皇孫生誕の一日、Sr.Rを思った。 /  瀬戸内寂聴さんの『釈迦』

2006-09-06 | 日録

 本日は何ヶ月振りかで、HP「読書note」の更新準備をした。瀬戸内寂聴さんの『釈迦』である。

 折りしも、朝から秋篠宮さんの第3子誕生の報道があった。カトリック問題委員会のSr.Rさんを終日思った。人間の平等、世に光のもたらされることを願って活動しておられる。

 ところで、以前、天皇さんの誕生日の記者会見でだったか、「最も幸せだったことは?」と記者から尋ねられ、次のような答えをなさっていた。「皇后と結婚したことです」。私は、胸が痛く熱くなった。大の男が「幸せは?」と訊かれて「結婚」と答えたのだ。こんなに切ない、いじらしい、哀れな男が他にいるだろうか。人並みの家庭の安息、親からの細やかな愛(手触り)を知らずに育った人が、唯一求めて得られた最高の幸せが、「結婚」だった。皇太子といい、天皇という、究極の公人。非人間的拘束を強いられる苛酷な生涯。

 言いたいことも言えず(発言、表現の自由が無く)、行きたいところへも行けず、思考の自由すら、制限される。これでは、異状を呈さないほうが不思議である。雅子妃殿下の病気も、故あることで、お気の毒だ。

 天皇職(?)というこの苛酷は、女性には耐えられないだろう。皇室典範改正の動きが活発だった頃、皇太子さんが私の目には不憫に映った。当事者本人でもなく家族でもない者が、まだいたいけない子の将来を論議する。親(皇太子さん)は、それに対し、口を挟むことすら許されていない。

 天皇制の持つ非人間性。その天皇制の底辺に、Sr.Rの活動されているの問題がある。今日ほどSr.Rを思った日は、なかった。

 人が生きること(この世)は、苦しいものだ。私はこれを「人間存在の悲しみ」と表現してきた。http://www.k4.dion.ne.jp/~yuko-k/kiyotaka/unknown7miyazaki.htm 本日『釈迦』を書き写しながら、その悲しみの先に光があることも、心に覚えることができた。更新は先になりそうだけれど、少し、文脈を転記してみる。ウッパラヴァンナーという女性は、最初の夫を母親に寝取られ、再婚した夫を今度は娘に奪われた。出家するが、非業の死を遂げる。以下である。

 お前の運命は、この世の苦のすべてを受け入れてきた。ウッパラヴァンナーよ、よく堪えた。こうして生きているわれわれ人間の存在そのものが苦なのだということを、お前は身をもって味わい尽くしてきたのだ。多く愛した者ほど苦しみの深さも大きい。そのかわり多く苦しんだ者ほど聖なるものの愛を受けることが大きい」
 ウッパラヴァンナーは、はっとした表情で、涙に濡れた顔をあげた。
 母と夫の醜い姿、娘と自分の不幸な結婚、二度までも、母が娘と同じ夫を分けもたねばならなかった屈辱と痛恨。それらはすべて、世尊が今説かれた人間の存在そのものが苦だということばの中に含まれている。


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