滋賀・呼吸器事件 再審決定
2017年7月9日 中日新聞 朝刊
西山美香受刑者の手紙2(1)初動捜査 井本拓志(大津支局)
「私は殺ろしていません」(原文のまま)。両親に無実を訴え続ける元看護助手の西山美香受刑者(37)=滋賀県彦根市出身、殺人罪で懲役十二年、来月二十三日に刑期満了、再審請求中=が自ら「うその自白」をした背景に軽度知的障害と発達障害があったことを、私たちは突き止め、五月当欄で伝えた。見過ごされた彼女の特性と同時に、患者の「自然死」の可能性を無視した「事件ありき」の捜査も見逃せない。2部では“筋書き”優先の捜査を検証する。
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裁判記録によると、二〇〇三年五月二十二日未明、滋賀県湖東町(現東近江市)の湖東記念病院で、巡回中のS看護師が人工呼吸器を付けた患者の容体が急変しているのに気づいて「あっ」と声をあげた。別の患者のおむつを替えていた看護助手の西山受刑者がすぐに行くと、S看護師から「(呼吸器の)アラーム、鳴ってなかったよね」と聞かれ「鳴ってなかった」と答えた。この場面がすべての始まりだった。
呼吸器は、痰(たん)詰まりや不具合による空気の漏れがあると気圧差を感知し「ピーッ」と鳴る。だが、目覚まし時計並みの音を「聞いた」という証言は得られなかった。確定判決も「鳴らなかった」とされた。しかし、警察は当初から「鳴った」と決めつけ、供述を得ようと躍起になった。その時点で、「居眠りしてアラームを聞き逃した」S看護師が処置を怠ったために死亡した、と決めつけていたからだ。強引な取り調べの様子が病院の資料に残る。
◆威嚇し供述求める
「Sに対し『アラームは鳴っていた』との供述をするよう、また西山に対しても『Sから鳴っていなかったことにするよう働き掛けをうけた』との供述をするよう、不当な威嚇と執拗(しつよう)な強要がなされた」。尋問の厳しさに耐えかねたS看護師は、いったんは「鳴った」と供述してしまう。調書の署名だけは拒んだが、「心的外傷後ストレス症候群(PTSD)によって今なお精神科医師によるカウンセリングを受けている」(病院資料)とある。
西山受刑者も聴取後、「不可解な身体反応を示して歩行不能になるとともに、ベッド上で『Sさんが危ない』『警察に私がいかなくては』などのうわ言をくり返す」(同)。S看護師の立件にまい進する県警の捜査員たち。指揮する警部が病院幹部に伝えた“事件”の見立てが同じ資料に残る。
「この事件は勤務中にもかかわらず仮眠をとり、アラームが鳴っていることに気付かなかったSが、自らの責任を回避するため西山、(同僚看護師の)Mに圧力をかけて仕組んだ創作劇である」「(捜査の基本方針は)『眠っていたS』の犯罪性を明らかにすることにある」
最初から「過失があった」という前提を譲らず、確定判決で無実と認定されたS看護師を心の病に追い込んだ捜査は、批判されても仕方がない。病院側は「看護師や看護助手に自白を強いてつじつまをあわせる類いの前時代的な捜査方法」(同)と怒りもあらわに反論。抗議文が警察に提出された。
見込み捜査は暴走を続け、捜査本部に加わった三十代(当時)のA刑事が患者死亡の約一年後、ついに西山受刑者に「アラームは鳴った」と言わせた。こわもてと優しい顔を使い分ける巧みな尋問に、彼女は「この人なら信用できると思い/気にいるようなことを言ったりしてしまいました」(獄中手記)。だが、うそがS看護師を追い詰めることになり、彼女は苦しんだ。
「呼吸器のアラームは実は鳴ってはいませんでした」(供述の約一カ月後、A刑事に書いた手紙から)
◆「殺した」と口走る
警察署に手紙を届けても聞き入れられず、つじつまを合わせるため「呼吸器の管を外した」と言い、うつ状態になり、パニックに陥り「殺した」と口走った。
S看護師の逮捕を目指した捜査方針が変われば、アラーム音も必要ではなくなり、西山受刑者の証言も「鳴っていなかった」に戻された。これに合わせるように、入院患者の付き添い家族らの「鳴っていません」「聞いていません」という供述調書が、“事件”発生から一年以上たって作られた。新たなストーリーは、資格のない看護助手が看護師との待遇格差に不満を抱き、病院を困らせるために行った計画殺人。軽度知的障害を伴う発達障害で「パニックになりやすい」西山受刑者が、冷静沈着に実行できるとは、とても思えない、緻密で複雑な計画だった。
「鳴らなかった」ことと「殺人」を両立させるには、そのシナリオしかなかったからではないのか。筋書き優先の前時代的な捜査手法が冤罪(えんざい)を生んだ-。私たちはそう疑っている。
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2017年7月16日 朝刊
西山美香受刑者の手紙2(2)計画殺人 井本拓志(大津支局)
人工呼吸器を付けた患者を、アラーム音を鳴らさずにチューブを外し、窒息死させる-。そんな手口があるとは、恐らく医師や看護師でもすぐには思い付かないだろう。なのに、捜査当局は、資格もない雑務が中心の二十三歳看護助手が、自供なくしてわかり得なかった「完全犯罪」を単独でやってのけた、と主張し、裁判所も追認した。
西山美香受刑者(37)=滋賀県彦根市出身、殺人罪で懲役十二年、来月二十三日に刑期満了、再審請求中=に軽度知的障害と発達障害があることを誰も知らなかった当時でさえ、弁護側は誘導で言わされた作り話と反論した。ましてや、彼女の障害が判明した今、緻密で冷静さが要求される「完全犯罪」を自作自演した、と主張され、信じろと言われても、無理な話というものだ。
◆1人だけ機能知る?
