強権を持った検審議決への無効訴訟は是認できる
新恭 提供:永田町異聞
BLOGOS 2010年10月16日12時00分
当然のことながら、小沢一郎氏は、東京第5検察審査会の議決を無効だとして、議決取り消しなどを求める行政訴訟を起こした。
無効だとする理由はきわめてシンプルで、誰にでも分かることである。
前回議決の被疑事実に、異なる被疑事実を付け加え、別紙に「犯罪事実」として記載したうえで、「別紙犯罪事実につき、起訴すべきである」と議決している。詳しくは10月8日の当ブログをご覧いただきたい。
これは明らかにルール違反である。強制起訴には二度の「起訴相当」議決が必要だが、同じ容疑内容について二度審査していることが前提となるはずだ。別の容疑を付け加えるのであれば、新たに出直し審査をしなければならないと考えるのが常識だろう。
小沢弁護団が訴状に代わって公表した文書の要旨にはこう書かれている。
今回の議決は(1)陸山会の土地購入をめぐる、いわゆる「期ずれ」についての虚偽記載の事実(2)陸山会が小沢氏から4億円を借り入れたことについての虚偽記載の事実とを犯罪事実としている。
しかし、4億円借り入れの事実は、小沢氏に対する告発、不起訴処分、検察審査会の1回目の審査とそれによる起訴相当議決、再度の不起訴処分のいずれでも容疑事実として取り上げられていない。
強制起訴を行うには、検察官の2回の不起訴処分と検察審査会の2回の議決とを必要とした検察審査会法に正面から反する。
昨年5月21日から、検察審査会の議決は法的拘束力を与えられた。ほとんど国会における真剣な議論を経ることなしに改正検察審査会法が発効したのだ。
検察当局が不起訴にしても、審査会が二度「起訴相当」の議決をすれば、強制的に被疑者を起訴でき、裁判所が指定した指定弁護士に検察と同じ捜査権が与えられる。つまり第二の検察が誕生したということだ。
しかも、任期6ヶ月、半数が3ヶ月ごとに入れ替わる11人の匿名市民の「市民感情」が優先され、被疑者の冤罪が法廷で証明されても、誰も責任をとる者がいないという、いびつな制度である。
とくに、今回の小沢強制起訴議決のように著しく理性や探究心が欠如した文面が有効であるなら、検察審査会という制度そのものが信頼性と存在意義を失ってしまうだろう。
それにしても、マスメディアが今回の議決に全く疑念を抱いている様子が見られないのは不可解である。
朝日新聞の村山治編集委員は15日の「法と経済のジャーナル」で、小沢一郎に対する東京第五検察審査会の強制起訴議決について、このように書いている。
現場の検事の一部には、小沢氏について、石川氏の供述や状況証拠から政治資金規正法違反(虚偽記載)で起訴した石川氏ら秘書との共謀共同正犯を認めることは可能であり、起訴できるとの判断があった。(中略)
審査会は、証拠を検分した結果、2回とも、小沢事件について、現場検事と同様の感触を得たものとみられる。それは、最終的に不起訴の判断を維持した検察首脳に対する不信の表明だったともいえる。
つまりこれは、審査員たちが、現場検事を信頼する一方、検察首脳に不信を突きつけたのだという意味であろう。
ところが、いま検察組織に起きている事態はどうか。検察幹部が、現場検事の捏造捜査を罪に問うて逮捕し、現場検事の荒っぽく非道な捜査手法が世間の批判にさらされているではないか。
そして、朝日新聞は現場検事を今になって叩いている。各社いっせいの検察批判なら怖くないのだ。世間の風向きに検察もマスコミも合わせるのである。
小沢事件については、現場検事と同様の感触であることをもって、検察審査会の判断に共感の姿勢を表明し、村木冤罪事件については、自らの責任から逃れるため必死に現場検事に罪をなすりつけようとする検察の総本山、最高検を是認する。
まさに、報道のご都合主義というほかない。
ところで、今回の行政訴訟の是非について、意見が分かれている。政治家のコメントは政治的思惑があってのことで、小沢氏を支持するグループをのぞき、検察審査会の議決に疑義を呈する者など、ほとんどいないだろう。したがって野党を中心に「潔くない」などという情緒的な批判が噴出する。
また、仙谷由人官房長官は「刑事司法過程の処分は、行政訴訟法の処分に該当しないというのが一般論だ」などと木で鼻をくくったようなことを言う。
識者はどうか。産経新聞からコメントを拾ってみる。
検察OBの土本武司筑波大名誉教授は「起訴手続きの差し止めは、行政訴訟の対象にならない。刑事裁判で争うべき問題だ」と、仙谷長官とほぼ同じような見解だが、これも一般論で、昨年から検察審査会議決に法的拘束力が与えられていることや、今回の議決そのものの異常さを考慮した発言ではない。
一方、阿部泰隆中央大教授(行政法)はかなり意見が異なっている。
「これまでの常識では、起訴は刑事手続きだから刑事裁判で争うべきで、行政訴訟で争うのは許されない」。ここまでは仙谷長官や土本名誉教授と同じようだが、「これまでの常識では」という但し書きがある。ポイントはこのあとだ。
「ただ、市民にとって刑事裁判で被告となるのは苦痛だ。今回は、検察審査会が2回目の議決で本来の審査対象を超えた部分を犯罪事実に含めたのは違法ではないかということが論点。通常の起訴の議論とは異なり、この点は行政訴訟で判断すべきではないか。起訴という国家権力を行使するという点で検察審査会も検察官と同じで、合理的証拠がなく起訴したとすれば、国家賠償責任が認められる可能性もある」
阿部教授は「2回目の議決で本来の審査対象を超えた部分を犯罪事実に含めたのは違法ではないかということが論点」と、今回の議決の異常さをふまえて、一般論に流れるのを避けた発言をしている。
識者のコメント内容に、対象に向き合う誠実さがあるかどうかというのは、このように見れば、はっきりと読み取れるものである。
*強調(太字)は、来栖
..................................................
