心ある多くの人に感謝しながら、私は堂々と胸を張って、鈴木宗男の道を歩いていく

2010-09-09 | 政治/検察/裁判/小沢一郎/メディア

ムネオ日記
2010年9月9日(木) 鈴 木 宗 男
 昨日の今日であるが、事務所には昨日から今日にかけて何十人もの代議士、参議院議員が来てくれる。仲間は有難いものである。また、FAX、激励の電話が沢山くる。
 8年前の逮捕の時は、事務所のFAXは止まらず、電話も非難、中傷で鳴り止まなかったそうだ。世の中冷静になり、今は流れは変わったと実感する。
 「検察と最後まで闘いましょう」、「裁判所が本当に公平、公正に機能しているか、国民がしっかりチェックする目を持つことが大事です」、「今回の件で裁判所不信になりました」、「正直に生きていれば、必ず神様が見ています。一度ならず、二度も奇跡を呼び起こしたムネオさんです。必ずこの先三度目の奇跡を起こしましょう」等々、有難いメッセージを戴く。
 心ある多くの人に感謝しながら、私は堂々と胸を張って、鈴木宗男の道を歩いていく。
 「生きていれば良いことがある」、「生きていれば逆転もある」、「命まで取られることはない」と自分に言い聞かせ、「今に見ていろ」の裂帛(れっぱく)の気合いを持って生きていく。
 民主党代表選挙、今日の札幌での街頭演説会は、1万人もの人が集まったそうだ。「小沢さんに対する拍手が圧倒的に多く、横綱相撲だった」という連絡が入る。
 北の大地・北海道から、小沢さんの流れが出てくることだろう。昨年の総選挙でも、「北海道からチェンジ!」を果たしたのだから。
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〈来栖の独白〉
 ムネオ日記は、禁無断転載である。それを破ることを、まず鈴木氏にお許し願いたい。
 「判決の訂正申立⇒決定」といった流れの後、ひと月足らずで収監されるのだろうか。許しがたい判検一体の暴挙だ。怒りに胸が波立ってならない。
 ムネオ氏の義憤、苦しみに顧慮せず、次のお願いをすることをお許しください。
 「収監されたのちも、どうかご家族経由でムネオ日記を続けて戴きたい。司法が失った正義を、どうかムネオ氏の日記にによって燈し続けて戴きたい」。
 悔しくてならない。これで小沢一郎さんまで負けるなら、私は到底、尋常な気持ちではいられない。

なぜ最高裁はこのタイミングで鈴木宗男衆議院議員 の上告を棄却したか?
鈴木宗男議員上告棄却/小沢一郎氏/石川知裕議員/安田好弘弁護士


4 コメント

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Unknown (rice_shower)
2010-09-10 07:58:43
中国語で、身正不怕影子斜(歪)という言い回しが有ります。 正しい行いをしているなら、地面に映った影が曲がっても(他人がとやかく言っても)恐れることはない、という意味ですが、宗男さんは逮捕から今に至るまで、正に裂帛の気合でこれを実践され、その意気、覚悟、矜持は、この国の(どうも多数ではない気配の.....)真っ当な精神を有する人々の心に確実に届いています。
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Unknown (ゆうこ)
2010-09-10 15:27:42
rice_showerさん。
 すてきなコメント、有難うございます。
>身正不怕影子斜(歪)
 なるほど。
>他人がとやかく言っても
 ここんところが、人目を気にして人目のために生きてるみたいな日本人の人生観と大きく隔たるところでしょうか。「禊」とか言って、済ませちゃう。
 キリスト教圏では、(人目は誤魔化せても)神の目は誤魔化せない、という風土があると思います。キルケゴールなんかの「たった独りで、神の前に立てるか?」というような。
 宗男さんが不憫でならず、心が萎えてしまっています。でも、彼は強靭ですね。
 邪悪な最高政治裁判所です。
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Unknown (rice_shower)
2010-09-10 17:55:54
『犀の角のようにただ独り歩め』(スッタニパータ)より、
「音に驚かない獅子のように、網にとらえられない風のように、水に汚されない蓮のように、犀の角のようにただ独り歩め」
「貪ることなく、詐ることなく、渇望することなく、覆うことなく、濁りと迷妄とを除き去り、全世界において妄執のないものとなって、犀の角のようにただ独り歩め」

