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「凶悪犯罪」とは何か 【2】光市事件最高裁判決の踏み出したもの

2007-10-30 | 死刑/重刑/生命犯
 「凶悪犯罪」とは何か 光市裁判、木曽川・長良川裁判とメルトダウンする司法

1、三人の元少年に死刑判決が出た 木曽川・長良川事件高裁判決
2、光市事件最高裁判決の踏み出したもの
3、裁判の重罰傾向について

4、裁判員制度と死刑事件について
【2】
安田 木曽川・長良川事件の1審判決はかなり杜撰だったけれども、事件をそれなりに見ようと
する態度が見られたと思います。というのは、木曽川の事件については殺人罪を認定しなかった。
裁判所は、子供たちの曖昧模糊とした意思とバラバラな意思疎通の中で、解決策も歯止めもない
まま事態だけがどんどん悪い方向に進行していくという事案の実相をそれなりに見ていたんだろう
と思うんです。しかし、それにもかかわらず一人だけを死刑にしたというのは、やっぱりあの被害者
の数との関係で、ものすごい政策的な辻褄合わせをしたんだろうと思うんです。ですからあの判決
はたいへん中途半端な判決で、それが、高裁につけいるスキを与えてしまったんだと思います。
検察官にとっては大変批判しやすかったんだと思うんです。
 高裁は、それぞれの子供たちが細胞としては別々かも知れないけれど、3つ、4つ集まってからま
ると1つの生物となるとでも考えたのか、3人をまとめて故意を認定し、それをテコに3人を死刑にし
てしまうという、ものすごく荒っぽいことをしてしまいました。あの判決のどこを読んだって、法適用
の厳粛さ、つまり3人に死刑を適用しなければならない必然性は出てこない。もちろん、熟慮の痕
跡などもまったくない。ましてや教訓的でもない。単なる決算書とほとんど変わらないような中身だ
ったですね。僕は、あれを見てやはり司法の危機というのをすごく感じたわけです。
 それに比べ、アベック殺人の高裁のときは、裁判官は悩んだですね。思いっきり悩んで、しかも、
子供たちを死刑にするのは自分たちとして、大人たちの社会として許されるだろうかという問いか
けがその中にありましたね。苦渋の選択が判決の中から読みとれたけど、今回ははっきり申し上
げて何一つなかったわけです。真面目さが欠如していますね。
 それは司法そのものが、裁判官も含めてですけれど、思想とか哲学とかそういうものを持ってこ
なかったことの結果だろうと思います。すでに司法のメルトダウン現象が起こっているんですね。
それはどういうことかというと、司法が担うべき役割、その重要な要員である裁判官・弁護士・検察
官が、自分たちが果たすべき職責を完全に忘れてしまって、一般世論、あるいはメディアと完全に
シンクロしてしまっているんですね。それは、時の権力や勢力に一切支配や影響をうけることなく、
超然として、法にのみ支配されてその職責を遂行する、つまり、刑事司法の場面では、違法捜査を
抑止し、事実を徹底して解明し、有罪の場合はなぜこのような事件が起こったのかというところま
で事案を掘りさげ、公正に刑を量定すると同時に今後、被告人が生きていくすべを指し示す、そう
いう職責を司法は担っているんですね。ところが、このような職責を全部放棄して、世間相場で物
事を見切って事件を処理してきた。司法のメルトダウン現象は、司法全体の怠慢の必然的な結果
なんだろうと思います。
 木曽川・長良川の事件の判決は光市の事件の判決と軌を一にしていますね。それは、事実解明
の努力の欠如と世論への徹底した迎合です。それで、凶悪ということが今日のテーマになってい
るんですけど、僕は凶悪とは、見る人のイメージがそのまま反映されて凶悪という表現をとってい
るものであって、結局、自己の価値観というか自己の傾向をそのまま表現したものだと思うんです
ね。マスコミは、いろいろな事実がある中で、視聴者や読者の凶悪のイメージと合致する事実だけ
をつまみあげて強調していく。捜査官も検察官もそうだと思うんですよ。数ある事実の中で被告人
が有罪だという事実と凶悪だという事実だけを取り上げて事件を構成していく。時には事実をねつ
造したりします。そして弁護人も裁判所もまったくそれに汚染されてしまって、何らそれに抗するだ
けのものを持っていない。ですから、よってたかってみんながこれでもか、これでもかと、被告人に
凶悪というイメージを叩きつけていく。叩きつけるのは事実ではなくイメージなんですね。もはや司
法はリンチの世界になってしまっていると思いますよ。
 有罪・無罪だけでなく、量刑も被告人にとって重大なことです。ましてや、死刑か否かは決定的
です。平川先生がいらっしゃるので僕は苦言を呈したいんですけど、被害者感情が刑の重さを決
める上でどういう位置を占めるのか、あるいはどういう位置を占めるべきかということについて、刑
法学の中で、まったく議論がされてこなかったんですね。犯罪の成立とかそういうことについては、
熱心に議論がなされてきた。そして、それが刑が無限定に拡大していくことへの歯止めになってき
た。しかし、被害者感情についての議論は皆無なんですね。そういう中にあって、被害者の意見
陳述や被害者の訴訟参加など、被害者感情が一気に刑事司法になだれ込んでこようとしている。
今のままでは、量刑だけでなく犯罪の成否についても、被害者感情に支配されるという刑事司法
の総崩れ現象が起こるのではないかと危惧しています。現に、光市の事件では、最高裁をはじ
め、1,2審も、全て量刑の議論だけに終始し、事実の解明がまったくなおざりにされているんで
す。
 本来、司法は冷静で、客観的で、そして理性的でなければならない。司法の誕生は、政治的思
惑や私的制裁あるいは被害者感情からの分化の歴史だったと思うんですよ。ところが司法の側に
これを守りきるだけの力がないから、その垣根が総崩れになっている。司法は時の政権におもね
り、世論や感情に同調し、もう手がつけられない状態になっている。弁護士、検察、裁判所、司法
全体の暴走状態が始まっているという気がするんです。木曽川・長良川の高裁判決、光市の最高
裁判決は、そのはしりだと思うんです。