冒頭の手口のヒントがある。消音ボタンを押すとアラームが「一分間やむ」機能を利用するのだ。病院内で「一分間」を知る看護師はいなかった。だが、彼女が心を寄せたA刑事作成の供述調書によると、看護助手の彼女だけが、知っていたことになっている。
手口の答えはこうだ。呼吸器の管を外した後、音が鳴る前に素早く消音ボタンを押し、再び鳴りだす一分が経過する前にまたボタンを押す。それを西山受刑者は二回繰り返し、再び管を元通りにはめたことになっている。
だが、この機能を警察が把握していなかった逮捕直後、彼女の供述は「衝動的な犯行」になっていた。
【逮捕2日目】「以前から、今回のような事故を起こそうと思っていたわけではなく/夜勤で一緒だった(看護師の)Sさんが勤務時間中も寝ているように思えたので/人工呼吸器の蛇腹(管)を外せば/アラームが鳴ればSさんも起きて飛んでくると思ったのです」(供述調書)
衝動的に管を外せば「ピーッ」という高音のアラームが鳴る。だが、聞いた人はいない。一年にわたって「鳴ったはず」で進めた強引な捜査は、ここで方針を大転換し、供述も急転していった。
【同5日目】「本当はアラームなんて鳴っていません。Sさんや他の患者さんに気付かれないように、消音ボタンを押し続けていた」(同)
同じ日、警察は人工呼吸器の実況見分で、消音ボタンの機能を正確に把握。だが、機器の特性を利用した複雑な手順の手口を「衝動的な犯行」とするのはあまりにも不自然だった。供述は次第に「計画的な犯行」へとかじを切り始め、その上で「一分間」が盛り込まれていった。
【同6日目】「病院に対する不満から、かねてTさん(死亡した患者)の人工呼吸器のチューブを外して事故に見せかけて殺そうと思っていた/チューブを引っ張り上げて外し、消音ボタンを押し続けてTさんが死亡するのを待った」「消音ボタンを一回押せば、一分間アラームが消え、そのたびに消音ボタンを押した」(同)
◆衝撃的“告白”加わる
「計画性」を決定づける衝撃的な“告白”が供述に加わった。
【同9日目】「(犯行の二日前に)患者のXのベッド柵を外して事故に見せかけて(殺そう)としたが、考え直して止(や)め、(犯行の前日に)患者のYを殺そうと考えて首に手を掛けたが、思い止(とど)まり」(自供書)
【同10日目】「Zさんの時も掛(かけ)布団で口をおさえつけたら、せきこまれたので/だめだと思い/もうするならTさんしかいないと」(同)
この段階で、彼女は四人の殺害を企てたことになる。しかし、A刑事に誘導されたとみられる作り話だからか、殺人未遂が立件されることはなかった。供述までの経緯を、彼女は両親宛ての手紙にこう書いた。
「何回も(A刑事に)前の日にTさんを殺ろ(原文のまま)すまでに何かあるのではと聞かれて/初めは何もありませんと言っていたけど、しつこく聞いてきて/Aさんのこと信用してたから(気に入られるような)嘘(うそ)をついて『前の日に殺ろそう』と思ったと言ってしまいました」
実は、アラームの消音機能を悪用した手口でも完全に音を消すことは不可能だった。「最初のピッという音くらいは鳴る」と呼吸器に詳しい同じ病院の技師が証言したからだ。「ピッ」も最終的には、供述に付け加えられた。
【同15日目】「アラームが『ピッ』と鳴ったので左手で消音ボタンを押し…」
矛盾をなくして、完全犯罪はこうして成立した。警察が当初にもくろんだ架空の業務上過失致死事件に比べれば、緻密なストーリーという見方もできるだろう。だが、その主役に障害のある彼女を据えたのは、稚拙なミスキャストというほかない。
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2017年7月23日 朝刊
西山美香受刑者の手紙2(3)迎合性 井本拓志(大津支局)
既に報じたとおり、この事件は軽度知的障害のある看護助手(資格不要)が、本人の“自白”がなければ誰も知ることができなかった「完全犯罪」を単独でやってのけた、という“ありそうにない”話である。
それが成り立つためには、捜査側が供述を意のままにできる、という条件が必須だった。
今年三月、西山美香受刑者(37)=滋賀県彦根市出身、殺人罪で懲役十二年、来月二十三日に刑期満了、再審請求中=から大津支局の取材班に届いた手紙の一文に、私たちは目を奪われた。
