「妻はうつ病、娘は自殺」元農水次官に懲役8年求刑 わが子を数十回刺し続けた“エリート父”の思い 週刊文春 2019/6/13号

2019-12-14 | 身体・生命犯 社会

 「妻はうつ病、娘は自殺」元農水次官に懲役8年求刑 わが子を数十回刺し続けた“エリート父”の思い
 「週刊文春」編集部  2019/12/14
source : 週刊文春 2019年6月13日号 
genre : ニュース, 社会

 元農水次官の熊沢英昭被告が長男を殺害した罪に問われている事件の裁判で、検察側は懲役8年を求刑した。弁護側の主張や妻の証言によれば、熊沢被告は、長男の家庭内暴力だけでなく、妻のうつ病や娘の自殺など複数の深刻な問題を抱えていたという。法廷で「本当に殺されると思いました」と語った熊沢被告、そして一家の実像を報じた「週刊文春」2019年6月13日号の記事を再公開する。なお、記事中の年齢や日付、肩書き等は掲載時のまま。

 44年間育てた我が子を数十回も刺し続けた時、父の胸に去来したのは恐怖か、悔恨か、それとも、4日前に起きた惨劇の二の舞を防いだ安堵だったか。その時、母は何を思ったか――。“華麗なる一族”の長男が率いた一家が血の海に呑まれるまでを総力取材で描く。

  農林水産省の元事務次官・熊沢英昭(76)の実妹は、みずからを納得させるように頷き、固く唇を噛んだ。
「兄は武士ですよ。追い詰められて、誰かに危害を加えてはいけないから最後は親の責任で(長男の殺害を)決めたのでしょう。それは親にしかできないことです」
 そして兄の苦悩の日々をこう代弁するのだ。
「私たち兄妹の仲は本当に良くて、お母さんと英一郎くんがうまくいっていないのは知っていました。でも、兄は私たちに詳しい話はしませんでした。兄はお母さんと英一郎くんの仲を取り持とうと、一番近くで頑張っていたんです。『母と一緒に暮らすとうまくいかない』といって、実家を離れさせていても、兄は英一郎くんと食事に出かけたり、電話をしたり、本当に気にかけていた。それが、先日の川崎の事件をみて、結局こういうことになってしまった。本当に武士ですよね……」
“修羅の家”で一体何が起きていたのか――。

「子供らをぶっ殺すぞ!」
 6月1日、東京・練馬の区立小学校は、児童たちの歓声で沸いていた。校庭に隣接する一軒家で怒号が響いたのは、同日午後。
「運動会の音がうるせえ。子供らをぶっ殺すぞ!」
 一家の大黒柱である英昭は、1階のパソコン機材に囲まれた“要塞”で寝そべる無職の長男・英一郎氏(44)を厳しくたしなめた。同時に、常日頃から「殺すぞ」と連呼する英一郎氏の姿に、ある事件の容疑者を重ね合わせていた。
 遡ること4日前の5月28日。無職・岩崎隆一(51)が川崎市の路上で私立カリタス小学校の児童ら20人を殺傷し、自殺を遂げた。英昭の中で、十数年にわたって引きこもり生活を続けた末に惨劇を起こした岩崎と、目の前の息子の姿がダブって見えた。
 午後3時40分。英昭は台所にあった刃渡り約20センチの洋包丁を握ると、凶行に及んだ。
「英一郎氏の胸部に包丁を突き刺したのです。倒れた後も執拗に刺し続け、直後、『息子を殺した』と110番通報。練馬署員が駆けつけると、英一郎氏が血の海の中で仰向けに倒れていた。病院搬送後、死亡が確認されたのは約1時間後の午後4時47分。司法解剖の結果、死因は首を深く切られたことによる失血死でした」(社会部記者)
 英一郎氏に刻まれた数十カ所の傷は、英昭が抱いた“家庭内モンスター”への恐怖心を如実に表していた。
〈もう殺すしかない〉
 自宅からは英昭の苦悩を綴った走り書きが見つかった。英一郎氏は事件の6日前に激しく暴れ、英昭は妻に「今度暴力を受けた時は危害を加える」とほのめかしていたという。

