<松本サリン事件から15年>河野義行さんの長男 仁志さん、15歳で事件直面  裁判員制度には疑問(毎日新聞2009/6/25)

2009-06-25 | オウム真理教事件

<松本サリン15年>河野義行さんの長男、15歳で事件直面
(毎日新聞 - 2009/06月25日 02:43)
 長野県松本市で8人が死亡、約600人が重軽症となった「松本サリン事件」から、27日で15年を迎える。被害者で第一通報者の河野義行さん(59)の長男仁志さん(30)が毎日新聞のインタビューに応じ「加害者に怒りの心を持つことは自然なことなのに、その感情がわいてこない。自分でも解釈不能だ」と心境を語った。今、裁判員制度や事件報道の検証を通じ、少しずつ自らの心に向き合い始めている。【渡辺諒、竹内良和】
*心に鍵、怒りわかず……
 94年6月27日午後11時9分、義行さんからの119番が事件の第一報だった。オウム真理教によるサリンの噴霧だったが、義行さんは警察やメディアから犯人視された。
 仁志さんは当時15歳。サリン中毒で病院に運ばれる義行さんから「後は頼む」と言われて握手し、家族を背負う覚悟をしたという。当時、とにかく疑いを晴らそうと「平然と対応していたが、どこかで心に鍵を掛けて自分を守っていたかもしれない」と振り返る。
 大学卒業後、東京で会社員になったが、母澄子さんは意識が戻らないまま08年8月に60歳で死去。かつて家族5人が暮らした家は、父1人になった。09年4月、母の供養と面影を求めて実家に戻り、現在は新たな仕事を探している。
 義行さんは澄子さんが亡くなった当時「松本サリン事件は私の中で終わった」と語った。しかし、仁志さんは「(事件を)風化させる必要はない。冤罪(えんざい)を生んだ構造、(事件直後から支えとなった)永田恒治弁護士の活動や一部ジャーナリストの誠意ある対応、市民の活動など社会に問うべきことはまだたくさんある」と、今後も検証を続けるという。
 事件の経験も踏まえ、5月に始まった裁判員制度には疑問を投げかける。メディアの犯人視報道で偏った世論を、同じメディアによって中和せざるをえなかった当時を振り返り「弁護側やメディアが自由に発言する権利すら狭められる点は危険だ」と考えるからだ。
 仁志さんは27日、松本市内で「松本サリン事件と裁判員制度」をテーマに講演する。
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松本 サリン15年…オウム元信者、河野さんへの償い
(読売新聞 - 2009/06月24日 14:55)
 1994年6月に長野県松本市で発生したオウム真理教による松本サリン事件は、27日で15年を迎える。
 第1通報者、河野義行さん(59)の妻澄子さんも昨年8月、意識の戻らぬまま60歳で他界した。
 遺族や元信者が抱える言い尽くせない思い。あの蒸し暑かった晩から、それぞれの年月が流れた。
 「家族を守りながら疑惑と闘った最初の1年はとてつもなく長く、妻の介護を続けたその後の13年はあっという間に過ぎ去った。3人の子供は当時中高生。ほったらかしにしてきたが、成長した姿を見ると、月日の流れを感じる」
 河野さんは15年をこう振り返る。
 今年5月30日、山口市の会社員藤永孝三さん(48)は、山口県萩市の海岸で、河野さんと並んで釣り糸を垂れていた。講演で広島県を訪れた河野さんが寄ってくれたのだった。
 藤永さんは、元オウム真理教「科学技術省次官」。松本サリン事件では、村井秀夫元幹部の指示で、サリンの噴霧器を製造した。
 拘置中に河野さんの著書「妻よ!」を読み、たまらなくなった。殺人ほう助罪などで懲役10年の判決を受けたが、「自分の刑期など、失われた命の前では比較にならない」と思った。
 2006年6月、刑期を終えて、河野さんを訪ねた。目を合わせられず、ひたすら頭を下げた。河野さんは「あなたも運が悪かったねぇ」と声をかけてくれた。
 以来、月1度くらい、河野さん宅を訪れ、刑期中に覚えた剪定(せんてい)の腕をふるう。泊めてもらい、酒を酌み交わすこともある。
 ほかの遺族や被害者を忘れたわけではないが、謝罪など具体的な行動には移せないでいる。「これでいいとは思わないが、今の自分にできることは、河野さんを通じてすべての被害者に謝罪すること。自己満足かもしれないが……」と、苦しそうに語る。
*犠牲の信州大生、姉と妹は医師に
 仏壇の前で声に出さず般若心経を唱える。阿部和義さん(66)(千葉県習志野市)の朝の日課だ。
 事件前日、信州大経済学部2年で、週末に習志野市に帰省していた長男裕太さん(当時19歳)は、外出する両親を玄関で見送った。「珍しいこともあるもんだと思った。『さよなら』って言ってくれた」。それが最後になった。
 28日朝、和義さんが松本署に駆けつけると、裕太さんは高校時代にレスリングで鍛えた大柄な体を縮め、窮屈そうにひつぎに横たわっていた。
 報道によって河野さんの関与を信じた時もあった。オウム真理教の犯行とわかると、真実を知るために、4遺族で教団と松本智津夫死刑囚らを相手取り、損害賠償請求訴訟を起こした。
 大学で法律を学んでいた長女は卒業後、医学部に再入学。中学生だった次女も医師の道を選んだ。「口には出さないが、2人とも裕太のことが頭にあったからだろう」と、和義さんは思う。
 家族4人が顔をそろえても、裕太さんの話をすることはない。「何を話したって裕太は戻ってこない。お互いの心の痛みを戻すようなことはしない方がいいと、みんな思っている」       
 *松本サリン事件=1994年6月27日深夜、長野県松本市の住宅街で、オウム真理教信者が神経ガス「サリン」を噴霧。学生や単身者向けのマンション、社員寮などで計8人が犠牲となった。重軽症者は約600人。河野義行さんを巡る県警の捜査や報道も問題となった。元教団幹部ら14人が起訴され、松本智津夫死刑囚(54)ら7人が死刑判決を受けた。
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<消えない狂気の記憶>オウム真理教事件(1)松本サリン事件~(5)カルトに潜む危険意識 中日新聞
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