「今となったらA刑事はなんのためにこんなことをしたのか分からないので直接聞きたいことです」
◆面会で刑事が誘導
西山受刑者はA刑事に好意を寄せ、それが盲目的な信頼に変わっていった。「こんなこと」とは、A刑事に書かされたという「検事さんへ」という上申書(二〇〇四年九月)。逮捕後の勾留中、上申書を書かされた経緯を、両親に宛てた手紙でこう説明している。
「面会にAさんが来てくれて 今まで通り認めていたら大丈夫やから心配しないでいいと言われて 弁護士さんには殺ろ(原文のまま)していないと言っていると言うと 検事さんあてに『私が否認をしても それは 私の本当の気持ちじゃなく弁護士さんに言われました』と紙に書けと言われ書いてしまいました」(〇六年二月)
事件が急転するきっかけになった「アラームは鳴っていた」の供述。その後、供述が変わるたびに、ほぼ同じ趣旨の自供書も書かされた。調書と自供書を合わせ、九十四通にも及ぶ異常な状態だった。
西山受刑者の「誘導のされやすさ」は裁判でも争われた。弁護側は「彼女の迎合しやすさを分かっていて誘導した」と指摘したが、検察側は「A刑事は他人から影響を受けやすい被告の性格を踏まえ、慎重に取り調べをした」と主張。有罪判決は「A刑事による強制や誘導は存在しない」と結論づけた。
普通の大人なら、検事宛ての手紙が有罪を確固たるものにしたい捜査側の誘導だということぐらい、すぐに分かる。当たり前に察知できるであろうA刑事の意図を、彼女はいまだに理解できていないことを示しているのが、冒頭の手紙だった。
意図は分からなくても、それが信用する相手の勧めなら従う-。そんな彼女の特性を示す事例は他にもあった。〇六年五月の両親宛ての手紙から見つけた記述には私たち取材班はとても驚かされた。
「私は病院で辛(つら)い思いばかりしてきてどうする事も出来ずにいてTさんを事故で、殺ろしてしまいました。病院への不満がありました。弁護士さんにも、正直な気持ちを手紙に書きました」
一転して犯行を認める内容。さらに現在の再審弁護団が保管する、当時の弁護士宛ての手紙も確認できた。
「前文お許しください。/病院に不満があり、事故に見せかけてTさんを利用して殺ろしてしまいました/かしこ」
◆同房者にも盲従か
関係者によると、この手紙を受け取って驚いた弁護士が数日後に彼女と面会すると、「同房者から、事実を認めて刑に服した方がいいと勧められて書いた」と話したとされる。
ちょうどその頃、彼女からの両親宛ての手紙に、その同房者と思われる「お世話をしてくれた人」が登場する。同房者が部屋を変わるタイミングで「せっかく部屋の人と仲よくなれたのに別れるのはすごく辛いです/涙がボロボロ出てきます/悩みを相談したりできたのは、この人だけでした」。この同房者も西山受刑者にとって、A刑事のように「信頼できる人」で、勧めに従ったのではないかと思われる。
アクリル板越しに行った知能・発達検査で、小出将則医師の「こだわりは」との質問に、彼女は迷わず「井戸先生」と、今誰よりも信頼する主任弁護士の井戸謙一弁護士の名前を挙げた。信頼する人との関係を最優先にする彼女の特性が表れた回答だった。
井戸弁護士も、彼女の特徴として「目の前の人にものすごく依存する傾向がある。相手が期待するようなことをしたい、そんな人間でありたいというような発想があるんじゃないかと感じる」と話す。井戸弁護士が原発差し止め訴訟にかかわっていることを知り、「原発の勉強をしたいから本を差し入れてほしい」と話したこともあったという。
人間関係がうまく築けず、深い孤独感の中で育ち、人の気持ちや意図を推し量ることが苦手で、大人の判断ができない彼女にとって、その瞬間に信頼する人に寄り掛かってしまうのは、当たり前のことなのかもしれない。
「心を許していこうと思ったじんぶつでした」(再審での上申書)。その人が刑事だったことが、悲劇の始まりだった。
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2017年7月30日 朝刊
西山美香受刑者の手紙2(4)再現ビデオ 角雄記(大津支局)
ナースステーション(NS)。腰高のカウンターに囲まれ、オープンに見渡せる病棟中央の看護師たちの詰め所のことだ。確定判決によると、犯行現場はNSのすぐ前の病室だった。