平川 今まで刑法学が量刑の問題をやってきていないではないかというご批判は、その通りだと
思います。今までの刑法学は、犯罪成立要件、いわゆる犯罪論のところばかりやってきた。量刑
の問題は、刑法学の隅っこで、ほんのわずかしかやられてきていないということは、おっしゃる通
りです。そして、量刑の理論的研究と実際の量刑問題が、なかなか結びついてこない。一方で
いわゆる量刑相場の分析が行われ、それとは別のところで量刑責任論などの形でまったく理論的
な研究がされていて、両者が結びついていない。理論と実際の量刑を結びつけるような量刑理論
がなければいけないのですが、実際の量刑の場面で有効性を持つような研究がないことは、おっ
しゃるとおりです。最近は、量刑研究も徐々に進みつつありますが、まだまだこれからの課題で
す。そういう意味では、刑法研究者は怠慢だったし、今でも怠慢だろうと思います。

安田 平川先生を非難しているわけじゃなくて(笑)

平川 それから、裁判所が悩まなくなっているということは、最近の判決を見ていると、私もそう感
じます。しばらく前までの判決は、それなりに悩んだ形跡がうかがえるようなものが多かったと思
います。
 永山判決がその後の判決の流れを作っているわけですが、あれも、よく読んでみると、それなり
に悩んでいますね。しかし、最近は、永山判決の悩みのようなところもすっ飛ばして、永山判決に
挙げられている基準だけを形式的な一覧表にして、それにポコポコあてはめて結論の正当化の
理由にしているような判決が少なくないように感じます。中には、永山判決に依拠した場合に本当
にこういう結論になるんですか、と言いたくなるようなものもある。今回の光市事件の判決もそうで
すが、判決文をよく読んでみると、実質的には永山判決の基準の変更になっているのではない
か、少なくとも永山判決はそういうことを言っていないのではないかという気がするのです。最高
裁は、そこまで来てしまっているということだと思います。
 私は、この背後には、裁判員制度が影を落としているように思います。裁判員制度になれば、一
般の人たちの処罰感情が量刑にもろに反映していく可能性があるわけです。どうせそうなるのだ
から、ここで自分たちが頑張ってもはじまらないというような意識が、裁判官の中に生まれはじめ
ているのかなと思うのです。
 しかし、むしろ、この際、裁判員制度をにらみながら、量刑はどうあるべきかをもう一度きちんと
考えなおして、裁判や判決の中できちんと押さえておくことが必要だと思います。そうでないと、裁
判員制度になったら本当に量刑が一般の人の処罰感情に流されていってしまうのではないか、と
いう危惧があります。