2010年10月08日(金)
検察審議決の重大な欠陥を無視するマスメディア
「国民は裁判所によって本当に無罪なのかそれとも有罪なのかを判断してもらう権利がある」
東京第5検察審査会は、そのような「まとめ」で、検察が不起訴とした小沢一郎の強制起訴を決めた。
起訴といえば聞こえは悪いが、法廷で事実を明らかにし、疑いを晴らすチャンスだととらえれば、小沢氏としても少しは気がおさまるだろう。
ところが、審査会が「白か黒を裁判所に判断してもらいたい」と言っているのに、国会議員のセンセイたちや、マスメディアの記者たちは、早くも自分たちで黒白を判断し、小沢氏に離党や議員辞職を求めている。
このせっかちさ、この短絡ぶりは、いつものことで、もはや不治の病というほかない。
それより少しは、小沢氏の話によく耳を傾け、検察審査会の議決書の奇怪さをじっくり検証してみてはどうか。
昨日、報道陣の取材に応じた小沢氏の発言。
「2度の議決がありましたけども、先日の議決の中でも例えば、最初の議決の起訴の理由としてまったくなかったものが突然、今回、新たにその理由として付け加えられて、議決書に述べられていると聞いております」
この意味を記者たちは理解したのだろうか。筆者の知る限り、どこの新聞もほとんど取り上げていないようだが、実はこの部分にニュースの核心がある。
前回ブログに引き続き、もう一度、10月4日の東京第5検察審査会の議決書を見てみたい。まずは、ここだ。
「別紙犯罪事実につき、起訴すべきである」とあって、「第1 被疑事実の要旨」と続く。
「別紙犯罪事実」と「被疑事実」はどういう関係にあるのだろうか。
「被疑事実」は、概ね以下のような内容であり、東京第5検察審査会の前回議決と同じである。
「小沢氏が代表をつとめる陸山会は04年10月に代金3億4264万円を支払い、東京都世田谷区の土地2筆を取得したのに、04年分の陸山会の収支報告書に記載せず、05年分の陸山会の収支報告書に、本件土地代金分過大の4億1525万4243円を事務所費として支出した」
では別紙に書かれた「犯罪事実」の中身はというと、次の通りである。
犯罪事実
被疑者は、石川、大久保と共謀の上、陸山会が、平成16年10月初めころから同月27日ころまでの間に、被疑者から4億円の借入れをしたのに、平成16年分の収支報告書に記載せず、陸山会が、平成16年10月5日及び同月29日、土地取得費等として3億5261万6788円を支払ったのに、収支報告書に記載せず、同月29日、東京都世田谷区の土地2筆を取得したのに、収支報告書に資産として記載しなかった。
池田、大久保と共謀の上、陸山会が、平成17年1月7日に土地取得費用等として3億5261万6788円を支払っていないのに、平成17年分の収支報告書に支出として記載し、東京都世田谷区の土地を資産として記載し、「資産等の内訳」欄に、真実の取得が平成16年10月29日であったのに平成17年1月7日に取得した旨の虚偽を記入した。
問題となるのは「被疑者から4億円の借入れをしたのに、平成16年分の収支報告書に記載せず」のくだりだ。
これは前回議決の被疑事実にいっさい記述のない内容である。同じ容疑について、二度、「起訴相当」議決が出たら強制起訴になるということを、ここで思い起こさなければならない。
別の容疑事実を、二度目の議決で新たにつけ加えて、それを議決するというのでは「再議決」ではなく、「初議決」である。
小沢氏側は、東京第5検察審査会の起訴議決について「重大な欠陥がある」として、訴訟手続き上の異議申し立てを検討するという。当然のことであろう。このような議決は無効であるというほかない。
こうした事実を差し置いて、審査会の議決を判決のごとく重大視し、鬼の首でもとったかのように、小沢追放論をぶつこの国のマスメディアは、もはや完全に平衡感覚を失い、船酔い状態のように思考がふらついている。
「小沢氏のけじめ」と題する8日の朝日新聞社説を眺めてみることにしよう。社説というより、ほとんどアジ演説であることがわかる。
「菅首相と民主党は小沢氏に対し、政治的なけじめを強く求めなければならない。証人喚問など国会での説明を促し、離党勧告か除名をする。最低限、それが必要だ」