枕の上の蛍光灯でベッド周りは明るかった。入り口のドア、室内のカーテンはすべて全開で、人工呼吸器の管を抜いて消音ボタンを押し、患者の窒息死を待つ犯人の様子は廊下から丸見えの状況だ。病室には、死亡した患者以外に二人の同室者がいた。病棟には当夜、看護助手(資格不要)の西山美香受刑者(37)=滋賀県彦根市出身、殺人罪で懲役十二年、来月二十三日に刑期満了、再審請求中=と二人の看護師が当直していた。
◆気づかぬはずない
いくつかの疑問がわく。誰もが思うのは、ナースステーションの真ん前の病室で計画する不自然さだ。当直の看護師の一人は仮眠室で寝ていたが、もう一人のS看護師は犯行時間帯(午前四時十~三十分)には「NSのカルテ台でサマリー(診療記録)か何かを書いていた。四時半前に西山さんもNSにいたはず」と供述。目の前の病室に西山受刑者が出入りすれば、気づかないはずがない。
S看護師がNSにいては、警察の描く筋書きの上で、あまりにも都合が悪かったのだろう。西山受刑者の供述調書によって、S看護師がNSから“消されて”いった。
「S(看護師)をナースステーションの隣の休憩室に行かせようと考え(二人で)午前3時50分ごろ、休憩室に入った。ソファに座ってSと雑談していたが、午前4時10分ごろ、『ちょっと行ってくる』と言って(犯行現場の)22号室に入った」
S看護師の供述もあいまいに同調させられている。
「休憩室で休むことは何度かあり、それがあの日だったのかもしれません」
犯行につながる「西山受刑者の不審な行動」を見た人は誰もいない。人工呼吸器の管を外した際に鳴った「ピッ」というアラーム音を聞いた人もいない。アラーム音は「二十メートル離れていても病棟内ならすぐに気づく」と看護師が証言する目覚まし時計並みの音だが、犯行時間の直前にわが子の看護でナースコールした母親は「ドアは開放し、静まり返った病棟でブザー音、アラーム音、その他の物音、足音、人の声等、聞いた覚えはない」と明言。対応したS看護師も「絶対に聞いていない」。確実に起きていた二人が完全に否定した。
呼吸器を扱うこの病院の技師は「管を外せば、最低一回はピッと鳴ってしまう」と逮捕後、警察に説明した。聞いたという証言がなくても、西山受刑者に「鳴った」と言わせるしかなかったのではないか。
誘導されやすい彼女の供述以外に客観的な証拠も証言もない、これほど不完全な「完全犯罪のストーリー」がなぜ、認められてしまったのか。私たちは、警察が彼女に実演させた犯行の再現ビデオに注目している。再審弁護団の主任弁護人、井戸謙一弁護士が言う。「あれを最初に見たときは、私も驚いた。彼女は学芸会のように、A刑事に褒めてもらいたい一心で演じたのではないか」
◆手順をよどみなく
ベッドの脇に立って人工呼吸器の管を外し、消音ボタンを押し、再びアラームが鳴るまでの一分を頭の中で数え、鳴る直前に消音ボタンを押す。一連の手順をよどみなく説明し、実演しているという。
私たちは、和歌山刑務所の彼女に直接、この現場検証のことを手紙で聞いてみた。届いた手紙には、こうあった。
「現場検証は 何度もA刑事と予行えんしゅうしていますし、当日 A刑事がついて2人で説明するとなっていますが 病院にとうちゃくしてから ちがう刑事さんやったので、おこってやらないといったのですが、この時、検事がきていたのできちんとしないと重い刑になると言われてしてしまいました」
百聞は一見にしかず、というほどのインパクトだったのか。だが、それはA刑事が監督・指導した演技にすぎない。その映像を見た検察官、裁判官たちだけが「自分たちこそが目撃者」という錯覚に陥ったのだろうか。
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2017年8月6日 紙面から
西山美香受刑者の手紙2(5)仕事の悩み 角雄記(大津支局)
警察は「待遇差『不満晴らした』」と動機を発表。一方、周辺取材では「まじめな女性」の証言ばかりだった=2004年7月7日付本紙朝刊社会面
