤 「二つのトラウマ」が重なり合って起きた現象だと思います。
一つ目は、総理の祖父・岸信介という政治家が抱えていたトラウマです。1960年の新「日米安全保障条約」で十分な双務性を担保できなかったという無念の思いがあるんだと思います。安倍総理もそのトラウマをそっくり引き継いでいる。
手嶋 いま「双務性」というキーワードが出ましたが、詳しい内容に立ち入る前に、まず日米安保体制にまつわる「双務性の政治学」について簡潔に触れておきましょう。
p171~
岸信介という政治家は、日米開戦時の東条内閣の商工大臣であり、戦前は満州国を舞台にした革新官僚でもありました。戦後はA級戦犯容疑で巣鴨プリズンに収監されます。獄中にいたにもかかわらず、国際情勢が次第に本格的な米ソ冷戦へと移り始めていることを察知したのでしょう。アメリカの占領当局ともしたたかに渡り合って、左翼勢力が台頭するなかで保守政治家の存在価値を巧みに説いて巣鴨から解き放たれます。戦前の経歴をみれば当然ながら岸信介は反米ナショナリストであったわけです。日本がアメリカの占領下から独立すると政界に復帰し、瞬く間に総理の座に駆けあがります。
ところが、サンフランシスコ平和条約の締結と同時に結ばれた旧「日米安保条約」は、日本の各地に米軍基地を提供する義務を日本に負わせながら、アメリカには日本を防衛する条約上の義務を課していない一種の不平等条約でした。岸信介はこれに強い不満を抱き、日本が真正の独立国になったうえは、日米安保条約も双務的であるべきだと考えたのです。そして国内の反対を押し切り、アメリカ側が果して改定に応じるか定かでないなか、政治的リスクを冒して安保改定に着手したのです。豪胆な政治決断です。
日本側による在日米軍基地の提供とアメリカ側による対日防衛義務の約束。これは双務性のいわば「フェーズⅠ」です。岸信介という保守政治家は、日本が再軍備を果たして (p172~)真の国家主権を取り戻し、アメリカ軍と共に東側陣営に対抗する西側同盟の一翼を担う双務性の「フェーズⅡ」まで視野に入れていたのでしょう。その政治姿勢は筋が通っていました。
佐藤 手嶋さんのおっしゃる通りだと思います。しかし、当時はまだ日本国内にはパシフィズム(絶対平和主義)の空気が色濃く、手嶋さんが指摘した双務性の「フェーズⅡ」は実現できなかった。日米がより対等な双務性へと進む道は遠かった。岸信介の政治信条からすると、新安保条約は不本意なものだったんです。本当に望んだ条約じゃないという思いが残ったんですね。しかも、アメリカ側に対日防衛義務の明記を呑ませたのに対米追従という批判を浴び、国会や首相官邸が連日デモ隊に囲まれ、混乱の中で死傷者まで出し、退陣に追い込まれてしまった。岸、安倍家には深いトラウマが刻まれてしまったはずです。これが一つ目のトラウマです。
そうした無念の思いが安倍総理の「戦後レジュームからの脱却」というテーゼに表れています。そんな安倍総理に何かの機会を捉えて、集団的自衛権の行使に踏み出すことこそ、真の意味での日米の対等性、手嶋さんのいう双務性の「フェーズⅡ」を実現する象徴的なテーマだと囁いた悪い奴らがいたんですよ、きっと。
p173~
手嶋 第1次安倍内閣で挫折を味わっている安倍総理としては、衆参の選挙に大勝したいまこそ、その時と思ったのでしょう。
佐藤 「いま集団的自衛権の見直しに着手しておけば、小さく生んで大きく育てることができますよ」と意見具申をした奴らがいたと私は見ています。「集団的自衛権」という言葉さえ入れておけば、やがてそこに言霊が宿る―そんな“言霊信仰”に憑りつかれたんです。
湾岸戦争の「敗北」
手嶋 それでは二つ目のトラウマはなんだったのでしょう。
