川崎市登戸殺傷事件 「教会も学園も、わたしに属さない」とイエスは言っておられる…〈来栖の独白2019.5.30〉

2019-05-30 | 身体・生命犯 社会

  画像; カリタス学園のスクールバス用のバス停。事件では、同校に通う小学6年の女子児童(11)と、別の児童の保護者である外務省職員の男性(39)が亡くなった。

川崎市登戸殺傷事件、日本カトリック学校連合会事務局長「関係者に心を重ね祈る」
 2019年5月29日21時14分
 川崎市多摩区登戸(のぼりと)新町で28日朝、包丁を持った男が、スクールバスを待つ私立カリタス小学校の児童や保護者らを次々と刺し、2人が死亡、17人が重軽傷を負った。現場は登戸駅から近く、通勤や通学で人通りの多い朝の時間帯に起こった突然の惨事に、大きな衝撃が広がった。

 カリタス小学校は、カトリックのケベック・カリタス修道女会(カナダ)が設立したカリタス学園が運営する学校で、女子児童を中心に約650人が在籍している。同校など全国805のカトリック学校が加盟する日本カトリック学校連合会の品田典子事務局長は事件を受け、「言葉にできないほどの悲しみと衝撃だった」と語った。
 品田氏は「この世界には、人間の力では防ぎようのない不条理な出来事が確かに起こるのだということを、あらためて痛感させられた」と言い、「今も『神の沈黙』の前にぼうぜんと立ち尽くされている関係者の皆様に心を重ね、祈りをささげるとともに、当連合会としても今後何かできることがあれば対応したい」と続けた。

 事件は28日午前7時45分ごろ、登戸新町の登戸第一公園近くで発生した。公園の前には、道路を挟んでカリタス学園のスクールバス用のバス停があり、バスに乗り込もうとしていた児童らを、両手に刃渡り30センチの柳刃包丁を持った男が次々と襲った。男は、川崎市麻生区に住む岩崎隆一容疑者(51)で、犯行直後に現場近くで首を切り自殺した。所持していたリュックの中からは、別の包丁2本も見つかった。
 カリタス小学校が同日夕に開いた記者会見での説明によると、岩崎容疑者は大きな声を発することなく、終始無言で児童らを襲ったという。そのため児童らは、襲われる直前まで岩崎容疑者の存在に気付かなかったとみられる。警察の調べによると、岩崎容疑者はわずか十数秒の間に19人を刺し自殺したという。

 品田氏は事件発生当初、怒りのやり場がないまま困惑していたというが、記者会見を見て「学校の責任者たちが深い悲しみのうちにも、この不条理な出来事を静かに、必死に受け止めている姿が印象的だった」という。また「共に苦しみを担おうとしている保護者の姿や、多くの人たちが夜遅くまで献花に訪れている様子を見て、日本中が悲しみ、祈っていると感じた」と語った。

 元毎日新聞記者でジャーナリストの佐々木宏人氏(カトリック荻窪教会会員)は、「カリタスというのは、『愛』を意味するラテン語の言葉。そのような名前を付けた学校の子どもたちに、それと真逆のことが起き、本当に大きなショック」と語った。
 「このような常軌を逸した事件は、日本でも火山が噴火するごとく、時として突然起こる。しかし、どのように防げばよいのか。防ぎようがないように感じる。ちょうどドナルド・トランプ大統領の来日中に発生したこともあり、米国であれば、包丁を振り回すのではなく銃の乱射となり、もっと多くの犠牲者が出たのではないかとも想像した」
 記者会見の内容を見る限り、佐々木氏は学校側に落ち度はなかったと考えている。「学校の先生方も非常にショックだったと思う。カリタスという名前を付けているだけに、これから児童にどのように話していくのかが気になる。特に影響を受けやすい年代であるため、難しいだろうが、何とかケアをしてあげてほしい」と語った。  また、事件に対しては「絶対に赦(ゆる)せない」という声を聞くが、カトリック信徒としては「犯人に対する赦しをどのように考えていけばよいのか、今後の報道を見ながら、落ち着いて考えていきたいと思う」と語った。