「計画的」な殺人には「犯行動機」がなくてはならない。それは、彼女が捜査員にこぼした愚痴がもとになっている。西山美香受刑者(37)=滋賀県彦根市出身、殺人罪で懲役十二年、二十三日に刑期満了、再審請求中=は、獄中で書いた手記や両親への手紙などで、A刑事に悩みや愚痴を聞いてもらううちに信頼関係が芽生え、言いなりになっていった心理状態を、こう振り返る。
◆刑事の調べ楽しみに
「私は人間関係をきずくのが苦手なので、こんなに、しかも男の人が話を聞いてくれるのは初めてだったので、うれしくなり/病院への不満なども聞いてもらううちにこの人なら信用できると思い/気にいるようなことを言ったりしてしまいました。たぶん私は、今から思えばA刑事の調べを楽しみにし、カウンセリングをうけているみたいな気分でした」(獄中手記)
同僚たちの供述調書から見えるのは、上司との人間関係の悪化。発達、知的障害による不注意と不器用さ、未熟な理解力のため、看護助手(資格不要)の雑務がこなせない。ミスが障害によることを上司も本人も気づくことができず、叱られては反発する、という悪循環に陥っていた。
看護主任は「配茶のときに、床やテーブルにこぼし、拭かずに行ってしまう。『床にこぼしたら拭かないと』と何度注意しても直らなかった」。看護師長も「指導は素直に聞くが、改善が見られず、同じ事を繰り返す。患者に対する気遣いができない」、同僚も「西山さんは『ミスを何度も繰り返す人』。そのたびに師長や主任らから注意を受けていた」と供述した。
和歌山刑務所で彼女と面談し、発達、軽度知的障害と診断した小出将則医師(56)=愛知県一宮市、一宮むすび心療内科院長=は「同僚らの供述から、仕事のミスが障害によるのはほぼ間違いないが、当時は誰も気づいていなかったのでは」と話す。
「注意しても直らないのは、聞き流しているように受け取られがちだが、反抗ではなく、意識が上の空になってしまうだけ。理解されず、人間関係が悪化しやすい」
「辛(つら)かった。イジメられて…」(両親への手紙)。そんな彼女の聴取を担当した三十代(当時)のA刑事は「西山さんはむしろかしこい子だ、普通と同じでかわった子ではない」(上申書)と言ってくれた。彼女は舞い上がり、呼ばれてもいないのに、A刑事に会いに何度も捜査本部を訪ねた。「調子にのってぺらぺらと言わないでいいこと、たとえば、病院に対することを言ったりした」(獄中手記)。逮捕後の取り調べの様子をこうも書く。
「弁護士の言うとおり/だまったりしてたら、別の部屋からB刑事がきて『わしらをなめとったらあかんで』/せんすで頭を数回たたかれ/B刑事はでていきました。その後A刑事はいつもよりもすごくやさしくて『みんな西山のことを思ってるんやから』と言われ/いいなりになってしまいました/この時は先のことなど考えられず/今1人でさみしい思いをしていることが辛くてA刑事が調べに来て/話ができると思ったらうれしくてたまりませんでした」(同)
◆アメとムチ使い手玉
計画的な殺人を成立させる“犯行動機”を意のままに引き出そうと、二人の刑事がアメとムチ役を分担し、A刑事がほろりとさせる人情派を演じているにすぎない。普通の大人のように人を疑うことができない彼女を手玉に取るのは簡単だったろう。
A刑事に語った彼女の愚痴は、殺人罪で起訴した検察の冒頭陳述に「犯行動機」として、ちりばめられた。
「叱責(しっせき)されたことで/病院を困らせ/自己の憤まんを晴らそうなどと考え/待遇の格差に対する不満を改めて抱き/事故に見せかけて被害者を殺害し/何食わぬ顔で/自己の犯行であることを悟られないようにした」
鬼のような看護助手による計画的犯罪のストーリー。捜査当局の主張をほぼそのまま踏襲した判決文に、彼女は「私が鬼のように書いてある」(両親への手紙)と驚いた。
障害で人間関係が苦手、不注意・不器用な“生きづらさ”の中で、A刑事は彼女の深い悩みをとことん聞いてくれた。「おれがお前の不安をとりのぞいてやる、と言われ…」(両親への手紙)。信頼する人を盲目的に信じてしまう-。障害が逆手に取られた「犯行動機」は、真っ先に判決文から削除されるべきだろう。
西山受刑者が350余通の手紙で両親に「殺ろしていません」(原文のまま)と訴えているのを知り、専門家に刑務所での鑑定を依頼。軽度知的障害と発達障害が判明した。障害が知られないまま「自白」だけで有罪になった裁判を検証しています。
