2008年04月08日
「ロス疑惑」再び ~ 特ダネ報道で逸した“ワンチャンス”
福岡県民新聞(08年3月号掲載)
「米捜査当局がサイパンで三浦和義氏の身柄拘束」―テレビの速報テロップにわが目を疑った。身を乗り出して画面を確認する。そして、ある捜査関係者の言葉を思い出した。「あの報道さえなかったら…」。
ロス疑惑は、三浦氏と一美夫人(故人)が銃撃された事件をはじめ、複数の事件に三浦氏本人が関与したとされる疑惑。1980年代半ば、週刊文春が火を付け、ワイドショーが追随して社会現象となった。
三浦氏は夫人殴打事件で実行犯の女性とともに有罪となったが、銃撃事件では三浦氏らの無罪が確定した。
このころ、筆者はまだ学生だったから、事件を直接取材した経験はない。だが記者として働く中で、当時の捜査関係者から「苦言」を何度かいただいた。
ロス疑惑の最大の焦点である銃撃事件で、捜査当局が三浦氏と、ロサンゼルスで駐車場を経営していたA氏を殺人容疑で逮捕したのは88年。A氏は、三浦氏から依頼されて2人を銃撃した実行犯、というのが当局の見立てだった。
容疑を否認するA氏。だが厳しい取調べに「心が揺れているのが手に取るようにわかった。間違いなくAは『完落ち』寸前だった」。元捜査幹部はそう語る。
実は、捜査当局には取って置きの「隠し球」があった。現場で目撃された白いバン。これが、A氏が借りたレンタカーであったことを突き止めていたのだ。「走行距離がレンタカー店と現場を往復した距離とピッタリと一致した」(元捜査幹部)。問題は、いつこのネタをぶつけるか、だった。 ところが、隠していたこの事実がマスコミに漏れ、特ダネとして報道されたのだ。新聞を手に悩む捜査幹部。「まだ早い」―それを承知で勝負に踏み切らざるをえなかった。
A氏は「顔色が変わり、ワナワナと震え出した」(元捜査幹部)。落ちるか―その瞬間、A氏は「トイレに行かせてほしい」と頼んだ。長い用足しから帰った後は平静さを取り戻していたという。
結局実行犯を特定できず、三浦氏らは無罪となった。「あれが最大で唯一のチャンスだった。あの記事のおかげで…」そう語る元幹部の苦々しい表情が忘れられない。
日本の司法制度において三浦氏の無罪が確定している以上、その事実を否定するつもりはない。だが発生から30年近く経って再び事件を突き動かしたのは、日米の捜査員の執念と一美さんらの無念さではないかと思わずにはいられない。
弁護側と当局の激しい争いの末、三浦氏の身柄は米本土へ移送されようとしている。
一事不再理の原則はどうなるのかなど法律上の問題が山積する中、事件の今後の展開を多くの関係者が見つめていることだろう。
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2008年04月21日
司法界に影響与えた「ロス疑惑の有罪判決」
(08年4月号掲載)
先月号の本欄で紹介したロス疑惑。三浦和義氏の身柄は、弁護側の激しい抵抗もあっていまだにサイパンに留め置かれており、事態は「小休止」といった感がある。
ロス疑惑は各方面に多大な影響を与えた、まさに画期的な事件だった。報道業界では容疑者呼称を初め、その後の犯罪報道のあり方が変わる契機に。また司法界では、「裁判員制度」を新たにスタートさせるきっかけの1つとなった。
三浦氏の無罪が確定した「一美さん銃撃事件」。だが1994年、一審の東京地裁では、三浦氏に無期懲役の有罪判決が下されている。「マジかよ…」。当時、多くの司法・マスコミ関係者がその判決内容に驚き、呆れ返った。
銃撃事件で検察側は、三浦氏が首謀者で、ともに起訴された駐車場経営者A氏が実行犯―と主張した。だが東京地裁判決は、A氏は証拠不十分で無罪とした上で、三浦氏については「氏名不詳者との共謀が成立する」と判断したのだ。
刑事裁判は検察に訴追された被告人が有罪か無罪かを審理するが、事実は検察・弁護側双方が提出した証拠に基いて認定される(刑事訴訟法317条)。これを「証拠裁判主義」という。
にもかかわらず判決は、検察側が言及も証拠提出もしていない「第三者」を持ち出してきて三浦氏を有罪とした。実行犯とされたA氏については有罪とする根拠が足りない。実行犯を特定できない以上、首謀者の三浦氏も無罪とすべきだが、彼はとにかく有罪である。だから提出された証拠を無視し、三浦氏を有罪にするため独自に「実行犯」を作り上げた―というわけだ。 「『氏名不詳者』って誰だよ?まったくデタラメな判決だ」。本来なら有罪判決が出て喜ぶはずの検察・警察側も、その内容に唖然としていた。多くの弁護士が「この手法が許されるなら何でもアリ、すべての被告を有罪に出来る。司法の否定以外の何物でもない」と吐き捨てた。
案の定、一審判決は控訴審で一蹴され最高裁で無罪が確定した。