佐藤 私の古巣になりますが、いま安倍内閣を支えている外務省の連中が抱えるトラウマです。1991年の湾岸戦争という突然の嵐に見舞われて日本外交は無惨な姿をさらけ出しました。外務官僚がこの時受けたトラウマはいまだに癒えていないんですよ。わが心の傷を安倍総理の傷にすり替えた悪知恵の働く奴がいたはずです。あの時、外務官僚が受けた衝撃は、まさに手嶋さんご自身がノンフィクションとして『1991年 日本の敗北』で (p174~)怜悧な記録を残されていますよね。のちに題を改めて『外交敗戦―130億ドルは砂に消えた』となって新潮文庫に収録され、いまも外交官の必読書です。まさしく130億ドルが白紙小切手として多国籍軍に拠出され、誰からも感謝されなかった。むしろ顰蹙すら買ってしまった。こういった事態は、二度と繰り返したくないと思ったんですよ。だから安倍さんが集団的自衛権を言い始めたこの機会を外務官僚は千載一遇のチャンスと捉えたということでしょう。
手嶋 湾岸戦争で日本が蒙った惨めな敗北は忘れられてはなりません。しかし、あの敗戦訓を引いて、いまの集団的自衛権の見直し論議に援用するのは賛成しかねます。
p178~
「あてはめ」という魔術
手嶋 湾岸戦争で多国籍軍への参加を求められた日本政府は、何とか自衛隊を海外に派遣できないかと急きょ検討を重ねました。(略)しかし、内閣法制局は、従来の国会答弁の積み重ねを持ち出し、「否」と頑として首を縦に振りませんでした。
佐藤 外務官僚にとっては、ひどい負け戦でしたから、皆この時の議論をよく覚えています。だから、第二次安倍内閣が出現したことを絶好の機会と捉え、何とか内閣法制局を押し切って硬直した現状を変えられないかと思案を巡らせたんですよ。その結果、集団的自衛権、個別的自衛権と区別して論じることをこの際やめにして、基本的に自衛権は一つと捉えてみてはどうだろうと考えた。安全保障の概念をポスト冷戦の時代にふさわしいものに組み直し、地球の裏側までも自衛隊が行けるようにしたいと。
手嶋 そのためには、内閣法制局を包囲し、制圧しなければならなかった。そこで安倍総理が断行した最重要の人事が、内閣法制局長官の更迭です。後任には小松一郎氏を充てることだったのです。前著の『知の武装』でもこの人事が持つ意味を詳しく解説しましたが、ここで簡潔におさらいしておきましょう。小松一郎氏は外務省の国際法局長や駐仏大使を歴任した、いわば条約官僚の代表格のひとりです。第一次安倍内閣では首相の私的諮問機関、いわゆる安保法制懇の事務局を率いました。そして集団的自衛権の行使に道を拓くべく動いて、安倍総理の篤い信任を受けた人物です。法制局の長官は内部からというのが不文律でしたから、この人事は霞が関を驚かせました。これによって内閣法制局長官の座を追われた旧通産省出身の官僚には、外務省OB枠の最高裁判事のポストを譲るなどして周到な布石が打たれました。
(略)
p180~
手嶋 鋭いなあ、官僚の内在論理に通じていなければ、その機微は見えてこないんです。ひとことでいえば、小松長官は「別にあなた方が間違ったわけじゃない」と言いくるめることで、難所を乗り切り、辞職を封じてしまったということです。
p181~
佐藤 従来あなた方が国会で答弁してきた見解は誤りでした――内閣法制局としては、こう言われる事態だけは断じて避けたい。そこで、小松長官は、「いや、あなた方が答弁してきたことは別に間違いじゃなかった。ただ、日本を取り巻く環境、客観情勢がすっかり様変わりしてしまったのですから、ここは個別的自衛権、あちらは集団的自衛権と言ってきたこれまでの見解を整理してみましょう」と言葉巧みに説得したという訳です。
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