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2017年8月13日 紙面から
西山美香受刑者の手紙2(6)偽情報 角雄記(大津支局)
再審請求が大津地裁に棄却され、悲しみに暮れる父西山輝男さん(左から2人目)と母令子さん(左)=2015年9月
捜査の立ち上がりから、偽の情報が方向を誤らせた。人工呼吸器をつけたTさんが明け方に絶命していることに気づいた第一発見者のS看護師は、病院にも警察にも「呼吸器のチューブ(管)が外れていた」と事実と異なる報告、供述をした。この一言によって、死因が「窒息」になり“事件性”が芽生えたのだ。
S看護師が警察に真実を打ち明けたのは翌年、西山美香受刑者(37)が逮捕されたあと。「実際のところは外れているかどうか目で確認していません。勝手に(外れていたと)思い込み、『外れていたならどの程度か』と質問されて返事に困ってしまい、たぶんこの程度だと思って二センチ以内と答えてしまった」などと語ったという。
◆通常は病死が多い
最初に正直に話していれば、事件にすらならなかった可能性が高い。呼吸器をつけた末期患者が息を引き取れば「病死」が一般的。司法解剖の結果、Tさんは「脳死に移行しかけた」死期の近い状況だった。「外れていた」の一言で、警察は“事件”へと動きだしてしまった。
S看護師は、なぜ「外れていた」と言ったのか。当直看護師の務めだった「痰(たん)吸引」と関係していそうだ。
当直の看護師は、のどに詰まった痰を取り除く吸引の処置をすることになっていた。S看護師は、死亡が発見される午前四時半までに、午前一時と三時の二回、痰を吸引したと説明したが、実際はやっていなかったことが同僚の証言で明らかになった。痰吸引を怠った後ろめたさが、とっさに「管が外れていた」と言わせたのではないか。
Tさんが死亡しているのに気づいたS看護師は「あっ」と声をあげ、看護助手の西山受刑者に、痰が詰まると鳴るアラームが「鳴ってなかったよね」と慌てて聞いた。痰詰まりで窒息したかもしれない、との不安が募り、呼吸器の不具合を装った可能性がある。S看護師は、吸引を怠ったことが気になったのか、死亡後も同僚と痰の吸引をしていた。西山受刑者の獄中手記にはそのシーンが出てくる。
「なくなられて死後の処置をする前にたんを吸引していたのが気になります。なぜなくなられた人のたんを吸引するのかなぁと思いました」
◆怒り募らせる遺族
「外れていた」の一言は、回復を期待していた遺族の落胆を、憤りに変えた。
「息子さんと娘さんがこられて『なんでこんなことになってしまった』と息子さんがすごくおこっておられ、『ゆるさない』と二人ともが言っておられました」(獄中手記)
遺族が法廷に提出した意見書には、父親の回復を願う当時の思いがつづられる。
「もう一度話がしたいと何度も念じました。私たちの思いを込めたメッセージ、そして(父が)自ら手入れを行っていた山林にある山小屋から聞こえる様々な音をテープに録(と)り、聞かせました。わらにもすがる思いで神社仏閣へも参拝し、祈祷(きとう)を受けて心のそこから祈りました」(抜粋)
遺族は「真相を明らかにしてほしい」と再三、警察に要望。鑑定医が「窒息死」としたことで病死の可能性は精査されず、捜査は“事件ありき”で突き進んでしまった。
ただ、そうだとしてもS看護師のうそを責められはしまい。“事件”の容疑者にされる恐ろしさは、想像を絶するものだ。誰かを陥れようとしたわけでもない。問われるべきは、客観的な事実の積み重ねを軽視し、供述や自白に翻弄(ほんろう)された捜査の手法にある。
「管が外れていたなら、アラームが鳴ったはずや」
偽情報をうのみにしてそう責め立てる強引な捜査に、障害のある西山受刑者は「鳴った」と言わされ、その自らのうそによって追い詰められ、「殺した」と口走ってしまう。詰めの甘い捜査側が、彼女の「うそ」を真相と思い込み、虚構の事件をつくってしまったのではないか-。
◇呼吸器の管をめぐるS看護師と西山受刑者の供述(×…虚偽と判明)
2003年5月 患者死亡
×「(管が)外れていた」(S看護師)
2004年7月
×「殺害を決心して外し、10分後、S看護師が来てつないだ」(西山受刑者)
×「外して、おむつ交換の後、はめた」(同)
