遠藤 周作『死について考える』 あの人の百倍も強烈なのが私にとってイエスかもしれないと思うことがあります

2020-01-19 | 本/演劇…など

死について考える (光文社文庫)  遠藤 周作

p152~

 自殺という死

 死がむこうからやってくるのではなくて、自らえらぶ死、即ち自殺という死もあります。
 カトリックは自殺を認めないとよく言われます。私の考えでは、それはキリスト教が一番大事にする「愛」が自殺に欠けているからだろうと思います。人生は苦しく醜い。しかし苦しく醜いからそれを棄てるのは、ちょうど、うちの女房がデブで婆あになったから棄てるのと同じじゃありませんか。美しく魅力あるものを大事にするのは愛じゃありません。苦しく、醜いものでも大事に守りつづけよというのがキリスト教のいう「愛」の(p153~)ひとつの考えだ、と私は思っています。
 人生は苦しいし、醜い。苦しいから捨てる、醜いから捨てるというのなら、イエスだって十字架で何もあんなに苦しまなくてもよかったじゃないか、キリストの人生だって決して楽しいものじゃなかった、それを途中で放棄しなかった、最後まで十字架を背負って苦しんだ、我々も最後までイエスのように苦しんでも、人生を棄てない、というのがカトリックが自殺を認めない根拠なのです。
 しかし、あのナチスの拷問がフランスのレジスタンスに対して行われた時、お前の同士の名前を言え、と拷問にかけられた人たちが、これ以上拷問にかけられると口を割りそうになったため、自殺をしたというケースはたくさんあります。その時カトリック教会は何も言いませんでした。(中略)
p155~
 自殺について何か言う時に、私にはどうしてもふれないわけにはいかない先輩がいるのです。それは原民喜という先輩です。ご存じない方もあるかもしれませんが、原さんは数は少ないけれど質の高い詩を書いた詩人であり、『夏の花』という傑作を書いた小説家ではあるけれども、流行した作家ではありませんでした。広島市の人で、原爆にあっています。昭和26年3月13日に自殺したのですが、私の青春時代の最も感じやすい3年間、(p156~)毎日といってもいいほど会っていた18歳も歳上の先輩ですが、極めて純粋な人でした。その死は、純粋のせいばかりではなく、世の中を渡るのに不器用だったし、弱さのせいだったかもしれませんが、私の心に強烈な印象を残し、今でもそれが薄れません。(略)
 私のカトリック的観点では、自殺は人生に愛情がないからだといえますが、私は原さんの場合はあれはあれでいいのだと思っています。なぜなら、彼にはこの世は奥様の待っておられる次の世界に行く仮の住処だったのですから。
 私たちはいろんな人と出会いますが、心に何の痕跡もなく過ぎ去って行く人もあります。原さんという人は私だけでなく、周りの多くの人に強烈な痕跡を残して行きました。あの人の百倍も強烈なのが私にとってイエスかもしれないと思うことがあります。(~p157)
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〈来栖の独白 2020.1.19 Sun〉
 このエントリを書こうと思ったのは、「自殺」がテーマだったからではない。原民喜氏は私にも記憶があるが、そのためでもない。
 末尾のセンテンスの故だ。
>あの人の百倍も強烈なのが私にとってイエスかもしれないと思うことがあります。
 何十年も前に遠藤さんの作品は大方読んだつもりだったが、なぜかこのところ引っ張り出して読むと、「え、こんなこと、書いてあったか」と思うことが多い。とりわけ、イエスに関しての遠藤氏の研究はすごい。人生のほとんどをイエス研究に費やしたのではないか、と思うほどだ。「イエスは、なぜ、キリストとなったのか」「弱虫で『イエスなど知らぬ』と言い、逃げた使徒たちは、なぜ殉教をも辞さぬ強者となったのか」・・・遠藤氏の作品を読まないではいられない。
 遠藤氏が唐突にぽろっと漏らしたかと思われる上記のことば≪あの人の百倍も強烈なのが私にとってイエスかもしれないと思うことがあります。≫ やっぱりな、と思う。そうでなくて、あれほどの作品が書けるわけがない。
 このところの私の頭の中に大きく在るのも、イエスだ。イエスのことを、考えないではいられない。
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遠藤周作著『人生の踏み絵』 … 一応、自殺は禁じられています… 2019.12.12

  
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遠藤周作『キリストの誕生』 現実のなかで無力であり・・・それなのに彼は弱虫たちを信念の使徒に変え、人々からキリストと呼ばれるようになった

 

 p226~  (前半略)
 ガリラヤで育ち、エルサレム城外で殺された、手脚のほそい男。犬のように無力で、犬のように殺されながら、息を引きとるまでただ愛だけに生きた男。彼は生前、現実のなかで無力であり、ただ愛だけを話し、愛だけに生き、愛の神の存在を証明しようとしただけである。そして春の陽ざし強いゴルゴダの丘で死んだ。それなのに彼は弱虫たちを信念の使徒に変え、人々からキリストと呼ばれるようになった。キリストと呼ばれるようになっただけでなく、人間の永遠の同伴者と変わっていったのである。「世の果まで私はお前たちと苦しむだろう」(パスカル『イエスの秘儀』)。それは人間がいかなる思想を持とうと、実はその魂の奥では変わらざる同伴者をひそかに求めているからである。「我なくんば・・・」とパスカルはある夜、祈りつつそのイエスの声を聞いた。「我をもとめることなし」
 人間がもし現代人のように、孤独を弄ばず、孤独を楽しむ演技をしなければ、正直、率直におのれの内面と向き合うならば、その心は必ず、ある存在を求めているのだ。愛に絶望した人間は愛を裏切らぬ存在を求め、自分の悲しみを理解してくれることに望みを失ったものは、真の理解者を心の何処かで探しているのだ。それは感傷でも甘えでもなく、他者にたいする人間の条件なのである。
p227~
 だから人間が続くかぎり、永遠の同伴者が求められる。人間の歴史が続くかぎり、人間は必ず、そのような存在を探し続ける。その切ない願いにイエスは生前もその死後も応えてきたのだ。キリスト教者はその歴史のなかで多くの罪を犯したし、キリスト教会も時には過ちに陥ったが、イエスがそれらキリスト教者、キリスト教会を超えて人間に求められ続けたのはそのためなのだ。

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『イエスの生涯』 弱虫だった弟子は何故、殉教をも辞さぬ強い信念と信仰の持ち主になったのか

 
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遠藤周作著『私にとって神とは』---聖書はイエスの生涯をありのまま、忠実に書いているわけではない---原始キリスト教団(書き手)によって素材を変容させ創作した

  
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