村上 裁判員の問題については、確かに一般の人々の感情がもろに裁判に反映されるという部
分もありますし、逆に裁判員の市民の方が裁判に参加されることによって、死刑というものを判断
することが非常に勇気のいることであり、むしろ市民の人たちも躊躇するかもしれないという見方
も一方ではあるわけですね。そういう場合に、今回の光市の判決はある意味では先頭に立って、
こういう時はこうするんだというのを国民みんなに知らしめたという役割があるんだとおっしゃる弁
護士もいます。

安田 僕も全く同じ考えを持っています。光市の最高裁判決は、永山判決を踏襲したと述べてい
ますが、内容は、全く違うんですね。永山判決には、死刑に対する基本的な考え方が書き込んで
あるわけです。死刑は、原則として避けるべきであって、考えられるあらゆる要素を斟酌しても死
刑の選択しかない場合だけ許されるんだという理念がそこに書いてあるわけです。それは、永山
第一次控訴審の船田判決が打ち出した理念、つまり、如何なる裁判所にあっても死刑を選択する
であろう場合にのみ死刑の適用は許されるという理念を超える判決を書きたかったんだろうと思う
んです。実際は超えていないと私は思っていますけどね。でも、そういう意気込みを見て取ること
ができるんです。ところが今回の最高裁判決を見てくると、とにかく死刑だ、これを無期にするため
には、それなりの理由がなければならないと。永山判決と論理が逆転しているんですね。それを
見てくると、村上さんがおっしゃった通りで、今後の裁判員に対しての指針を示した。まず、2人殺
害した場合にはこれは死刑だよ、これをあなた方が無期にするんだったらそれなりの正当性、合
理性がなければならないよ、しかもそれは特別な合理性がなければならない、ということを打ち出
したんだと思います。具体的には、この考え方を下級審の裁判官が裁判員に対し説諭するんでし
ょうし、無期が妥当だとする裁判員は、どうして無期であるのかについてその理由を説明しなけれ
ばならない羽目に陥ることになると思います。
 ですから今回の最高裁判決は、すごく政策的な判決だったと思います。世論の反発を受ければ
裁判員制度への協力が得られなくなる。だから、世論に迎合して死刑判決を出す。他方で、死刑
の適用の可否を裁判員の自由な判断に任せるとなると、裁判員が死刑の適用を躊躇する方向に
流されかねない。それで、これに歯止めをかける論理が必要である。そのために、永山判決を逆
転させて、死刑を無期にするためには、それ相応の特別の理由が必要であるという基準を打ち出
したんだと思います。このように、死刑の適用の是非を、こういう政策的な問題にしてしまうこと自
体、最高裁そのものが質的に堕落してしまったというか、機能不全現象を起こしているんですね。
ですから第三小法廷の裁判官たちは、被告人を死刑か無期か翻弄することについて、おそらく、
何らの精神的な痛痒さえ感じることなく、もっぱら、政治的な必要性、思惑と言っていいのでしょう
が、そのようなことから無期を死刑にひっくり返したんだと思います。悪口ばっかりになってしまう
んですけど。

加藤 ちょっと話がそれますけど、少年法の領域でもやっぱり原則検察官送致という形で、これも
保護優先を逆転させていますでしょ。要するに検送したくないんなら保護の証明をちゃんとやれっ
ていう形でしょう。今度廃案になって、また出てくるであろう、児童相談所優先も見直そうとしてい
ます。要するに原則と例外を逆転させてしまうという形で、従来踏襲していた、まさに深く人間を理
解しながら、世の責任、大人たちの責任を問うていこうという少年法の原理というのを、「健全育
成」という文言だけ残しながら、空洞化させていく流れというのは、今おっしゃった流れと軌を一に
してます。

安田 木曽川・長良川の事件でもそうですけれども、光市の事件でも、少年に対してどう大人たち
が向き合うか。裁かれる少年にとって、大人の最たるものが司法ですから、司法は、子供たちを
裁くに当たっては、子どもたちに対する配慮とか、子供たちに対する大人の責任とか、そういうもの
が織り込まれなければならないのに、それが一切出てこないんですよね。最高裁判決は、子供と
いうだけでは死刑回避の理由にならないというのですよ。しかし、子供を死刑にしなければならな
い司法って一体何なんでしょうね。