「司法がおかしくなっている」。それまでも言われていたことだが、このような裁判官の出現で、さすがに関係者の危機感は頂点に達したようだ。その後、制度見直しの必要性が叫ばれ、「日本の司法始まって以来の大改革」とされる裁判員制度の導入へとつながった。
さて、この裁判員制度。国民生活に多大な影響を及ぼすのは間違いないのだが実は、多くの司法関係者が制度そのものを疑問視しており、しかもそうした声はほとんど表に出て来ない。
個人的には司法改革は大賛成なのだが・・。 この問題は別の機会にレポートしたい。
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2008年05月29日
表に出ない反対の声 裁判員制度 司法関係者の本音
「日本の司法制度史上最大の改革」といわれる裁判員制度の実施まであと1年。マスメディアでも取上げられる機会が増えているが、「一般の市民感覚を裁判に反映できる」と歓迎する論調がほとんどである。
国民から無作為に選ばれた裁判員が審理に参加するこの制度。だが司法関係者の本音を聞くと、その多くが制度そのものに疑問を持っているのが実態だ。
法務省や裁判所などが大々的に宣伝・推進する中、あえて現場の本音を紹介したい。
・「心配せんでも、早晩破たんするよ」。数年前、裁判員制度について話を聞くと、ある法務省関係者はこう答えた。この人物は当時、制度を推進する部署にいたにもかかわらず、である。
以来、多くの司法関係者にこの制度について率直な感想を聞いてきた。だがそのほとんどが反対・否定派で、本気でうまくいくと考えている者はいなかった。
・プロは必要ないのか
「そもそも裁判所がだらしないからでしょ?なのになんでこっちまでとばっちりを食うのか」。ある検察関係者はこう憤る。
制度導入の理由の1つには、本紙で報じたロス疑惑での一審判決をはじめ、通常では考えられない判決が続いたために「裁判官には常識がない」などと批判が相次いだことがある。そのためアメリカの陪審員制度のような「一般市民参加型」の裁判形式に改めることで、国民に身近でわかりやすい司法に変える―というのが大義名分だ。
「裁判に“素人”を入れて良くなるなら、われわれプロは必要ないってことになる」。別の検察関係者はこう不満をぶちまける。「人権や生命といった非常に重要な事柄に関わる、きわめて責任が重い仕事。だからこそ、厳しい司法試験によって選抜されているはずなのに」。
とはいえ、最近は検察内部でも風向きが変わりつつあるようだ。「本音では反対だったはずの人が『思ったよりいい制度かも』となって。上の人に多いが、まあ、彼らは現場に出ることはないからね(笑)」(前出の検察関係者)。
・刑事事件の弁護 受けなければいい
「検事もしょせんは役人。国や役所がやろうとする方針には、最終的に従うでしょうね」。こう話すのはある弁護士だ。「ですが、弁護士の9割は制度に反対しているか関心がないか。賛成派は日弁連幹部をはじめとするごく一部の人たちです」。
現在、国選弁護人の登録数が減り続けており、弁護士会でも大きな問題となっている。裁判員制度は殺人、放火など重大な事件にのみ適用されるため「多くの弁護士が『面倒に巻き込まれたくない』と、刑事事件を敬遠している」(同)のだという。「どうせ自分は関わらない、だから関心がないという人が多いのです」。
日弁連が制度の旗振り役を務めているため、表立って反対を唱える弁護士は少ない。だが明確に反対する弁護士は口をそろえて「被告の権利を守るという視点が欠落している」と話す。
・「そんなバカなことは止めろ」
多くの関係者が疑問視している新制度。それでは一体誰が、なぜ、推進しているのか?
「新制度が始まるという前提でやってきたから、根本的な問題について考えたことがない」(若手弁護士)
「ある年齢層の弁護士は『市民』という言葉に特別な感情を持っている。市民が参加すればとにかく良くなる、と。そんな連中が推進している」(中堅弁護士)
「現場を知らない学者の発想。間違いなく制度は破たんする」(検察関係者)
そもそも、なぜ裁判員制度なのか。この問いを多くの関係者にぶつけてきた。裁判官に問題があるとすれば、それは裁判所の構造、教育・育成システムの問題である。それが新制度で是正されるのか―。だがこれまで、納得できる回答は得られなかった。
本当に司法が良くなるのか分からないまま走り出そうとしている裁判員制度。一度やると決めたら問題があると分かっていても最後まで止められない―「日本のお役所仕事の典型例」となる可能性は、否定できない。
最後にある法務省関係者の言葉を紹介したい。
「アメリカに研修に行った時、『日本でも陪審員制度のような新制度を導入する』と話すと1人の例外もなく全員が『どうしてそんなバカなことを』と驚いた。『すでに陪審員制度の限界は明らかになっている。それがこちらの常識。今からでも遅くない、止めた方がいい』と」。