「実際は目で確認してない」(S看護師)
2005年11月
【一審判決】西山受刑者が外し1分間隔で2回消音ボタンを押し最後にはめた。
◆取材経過
取材班は、西山美香受刑者(滋賀県彦根市出身、殺人罪で懲役12年、23日に刑期満了、再審請求中)が「殺ろしていません」(原文のまま)と350余通の両親への手紙で訴え続けているのを知り、専門家に刑務所での鑑定を依頼。「9~12歳の知能」「注意欠如多動症」の軽度知的・発達障害が判明した。「自白」だけで有罪になった裁判を検証しています。
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2017年8月20日 紙面から
西山美香受刑者の手紙2(7)死体は語る 角雄記(大津支局)
ロングセラーとなった著書「死体は語る」(一九八九年)の中で、元東京都監察医務院長の上野正彦さん(88)はこう説いている。
「生きている人の言葉には嘘(うそ)がある。しかし、もの言わぬ死体は決して嘘を言わない。丹念に検死をし、解剖することによって、なぜ死に至ったかを、死体自らが語ってくれる。その死者の声を聞くのが、監察医の仕事である」。その信念は、約二万体の検視・解剖に従事し、なお一線で活躍する豊富な経験値から導き出された、法医学者としての矜持(きょうじ)でもある。
上野さんは、被害者とされる入院患者のTさん=死亡時(72)=の司法解剖鑑定書に目を通すと「私なら“窒息”とは書かないねえ」と死因に疑問を呈した。鑑定書の死因は「急性低酸素状態」。つまり、窒息死だ。その理由を「人工呼吸器停止、管の外れ等」と明記した解剖医は法廷でこう証言した。
弁護人 解剖時に『人工呼吸器(の管)が外れていた』と聞いてましたね。
解剖医 新聞に載っていましたから。警察官からも説明は多分あった。
弁護人 他の原因は全く考えられない?
解剖医 「外れていた」ということで、その可能性が非常に大きいと判断した。
◆管はつながっていた
だが、「管が外れていた」と証言した第一発見者のS看護師は、裁判の前に「本当は(外れていたか)目で確認していない」と発見時の供述を訂正した。この時点で、「外れていた」という虚偽を元にした鑑定書の「窒息死」は根拠を失っていたはずだ。西山美香受刑者(37)による「計画殺人」という警察の筋書きでさえ、呼吸器の管を抜いて戻したことになっている。なのに「外れていた」を前提にした鑑定書が改められず、最高裁まで独り歩きし続けた。それが、この裁判の見過ごせない問題点だ。
不思議なことに、「窒息死」の鑑定は裁判でほとんど争点になっていない。なぜか。S看護師が「痰(たん)の吸引」をやったように偽装したことに、一審の弁護団が気を取られたためだ。弁護団は、殺人事件ではなく、死因は「痰詰まり」と主張。その場合、死因の「窒息死」に違いがないため問題にしなかった、とみられる。
では、Tさんの本当の死因は何か。実は、鑑定書の中に死者の“声”はあった。心停止の原因となる「致死性不整脈」が起きた可能性が高いことを示すデータが、解剖時の血液検査の結果にあったのだ。「カリウムイオン1・5ミリmol/リットル」が、それだ。カリウムは心臓の拍動に大きく影響し、2・5ミリmol/リットル未満で、致死性不整脈を引き起こす可能性が高まる。専門家によると「1・5は、生きているのが不思議なレベル」だという。
解剖医もカリウム値の低下が心停止を引き起こした可能性を見逃さず、鑑定書には「不整脈を生じ得る」と明記した。だが、「管が外れていた」という話に引きずられて「窒息死」と結論づけ、深く検証した形跡はない。
◆再審請求で最大争点
“事件”から十四年、遅ればせながら、死因が、大阪高裁で審理中の第二次再審請求で最大の争点に浮上。再審弁護団はカリウム値をもとに「致死性不整脈」による心停止を主張する。
死亡する七カ月前、植物状態で入院した時のTさんのカルテには「近いうち亡くなる可能性も十分ある」と書かれ、解剖医も所見に「大脳はほぼ全域が(豆腐やヨーグルトを潰(つぶ)したように)壊死(えし)状」「回復する事は全く(100%)有り得ない」と明記。脳死に移行しかけ、臨終を待つばかりの病状だった。
上野さんに聞いた。もし、この“事件”を担当したらどう鑑定するか?