近所の皆が目標とする“華麗なる一族”
 英昭は1943年、岐阜県可児市で生まれた。父は歯学博士。53年3月に一家は上京し、父は台東区に歯科クリニックを開設。たびたび専門誌「歯科学報」に論文を寄稿し、地元の名医として知られるようになった。熊沢家と関係の深い知人が証言する。
「英昭さんは長男で、下に弟が1人、妹が3人います。近所で評判のお宅で『熊沢さん一家のようになりたい』と皆が目標にしていたくらい。当時、英昭さんは剣道をやっていましたね。上野警察署に週1~2回通い、全然手を抜かず一生懸命やっていた。二段くらいは取得したんじゃないか」
 熊沢家は、“華麗なる一族”だった。英昭は都立上野高校を卒業後、東大法学部に進学。67年に卒業すると、旧農林省に入った。二男は同じ東大の附属病院に勤めた。
「長女は千葉大を卒業後、千葉県内の大病院に嫁ぎました。双子の二女と三女は東大教育学部付属中、同高を経て、上智大学大学院を修了。2人とも医療関係者の夫を持っています。
 熊沢家は昔から本当に仲が良かった。年末年始になると、『新宿ワシントンホテル』などで新年会や忘年会をやるのですが近所の友人も呼ばれるのです。英昭さんのお母さんは昔気質の人で(英昭が)農水省に入ったとき『袖の下なんて絶対に受け取ったら駄目よ! 全部返しなさい』と教えていました」(英昭の知人)
 英昭は旧農林省に入省後、東京・国分寺市の小さな賃貸住宅に居を構えた。その頃、お見合いで出会ったのが、後に妻となる3歳年下の女性だった。英昭と同期入省の農水省OBが語る。
「熊さんは同期の中でも結婚が遅いほうだったんだ。私たちの世代は同期が結婚すると、必ず結婚式で自作の歌を披露する慣習があった。熊さんは小唄と作詞が趣味だったから毎回作詞を担当し、アマチュア交響楽団の指揮者をやっていた同期の一人が作曲を担当していた。熊さんの結婚式では自ら作詞し、それに曲をつけて合唱しました」
 結婚式に参加した別の農水省OBが語る。
「結婚式の最中、仲人が奥さんを『彼女は学生時代、日本の古代史を研究していました』と紹介していました。当時、女性でそこまでする人はいなかったので『相当インテリなんだな』という印象を持ちました」
 結婚を誰より喜んだのは、長男である英昭を手塩にかけて育てた両親だった。