 関連タグ:カリタス学園日本カトリック学校連合会佐々木宏人

    ◎上記事は[CHRISTIAN  TODAY]からの転載・引用です
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 〈来栖の独白 2019.5.30 Thu〉
 「日本カトリック正義と平和協議会」、本事件に関し、何ら福音的な見解を世に示しえていない。
 上皇后・皇后ともにカトリック校のご出身であり、かくの如く、日本カトリック教会は、確固たる名誉(評価)を築いてきた。「栄光」(名誉)とは、この世のものであり、イエスの福音・十字架とは次元を画す。イエスに背を向け、この世の栄光を手にした「教会」。…「教会も学園も、わたしのものではない(わたしに属さない)」とイエスは言っておられる、そのように私には思われる。
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* 凄惨な川崎登戸殺傷事件から私たちは何を考えるべきなのだろうか 篠田博之 2019/6/2


 *『カラマーゾフの兄弟』 Fyodor Mihaylovich Dostoevskiy 訳者.米川正夫 河出書房新社 世界文学全集19

 誠に実(まこと)に爾曹(なんじら)に告げん、   一粒の麦 もし地に落ちて死なずば唯(ただ)一つにてあらん。   もし死なば多くの実を結ぶべし(ヨハネ伝第12章24節) 

p332~
  問題は山ほどあるけれど、ぼくはただ子供だけを例にとった。そのわけは、ぼくの言わなければならないことが、明瞭にその中に現れているからだ。いいかい、すべての人間が苦しまねばならないのは、苦痛をもって永久の調和をあがなうためだとしても、なんのために子供がそこへ引き合いに出されるのだ、お願いだから聞かしてくれないか?
 なんのために子供までが苦しまなけりゃならないのか、どういうわけで子供までが苦痛をもって調和をあがなわなけりゃならないのか、さっぱりわからないじゃないか!
p333~
  しかし、ぼくはそのとき『主よ』と叫びたくないよ。まだ時日のある間に、ぼくは急いで自分自身を防衛する、したがって、神聖なる調和は平にご辞退申すのだ。なぜって、そんな調和はね、あの臭い牢屋の中で小さなこぶしを固め、われとわが胸をたたきながら『神ちゃま』と祈った哀れな女の子の一滴の涙にすら価しないからだ!
 なぜ価しないか、それはこの涙が永久に、あがなわれることなく棄てられたからだ。この涙は必ずあがなわれなくちゃならない。でなければ調和などというものがあるはずはない。しかし、なんで、何をもってそれをあがなおうというのだ?
 それはそもそもできることだろうか?
 それとも、暴虐者に復讐をしてあがなうべきだろうか?
 しかし、われわれに復讐なぞ必要はない。暴虐者のための地獄なぞ必要はない。すでに罪なき者が苦しめられてしまったあとで、地獄なぞがなんの助けになるものか!
 それに、地獄のあるところに調和のあろうはずがない。ぼくはゆるしたいのだ、抱擁したいのだ。決して人間がこれ以上苦しむことを欲しない。もし子供の苦悶が、真理のあがないに必要なだけの苦悶の定量を満たすのに必要だというなら、ぼくは前からきっぱり断言しておく、---いっさいの真理もこれだけの代償に価しない。そんな価を払うくらいなら、母親がわが子を犬に引き裂かした暴君と抱擁しなくたってかまわない!
 母親だってその暴君をゆるす権利はないのだ!
 もしたって望むなら、自分だけの分をゆるすがいい、自分の母親としての無量の苦痛をゆるしてやるがいい、しかし、八つ裂きにせられたわが子の苦痛は、決してゆるす権利を持っていない。たとえわが子がゆるすと言っても、その暴君をゆるすわけにはゆかない! もしそうとすれば、もしみんながゆるす権利を持っていないとすれば、いったいどこに調和がありうるんだ?
 いったいこの世界に、ゆるすという権利を持った人がいるだろうか?
 ぼくは調和なぞほしくない、つまり、人類にたいする愛のためにほしくないと言うのだ。ぼくはむしろあがなわれざる苦悶をもって終始したい。たとえばぼくの考えがまちがっていても、あがなわれざる苦悶と、いやされざる不満の境にとどまるのを潔しとする。
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