「もともとの病気だった慢性の呼吸不全で亡くなったんでしょう。末期患者なら、あちこちの臓器に支障を来し、不整脈を誘因し得る。事件死とは思えない。病死です」
「チューブの外れ」ありきの鑑定に始まる裁判は、成り立たない。死体は語る-。出発点に戻り、始めからやり直すべきだ。
<取材経過> 取材班は、西山美香受刑者(滋賀県彦根市出身、殺人罪で懲役12年、23日に刑期満了、再審請求中)が「殺ろしていません」(原文のまま)と350余通の両親への手紙で訴え続けているのを知り、専門家に刑務所での鑑定を依頼。「9~12歳の知能」「注意欠如多動症」の軽度知的・発達障害が判明した。「自白」だけで有罪になった裁判を検証しています。
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2017年8月27日 中日新聞 朝刊
西山美香さんの手紙2(8)自白のみで有罪 井本拓志(前大津支局)
憲法三八条三項にはこうある。
「何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない」
今回の再審請求で弁護人は物証がないこの事件を憲法違反の疑いがある、とも指摘している。
では、裁判所は何をもって西山美香さん(37)を有罪と認定したのか。一審大津地裁の判決文は捜査段階の供述が「極めて詳細かつ具体的」と指摘した上で、こう述べる。「とりわけ被害者の死に至る様子は実際にその場にいた者しか語れない迫真性に富んでいる」。供述調書には、患者のTさんが死亡する場面が彼女の言葉として劇画チックに語られている。
◆口を開けハグハグ
「穏やかな顔がゆがみ始め/眉間のしわは深くなり、口を大きく開けてハグハグさせて/目を大きく開け、瞳をギョロギョロさせていた。口をこれ以上開けない程大きく開けて必死に息を吸い込もうとしていた/大きく目をギョロッと見開いた状態で白目をむき/青白い顔で表情もなくなり、死んでいた」
死の場面を、彼女は法廷の被告席でこう語っている。
弁護人 殺してないんだったら、Tさんが苦しがってるとこ見てないでしょう?
被告 (うなずく)
弁護人 見てないのにどうして言えたのかな?
被告 苦しがってやる(=いる)というのですか?
弁護人 うん。
被告 苦しかったんやろうなと思って。
弁護人 目を大きく開いてとか、顔がだんだん色が変わってきてとか、看護助手の経験で分かってたの?
被告 ほこ(=そこ)まで分からなかったけど、そういう感じやろうなというのは思ってました。
私たちが和歌山刑務所に出した手紙への質問にも、こんな回答をよこした。
「A刑事にゆうどうさせられて/自分で、だいたい苦しい息ができない時はこんなふうなのかな、と思ったりもしました」
一、二審とも、説明能力に欠ける彼女の障害(軽度知的、発達)を把握しておらず、法廷での本人の証言を「あいまい」「不自然、不合理」「信用性に乏しい」などと一蹴した。
供述調書は容疑者からの聞き取りをもとに取調官が書く文書で、本人の語りと正確に一致しているとは限らない。その迫真性が真実と直結するのであれば、取調官の“筆力次第”ということにもなりかねない。死の場面を描いた供述調書には、比喩表現を使った文学作品風もある。
「呼吸器の消音ボタンの横の赤色のランプがチカチカチカチカとせわしなく点滅しているのが判(わか)りました。あれが、Tさんの心臓の鼓動を表す最後の灯だったのかも知れません」「Tさんのような患者さんには(人工呼吸器の)アラーム音が命の叫びであり、他には消す方法はない」
再審弁護団はこれらを「取調官(A刑事)の作文にすぎない」と指摘。司法解剖鑑定書に「大脳はほぼ全域が壊死(えし)」とあり、「苦しそうに眉間にしわを寄せたり、口を大きくあけてハグハグさせたり、目を大きく開けて瞳をギョロギョロさせたりすることは、医学的に有り得ない」と疑問視する。
否認事件こそ、取調官の作文に陥った可能性のある供述調書に裁判官は疑問を持ち、物証の提出を促すべきではないのか。さきごろ、再審開始の決定が出た大崎事件でも、知的障害者の供述を根拠に有罪が確定していた。鹿児島地裁は、客観的証拠の裏付けがないことを決定の理由に挙げたが、憲法三八条を踏まえれば、当然のことだ。
◆指紋も提出されず
犯行時に彼女が人工呼吸器の本体を移動し、チューブを抜き、さらに消音ボタンを押したというのであれば、指紋が採取されてしかるべきだ。この裁判で不可解なのは、それすらないまま判決が下されたことだ。最低限の物証として、採取した指紋の証拠提出を捜査当局に求めたい。
=終わり
<取材経過> 取材班は、西山美香さん(滋賀県彦根市出身、殺人罪で懲役12年、刑期満了で24日出所、再審請求中)が「殺ろしていません」(原文のまま)と350余通の両親への手紙で訴え続けているのを知り、専門家に刑務所での鑑定を依頼。「9~12歳の知能」「注意欠如多動症」の軽度知的・発達障害が判明した。「自白」だけで有罪になった裁判を今後も検証します。
◎上記事は[中日新聞]からの転載・引用です
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◇ 【滋賀・呼吸器事件 再審決定】西山美香受刑者の手紙(上・中・下) 中日新聞2017/5/14~28
◇ 滋賀・呼吸器事件 西山美香さんの再審開始確定 最高裁2019/3/18付け
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