人を射るような強い眼差し
「英昭さんのお母さんが近所に贈答品として風呂敷を配っていました」(当時の実家の近隣住民)
 子宝に恵まれたのは、75年3月のこと。英昭は「英」の文字をとり、長男を「英一郎」と名付けた。78年3月、英昭は3歳になったばかりの英一郎氏を連れ、アメリカに渡った。
「熊さんはケンブリッジ大学に2年間留学した経験があり、英語が堪能。その能力を買われ、在米日本大使館一等書記官としてアメリカで約3年を過ごすことになったのです。でも、現地では『お前のはブリティッシュイングリッシュだと馬鹿にされた』と嘆いていた」(前出・同期入省のOB)
 帰国後、英一郎氏が小学校に入学すると同時に一家で移り住んだのは、新宿区にある国家公務員官舎だった。当時、同じ官舎に住んでいた元農水官僚は、廊下を笑顔で走り回る英一郎氏の無邪気な姿を幾度となく目撃したという。9歳下の妹が生まれて間もなく、英一郎氏は名門中学を狙って受験勉強に励むようになる。
「とにかく奥さんが教育熱心だった。官舎中で『熊沢氏の奥さんは教育ママだ』と話題になるくらいだった」(当時を知る元官僚)
 87年、英一郎氏は偏差値70を優に超え、東大合格者を多数輩出する都内随一の中高一貫校、駒場東邦中学に合格。だが、
「ニュースを見た時、『やっぱり……』と思った」
 そう打ち明けるのは、在学中の英一郎氏をよく知る同校の元教師である。
「彼が在学中から父親がキャリア組のお役人だということはもちろん知っていました。担任と親御さんは一年に一度必ず保護者面談を行うのですが、彼の場合はお母さんでした。お父さんは学校の面談にはあまり参加されていなかった。面談時、お母さんが『英一郎が暴れる』と担任に相談したのです。『母に暴力を振るっている』という話が記憶の中で強い残像になっています。たしかに、普段彼が話すときの様子を見ていると、暴力性を秘めていた。人を射るような強い眼差しをしていました」
 当時、英一郎氏は肩までかかる長髪を輪ゴムでくくっていたという。友達は一人もおらず、部活動にも所属していなかったようだ。この頃からすでにゲームにはまっていた。
「イジメや、身体を壊したこともあったと担任からは聞いていた。学業的には芳しい成績ではなかった。お父様が華々しい経歴の持ち主ですから、彼としては肩身の狭い思いをしていたと思います。彼にとっては父の存在そのものがプレッシャーになっていたんじゃないか。うちの学校でも何年かに一人、大学に行かない子供がいるのですが、彼はその一人でした」(同前)
 この頃のことを英一郎氏はツイッターで〈18歳で統合失調症〉〈私はイジメられ続けた所為で統合失調症になったからなぁ(略)何とか復讐したい〉などと綴っている。

省内にも漏れ伝わっていた家庭の“異変”
 農水省の同僚たちが熊沢家の“異変”に気付いたのは93年、まさに英一郎氏が18歳の頃のこと。当時、英昭は国際部長の要職に就き、多角的貿易の促進を目的とした通商交渉「ウルグアイ・ラウンド」が大詰めを迎えていた。英昭は8カ月間で13回の海外渡航をこなし、帰国すれば土日でも深夜まで交渉を続ける多忙な生活を送っていた。
「その頃、省内で『熊さんは、どうやら家庭に問題があるようだ』と聞きました。なんでも『息子が引きこもっている』と。省内では『その辺のことは聞かないほうがいい』と腫れ物に触るような雰囲気になっていました」(農水省関係者)
 ちょうど英一郎氏の同級生の多くが、春から大学生活を謳歌している時期だった。前出の元教師が語る。
「一つ記憶しているのは卒業後、『代々木アニメーション学院に通っています』と報告に来たこと。浪人している子については連絡をとって進路を把握するようにしているのですが、彼は自分から報告に来ました」
 高校卒業後、アニメの世界から紆余曲折を経て、2001年、英一郎氏は流通経済大学大学院の修士課程を修了したことが分かっている。修士論文のタイトルは〈shade(3DのCGを作るためのソフト)を用いた3DモデリングによるWebコンテンツの作成〉。

英昭の人生にも重大な局面が
 英一郎氏が大学院に通っていた頃、父の人生も重大な局面を迎えていた。01年1月、農水省トップの事務次官に就任したのだ。
「農水省では出世の条件で『三白』という言葉がある。3つの白とは、米・砂糖・牛乳のこと。このいずれかの担当経験が次官に出世する条件という意味です。熊沢さんは88年に砂糖類課長を経験している“有資格者”でした」(前出・農水省関係者)
 英昭が次官として仕えた小泉政権の幹部の一人は「彼は農水族のうるさ型議員にもペコペコしないし、言うべきことは言う男。20年に一人の農水省の逸材だった」と太鼓判を押すが、当時「AERA」記者として取材していた長谷川煕氏は異を唱える。
「熊沢氏は01年1月からの1年間、事務次官を務めていますが、任期中の同年9月に日本で初めてBSEが確認されました。事務次官として責任があるのはもちろんですが、実はそれだけではない。95年7月から97年1月まで彼が畜産局長だったときに、BSEを引き起こしたと見られる肉骨粉飼料の規制について対応に手抜かりがあったのです。次官当時もEUが日本をBSE発生危険国の一つにする措置を取ろうとした際、農水省が危険性を否定、ほどなくその危惧が現実になったことで日本は国際的な信用を失いました」