俗世における、ありとあらゆる執着を超越することにより、悟りの境地に至ろうとする無神論であるブッダの思想で、私のような煩悩どっぷりの人間には、なかなか理解し難いのですが、“犀の角のようにただ独り歩む”人こそがレスペクトすべき存在なのだろう、ということは何となく分かるような気がします。 
ただ、政治家はこれじゃぁ駄目だと思いますが。(犀の角のようにただ独り歩む人こそがレスペクトすべき存在、などと思っていない人達が多数派であると感じられるので、少なくともこの国では)
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Unknown (ゆうこ)
2010-09-11 12:18:57
rice_showerさん。
 心静まるコメント、ほんとうにありがとう。
>『犀の角のようにただ独り歩め』(スッタニパータ)
 随分まえに読んだ瀬戸内寂聴さんの本に、次のようなコンテクストがありました。釈迦とアーナンダとのやりとりです。

“「アーナンダよ。何を悲しんでいる。私はもう八十歳になった。すっかり老いぼれてしまい、身体はがたがたで、ぼろ車のようになってしまった。使えないほど傷んだ車の部分を皮革でつなぎ止めて、やっと動かしているような状態だ。アーナンダよ、背中が痛い。撫でておくれ」
 アーナンダは心細さのあまり、「今後、世尊に取り残された私は、どうして生きていったらいいのでしょう」とたずねた。
 世尊の答えは、「自己と法とを灯明とし、依りどころとして、他のものに頼るな」と教えている。この言葉は「犀の角のようにただ独り歩め」(スッタニパータ)、「自分こそ自分の主である」(法句経)という言葉と並び、釈尊の究極の思想を示している。”

 群れたり、「師」と呼ばれたりすることを嫌ったのは釈迦だけではなく、イエス・キリストも、そうでした。人は、つい、人(不完全な偶像)を師と仰ぎ絶対視して、ついてゆこうとする。それを強く戒められたのです。人間は「絶対」ではないよ、と。(オウム真理教団の過ちも、松本智津夫を尊師と仰いだことに所以するかもしれません、と私は思っています)
 「自己と法とを灯明とし、依りどころとして、他のものに頼るな」、これは厳しい言葉ですが、私は、大好きな言葉なのです。好きでなりません。その言葉は、「犀の角のようにただ独り歩め」に、続きます。厳しいムネオさんの人生をも連想させます。
 ところで、話は全く別なのですが、田中良紹さんの面白いコラムがありましたので、エントリしました。
http://blog.goo.ne.jp/kanayame_47/e/2c5a861be0fc6e69ff265b5ef5271137
 民主主義は数である。国民の一票が大事な制度だからである。それをおろそかにする思想から民主主義は生まれない。政策を決めるにも一票が足りずに否決される事を考えれば、数がどれほど大事かが分かる。それに加えてアメリカでは「カネ」が重視される。「カネ」を集める能力のない人間は政治家になれない。
 菅陣営にはそういうことを理解する人が少ないようだ。この前の国会でも「オバマ大統領は個人献金でヒモ付きでないから、金融規制法案も提案できるし、核廃絶を言う事も出来る。企業の献金を貰っていたらそうはならない」と発言した民主党議員がいて、菅総理がそれに同調していた。
 とんでもない大嘘である。オバマに対する個人献金は全体の四分の一程度で、ほとんどはウォール街の金融機関からの企業献金である。企業から献金を受ければ政治家は企業の利益のためにしか働かないというのは下衆の考えで、献金を受けても政策はそれと関係なく実行するのが政治家である。核削減も平和のためと言うより米ロの交渉に中国を加えたいのがオバマの真意だと私は思うが、とにかく献金を受けるのが悪で貰わないのが善という驚くほど幼稚な議論をこの国は続けている。
 政治家が幼稚であれば官僚には好都合である。
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