加藤 多少、感情論になるかもしれないですけど、たとえば、木曽川・長良川事件は、私は足で稼
ぐ調査ですから、現地、現場へ行く。彼らが育った家や近辺や環境を回るわけですよ。立ち寄った
ところで、そこで何が見えてくるのか。彼らがどういうふうに息をしながらどうやって生きてきたの
かということを。全部に行けとは言いませんよ。でもそこの痛みを感じながら大人たちが作りあげて
きた側面、やったことの責任だけではなく、そうしている社会全体がその痛みをどう共有しながら、
犯罪を起こさない仕組み、社会を作っていくにはどうするかという問題提起がなきゃいかんわけで
す。それは捨象して、誰がどうであろうと過去は関係なく、ここでやったことだけを裁く。もう少年法
の原理なんてどこかに飛んじゃいますね。個別にちゃんとしっかり見て、慎重に判断しましょう、若
くして犯罪にいたる場合にはそれなりの理由があるはずだというその疑問すらなくしてしまったら、
もうタテマエだけですね。

平川 少年事件の中核には少年のコミュニケーション能力の欠如があるように感じるのですが、
大人もコミュニケーション能力をなくしているのではないでしょうか。裁判官も(笑)。少年事件への
対応の基礎には少年と大人とのコミュニケーションがなければなりませんが、それができていな
い。裁判官と少年、裁判官と弁護人、裁判官と社会との間のコミュニケーションがきちんとできてい
ないのではないでしょうか。

加藤 さっき安田さんの言われた、3人の子を死刑にしなきゃならない必然性というのはどう説明
するんでしょうかね。

安田 帳尻だけですよね。

加藤 彼らの社会との接点だとか、どう生きてきたのか、その中で生きる重たさ、その等価として
死なんて対置してないですよ。非常に浅薄な感じがしちゃうし、失礼ですよね。

平川 裁判官は、被告人とも、弁護人とも全くコミュニケーションしていない。結論だけをぽんとくっ
つけているだけのように感じます。

安田 僕はこの間、光市の事件でかなりの脅迫電話を受けたわけですが、そういうのと対応して
いるんですね。私は、凶悪だと非難し、死刑にすることを求める彼らの底意に、凶暴性、凶悪性と
いうのをものすごく感じるんですね。飛躍してしまうんですが、僕らは体験していないけれども、戦
前に農村なんかで普通どおり生活していた人たちが兵士にとられて中国大陸なんかで突然残虐
な行為をやってしまう。ああいうような状況に今なりつつあるのかなという気がするんです。それは
一般市民だけじゃなくて裁判官も含めて底意の中の凶悪性というのは徐々に堆積してきているの
ではないか。そして、来年、再来年ぐらいになると、底意の凶悪性が表に出てきて、社会全体が凶
悪化するような気がするんです。
 やっぱり僕に脅迫電話をかけてくる人の底意と、それから今回の最高裁の裁判官が書いた文章
とが大変よく似ているんですよね。事件を「冷酷、残虐、非人間的な所業である」と決めつけて最
大限の非難をし、しかも被告人に有利な事情をことごとく否定したうえ、1審、2審の6人の裁判官が
悩んで出した結論を、著しく正義に反するとはなから否定しているんですよ。乱暴でひどく感情的
ですよね。「いのちの大切さ」を教えるどころか、「いのちをないがしろにしろ」にしているんですよ。
先ほども言いましたが、中国大陸で人を殺していった発想と同じですね。「ちょっと待て」、「どのよ
うなことがあっても、やってはならない」という毅然とした態度や、「う~ん、なるほど」と人をして納
得させるものは何もないんですね。そこらあたりというのは、裁判官がどんどん理性も思想性も失
ってきたことの結果ではないですかね。
 それは、同時に、一般市民なりマスコミが裁判所に対して尊敬も期待もしないことの裏返しであ
ると思います。裁判所は、たとえば、目の前に憲法違反の事実があるのに憲法判断を回避する、
目の前に苦しんでいる人がいるのに、10年も20年もかけないとその人たちは救われない。薬害も
公害も、なかなか国家の責任を認めない。他方で、人を処罰することにおいては拙速を極める。
司法は、国家の間違いを正したり人を救済することをしてこなかった。光市の最高裁判決のよう
に、「冷酷」「残虐」「非人間的」と最大限の非難の言葉を並べて、もっぱら人を処罰するばかりで
すから、マスコミも市民も、司法に厳罰を求めるんですね。「殺せ」、「吊るせ」とガーッと騒げば司
法は簡単に動くものだと、実際動いてしまうんですけどね、そういう、全体としての同化現象という
か軟弱現象が起こっているという気がします。