 
 01年BSE問題で会見する熊沢被告   01年BSE問題で会見する熊沢被告

 英昭に対して「引責辞任」を求める声があがったが、結局02年まで丸1年間次官を務めた。当時農水相だった武部勤氏が国会で「(引責辞任ではなく)定期の異動だ」と答えたとおり、規定の退職金、8874万円を満額もらって退官している。

 英昭に用意された驚くべきポスト
 98年に新築した、事件現場となった自宅は延べ床面積115平米の2階建て。5000万円の抵当権が設定されたが、退官直後に完済している。その後の英昭について前出の農水省関係者が解説する。
「本来、農水次官ともなれば、天下り先は日本中央競馬会(JRA)、農林中央金庫理事長、農林漁業金融公庫総裁の3つのどこかが用意されるものです。ところが、熊沢氏はBSE問題の戦犯という負い目もあって、そうしたポストにはつけなかった。退官直後、日本食肉協議会の非常勤嘱託となったことも国会で追及され2週間で辞任しています。その後、農協共済総合研究所の理事長や、全国米穀取引・価格形成センターの会長という“軽量級”のポストを渡り歩きました」
 だが、退官から約3年後、失意の英昭に驚くべきポストが用意された。
「チェコ大使に任命されたのです。『次官まで務めたのにあまりに可哀そう』という背景があり、英語もできたので、農水次官から初の大使に就任した」(同前)
 妻と一緒に約3年半をチェコで過ごした英昭は、08年10月に帰国。当時の懐事情について全国紙記者が解説する。
「就任したチェコ大使の年収は2000万円は下らない。さらに退職金も7000~8000万円は出ますから、大使時代だけで1億3000万円以上はもらっているでしょう。農水省時代の退職金やその後の2つの天下り先と合わせれば軽く2億円は超えます」
 裕福な親の存在もあってか、大学院修了後、英一郎氏は定職に就くことなくアニメやネットゲームの世界に傾斜していった。

ゲーム仲間も「協調性の無い問題児」と証言
 英一郎氏は11年7月、「ドラクエ10ステラ神DQX」と題したツイッターアカウントを取得。オンラインゲーム「ドラゴンクエストⅩ」の愛好者たちと交流を持つようになった。また同時期、「神崎弘海」というペンネームでホームページを作成。プロフィール欄には「元社会復帰指導員」「パン職人(パン製造技能士二級)」と記す。14年夏に催されたコミックマーケットに参加し、繊細なタッチで描かれたメカの画集「聖殻の神殿」を出展。ネットゲームとアニメの世界に益々没入していく。ゲームで英一郎氏と知り合った女性が証言する。
「彼と『ドラクエ』を通じて知り合ったのは昨年2月。自己評価が高く、ゲームに依存している印象でした。『自分は特別な存在なんだ』と繰り返していました。自分の職業は『不動産の管理人』と自称していましたが、実際には平日昼間にログインしていたし、働いている形跡はなかった」
 ある時には、英一郎氏から次のようなダイレクトメッセージが届いたという。
〈私の本名や家族を知ったら驚きますよ〉
 別のゲーム仲間も、「父親自慢をされた際に『凄いのはオヤジであってお前じゃねえだろ』と返すとキレられた。協調性の無い問題児だった」と証言する。

