逃亡者 <10> 中村文則 作 宮島亜希 画
2018/10/11 朝刊
<神への質問>5
僕は神に尋ねる。
日本の戦国時代から明治にかけ、キリシタンが迫害された時。あなたはどのような気持で、死んでいく信者を見ていたのか。
その迫害中、信者の一人が、聖母マリアの姿を目撃している。過酷な環境下での幻覚でないなら、あなたのマリアはどのような意図を持ち、その姿を現したのか。
長崎と天草地方にある潜伏キリシタン関連の遺産が、今世界文化遺産に登録された。でも、本来ならその「一連の物語」に入らなければならなかったはずの「欠けた物語」について、あなたはどう思うだろうか。その物語がなければ、一連の潜伏キリシタンの物語は本来成立しないはずではないのだろうか。
それから----。
(後略)
逃亡者 <13>
2018/10/14 朝刊
<神への質問>8
部屋に戻り、椅子に置いた黒いリュックサックを眺める。これを持っている僕を、あの部屋に来た男や、大聖堂で背後に座った女性はどう感じただろう。何かの使命で、逃げていると思っているかもしれない。
僕はリュックから、黒に塗装された木のケースを出す。所々色が剥がれ落ちているが、鈍い光沢が維持されている。
僕がフリージャーナリストだったとき、この楽器が発見された記事を書いた。休暇を取りタイに滞在していたが、発見されたフィリピンのマニラに行った。
噂は以前から少し聞いていた。第二次大戦の日本兵達の証言を集める仕事を手伝っていた頃、その存在を時々聞いた。
戦時中、連合軍から何かの戦犯の容疑をかけられ、名前を偽り、どこかの部隊から、ある軍楽隊に配属された男がいたこと。その男のトランペットの腕前が、天才を通り越し、悪魔的であったこと。彼の使うそのトランペットが、他のトランペットとはやや違った音を出したこと。
軍楽隊は、内地、つまり日本での軍関連の式典やパレードなどの演奏だけでなく、主に戦地に行った。
兵隊達の慰問に加え、占領した土地の現地住民達に対しての、宣撫活動もあった。素晴らしいコンサートを聞かせ、日本に良いイメージを抱かせる。現地民は時々スパイ化した。日本に対し良い感情を持たせるのは、その土地の兵士達にとって死活問題だった。娯楽の少ない時代、オーケストラによる生演奏は感動を呼び起こし、絶大な効果があった。
正規には残っていない、曖昧な記録。フィリピン・ルソン島の山中で、数で劣る日本兵が、大勢の連合軍を殺害したある作戦。それをこのトランペッターが成功させたとされている。
だがどの元兵士も、実際の作戦の細部に入ると口をつぐんだ。彼の演奏を振り返るときはやや涙を浮かべ話したが、それ以外は言葉を濁した。「気さくな男だった」と述べる者が多い。「女のように美形だった」という証言もある。
その後、トランペッターは発狂したと言われている。
真偽は不明だが、そのトランペットには前にも使用者がいたという。軍楽隊の楽器は軍の所有物であり、演奏者を代えそれぞれの戦争を跨ぐことがある。
逃亡者 <14>
2018/10/15 朝刊
<神への質問>9
ここからは、さらに真偽不明な情報。使用者のトランペッターが精神に異常をきたした後、このトランペットもおかしくなったというのだった。重要な場面で鳴らなくなった。ある悲劇が起こったとも。しかしいずれも、伝説の域を出ない。
僕は留め金を外し、ケースを開ける。ケースに触れる指が、恐怖を感じながら心地よく緊張していく。目の前のトランペットを見る。僕はその銀の金属の光沢に見入っている。見つめるとさらに込み入っていくような、複雑で穏やかな曲線。悪魔的なのに、なぜこの曲線はこんなにも美しく優しいのだろう。この曲線は、全てを許す。人の狂気を。人の惨劇を。曲線を僕は目で辿っていく。進むとカーブしながら惑い、また元に戻っていく。
部屋に入ってきたあの男も、大聖堂で背後に座ったあの女性も、僕がその平和や人権や自由を重視するリベラリズムの思想から、使命で持ち逃げをし、渡さないようにしていると思っているのかもしれない。
トランペットに触れる。その金属の冷たい感触に、指が喜んでいく。全てを弾くような拒絶の金属に、僕は指を押しつけていく。一瞬の震えの後、徐々に指先が馴染む。僕の指が、この冷たい金属と一体化していく。金属に身体が浸食されていく。僕が僕でなくなる。
彼らは知らないのだ。この楽器が、僕とアインを結ぶ物体であることを。僕が今、どれだけ孤独であるかを。僕が時々この楽器に、話しかけているということを。楽器に語りかける自分を許すほど、僕の孤独が修理不能であることを。
彼らは知らないのだ。僕の中のリベラリズムがもう死んでいることを。かといって、保守でもないことを。思想は死んだ。僕はリベラルの残骸だ。
気持ち良かったか? 僕は笑みを浮かべ、トランペットに話しかける。多くの軍人を地獄に落としたとき、気持ち良かったか? その場を制覇したとき、気持ち良かったか? トランペットの曲線にふれていく。人の血はどうだった? きみと違い柔らかく血が流れる人間はみっともないだろう? 弱々しい人間の断末魔は? きみの美しい音色の足元にも及ばない。濁った生命とやらの断末魔は?
本当は、狂ってなどいないのだろう? 本当は、あの事件の後も鳴り続けたのだろう?
神。もし僕を見ているなら、もう見ないでいい。
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〈来栖の独白 2018.10.16 Tue〉
『逃亡者』<14>を読んで、ぐったり。モーニング(パン・コーヒー・サラダ)とともに新聞を読むひとときが毎日の楽しみだが、<14>には降参。短い中に、これほど私の好きなワード(世界)を詰め込んだ<1日分>も珍しいのではないか。「モーニング」は、すっかり忘れていた。面白い小説をありがとう。私は、
> もう見ないでいい。
とは、言わないよ。いつもいつも見ていてくれてありがとう。毎日、主に頼り頼み、感謝しながら、生きていきます。
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◇ 朝刊連載小説『逃亡者』中村文則 作 2018年10月1日スタートした
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◇ 日々、感謝 食事と共に新聞小説『とめどなく囁く』2018.5.1 ネットというツールに人類の倫理は・・・
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