加藤 そうですね。凶悪合唱団が、全体としては自分自身の中にあるそういう凶悪さも揺り起こし
て、命を尊ぶという社会規範をどんどん後退させて、ある意味戦争状態に入って、導いちゃってい
る危険性というのをどれだけ感じとれるかが課題だと思います。

安田 ですから、あんな悪い奴はすぐ殺してしまえ、あんな奴を弁護するお前も殺しちゃえ、司法
なんて全く必要ないという話が、何のためらいもなく湧き上がるんですね。今までの、戦後何十年
と続いてきた教育はなんだったのですかね。何の役にも立っていなかったということなんでしょう
ね。
加藤 あまり否定的に見たくはない心情はあるんだけれども、やっぱり全体として命が大切にされ
ないそういう流れの中で、逆に犯罪がまた再生産されてるわけですよね。コミュニケーションと言
われたけれども、まさに支え合うというか共生的に生きるところから遠ざかって、孤立化するところ
で自殺が増え、虐待が増え、犯罪に追い込まれるという構造を作っていくという、この悪い連鎖を
断ち切らないと怖いことになりますね。せっかくそこの歯止めになるはずの裁判体がその合唱団
に加わってどうするんだという印象すら受けますね。

平川 「凶悪」ということが言われる背後で、敵意のようなものが世の中に蔓延しているように感じ
ます。
 私は、最近の報道が前と変わってきているように感じています。報道による人権侵害ということ
が言われて、80年代の後半から90年代の初めにかけて、メディアの事件報道がちょっと沈静化し
ました。端的には、88年に、それまで被疑者が逮捕されると呼び捨てになっていたのが、容疑者と
いう---これが肩書きなのか何なのかはよくわかりませんが---容疑の段階であってまだ犯人と
決まったわけではないという趣旨の呼称をつけるようになりました。この頃は、メディアがちょっと
慎重になった時期だと思います。しかし、95年頃から、松本サリン事件、地下鉄サリン事件、和歌
山毒カレー事件などをきっかけに元へ戻って、前よりもさらにセンセーショナルな報道をするように
変わってきたと思います。たとえば、以前は、新聞の1面トップに事件報道が載るということは、ま
ずなかったと思います。それは、新聞の品位の問題と言う意識が新聞のほうにもあって、1面トッ
プは政治記事、その次は経済記事で、事件報道は社会面という意識があった。最近は、そういう
意識がなくなっています。事件の節目の報道だけでなく、捜査経過までが、1面に、場合によって
はトップに載ります。テレビでも、以前はトップニュースは国際と政治だったのが、最近はそうでは
なくなってきています。ニュースの中での事件とか犯罪というものの位置づけ、割合が、非常に大
きくなってきています。それが、一般の人たちの感覚にかなり大きな影響を与えているように思い
ます。最近、「体感治安の悪化」ということが言われますが、この辺に理由があると思います。新聞
を見ると1面トップに犯罪記事が出ている、テレビをつければニュースのトップに犯罪が出てくる。
それが、自分たちの周りが非常に危険であるという意識を生み出します。そして、犯罪統計が発
表されるたびに、必ず「危ない」という危険キャンペーンがなされます。これは昔からあることで、
警察や法務省は、治安対策を言うことで権限を肥らせ、要員を増やすことができるわけです。しか
し、メディアは、警察や法務省の言うことをそのまま報道する。メディアは、本当にそうなのか、統
計をそういうふうに読むのが正しいのかという批判的な目で見ずに、警察や法務省が言っている
ことをそのまま報道する。それで、一般市民も治安に対する不安感を煽られていく。その結果が、
今の状況を生み出していると思うのです。
2007/11/04up

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