英一郎氏にとって父親は自慢の種だった
 事件前の約10年間、英一郎氏は実家ではなく、都内の別の場所で一人暮らしを続けていたが、ゴミ出しなどを巡り、近隣住民とトラブルが絶えなかった。昨年5月には〈323,729円 これが今月の私のクレカの支払額だ。君達の両親が必死で働いて稼ぐ給料より多いんだよ〉とツイッターに書き込んでいるが、こうしたゲーム代や生活費もすべて親持ちだった。英昭はしばしば息子の様子を見に行っていたようだ。
 コミックマーケットを通じ、10年間にわたって交流があったという男性が打ち明ける。
「私は04~05年頃、同人誌を作っていたのですが、英一郎氏にコミックマーケットで作品を購入してもらったことがきっかけで彼と知り合った。その後、都内で開催された同人誌の即売会で会うたびに談笑するといった交流を続けてきました。当時、彼は『(アニメなどの)専門学校を中退した』と話していた。また、一時期パン職人をやっていたそうで、彼が作ったというシュトーレン(ドイツ発祥の菓子パン)をもらったこともあります。女性関係については『かつては彼女がいた。今はいないが童貞ではない』と。彼は好きなものには妄信的で、そうでないものは蛇蝎(だかつ)の如く嫌う性格。特に母親への憎悪は根深いと感じました」
 次官まで務めた父親は自慢の種だったようだ。
「12年頃のある日、彼がコミケに年配の男を連れてきたことがあった。彼はその人を指して『父です』と紹介してきました」(同前)
 確かに英一郎氏は、ツイッターで〈庶民が、私の父と直接会話なんて、1億年早いわ〉と綴ったり、BSE騒動のことを示唆しているのか、〈(父は)流石と思った。かつて、現実世界の炎上を静かにした経験あるからな〉と綴っている。

〈死ぬ最期の1秒まで責任を〉
 一方で、母のことは「愚母」と呼び、〈私が勉強を頑張ったのは愚母に玩具を壊されたくなかったからだ〉〈中2の時、初めて愚母を殴り倒した時の快感は今でも覚えている〉〈殺人許可証とかもらったら真っ先に愚母を殺すな〉と書き込んでいる。
 父を自慢することで自らの虚栄心を満たす一方で、教育熱心だった母に、学歴社会で思うような道を歩めなかった責任をなすりつけているようにも見える。
 そして昨年、100歳を超えた英昭の母が逝去。母の介護という重しが取れた英昭のもとに、英一郎氏から「家に戻りたい」と電話があり、事件の10日ほど前から実家に舞い戻っていた。
 逮捕後、英昭は警視庁の調べに、こう供述しているという。
「川崎の事件が頭をよぎり、周囲に迷惑が掛かると思った。怒りの矛先が子どもに向いてはいけない」
 だが捜査関係者の話からは違う可能性も見え隠れする。その焦点は母親だ。
「母親は刺殺現場にはいなかった。犯行後、父親は外出中の母親に『戻ってくるな』と連絡している。母親が父親の殺意をどこまで知っていたのか、2人の間に暗黙の了解があったのか、などはこれからだ」
 かつて英一郎氏はツイッターにこうも綴っていた。
〈何が産んでくれた? 勝手に親の都合で産んだんだから死ぬ最期の1秒まで子供に責任を持てと言いたいんだ私は〉
 6月3日、送検のため練馬署を出てきた英昭の表情は、“責任”を果たした安堵に満ちているようにも見えたが、いかなる理由があろうと、我が子を殺めた罪が消えるわけでもない。

    ◎上記事は[文春オンライン]からの転載・引用です
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元農水次官が“息子殺し”という地獄に至る「修羅の18カ月」 週刊文春 2019/6/20号
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川崎市登戸殺傷事件 「教会も学園も、わたしに属さない」とイエスは言っておられる…〈来栖の独白2019.5.30〉

 
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