「小沢氏には元秘書ら三人が逮捕・起訴された時点で、極めて重い政治的な責任が生じている」
「一連の政治行動に、選良としての節度を見ることはできない」
「歴史的な政権交代の意義をこれ以上傷つけないためにも、強制起訴決定の機会に議員辞職を決断すべきだった」
どんな極悪人に対して浴びせているのかと思うほどのヒステリックな批判である。
このケースでの政治的なけじめとは何か。なぜそのようなけじめが国家、国民のために必要なのか。無知蒙昧な我々のためにぜひ、かみ砕いて教示いただきたい。
1年半もの間、元秘書らの逮捕を入り口に検察に付け狙われ、マスメディアの大騒動の渦に巻き込まれたすえに、検察が不起訴とした小沢一郎という政治家は、メディアを分け隔てしないフルオープンの記者会見に何度も臨んで、説明を繰り返してきたはずだ。
そのうえに、こんどは法廷に引きずり出され、政治活動の時間を犠牲にして、尋問に答えねばならないのである。
なぜ、それとは別に国会の証人喚問に応じなければならないのか、これもよくかみ砕いて説明してほしい。
また元秘書らが起訴されたとはいえ、彼らは公判で罪状を否認すると表明している。村木無罪判決以来、朝日が手のひらを返したように報道し始めた検事の強圧的な調書作成の例からみても、ひとまず、虚偽記載とか偽装とかいう検察的事実から距離を置くべきではないだろうか。
その意味で、「元秘書が逮捕・起訴された時点で、極めて重い政治的な責任がある」と軽く書くのは、「後顧の憂い」を避けるためにも、自重したほうがよかったのではないか。
検察審査会の強制起訴議決を機に議員辞職をしなければならないという理由も分かりにくい。どうして歴史的政権交代の意義とそれが関わってくるのかも、あわせて、もっと分かりやすく、具体的に、教えていただきたいものだ。
新恭(ツイッターアカウント:aratakyo)
新恭 提供:永田町異聞
BLOGOS 2010年10月16日12時00分
当然のことながら、小沢一郎氏は、東京第5検察審査会の議決を無効だとして、議決取り消しなどを求める行政訴訟を起こした。
無効だとする理由はきわめてシンプルで、誰にでも分かることである。
前回議決の被疑事実に、異なる被疑事実を付け加え、別紙に「犯罪事実」として記載したうえで、「別紙犯罪事実につき、起訴すべきである」と議決している。詳しくは10月8日の当ブログをご覧いただきたい。
これは明らかにルール違反である。強制起訴には二度の「起訴相当」議決が必要だが、同じ容疑内容について二度審査していることが前提となるはずだ。別の容疑を付け加えるのであれば、新たに出直し審査をしなければならないと考えるのが常識だろう。
小沢弁護団が訴状に代わって公表した文書の要旨にはこう書かれている。
今回の議決は(1)陸山会の土地購入をめぐる、いわゆる「期ずれ」についての虚偽記載の事実(2)陸山会が小沢氏から4億円を借り入れたことについての虚偽記載の事実とを犯罪事実としている。
しかし、4億円借り入れの事実は、小沢氏に対する告発、不起訴処分、検察審査会の1回目の審査とそれによる起訴相当議決、再度の不起訴処分のいずれでも容疑事実として取り上げられていない。
強制起訴を行うには、検察官の2回の不起訴処分と検察審査会の2回の議決とを必要とした検察審査会法に正面から反する。
昨年5月21日から、検察審査会の議決は法的拘束力を与えられた。ほとんど国会における真剣な議論を経ることなしに改正検察審査会法が発効したのだ。
検察当局が不起訴にしても、審査会が二度「起訴相当」の議決をすれば、強制的に被疑者を起訴でき、裁判所が指定した指定弁護士に検察と同じ捜査権が与えられる。つまり第二の検察が誕生したということだ。
しかも、任期6ヶ月、半数が3ヶ月ごとに入れ替わる11人の匿名市民の「市民感情」が優先され、被疑者の冤罪が法廷で証明されても、誰も責任をとる者がいないという、いびつな制度である。
とくに、今回の小沢強制起訴議決のように著しく理性や探究心が欠如した文面が有効であるなら、検察審査会という制度そのものが信頼性と存在意義を失ってしまうだろう。
それにしても、マスメディアが今回の議決に全く疑念を抱いている様子が見られないのは不可解である。
朝日新聞の村山治編集委員は15日の「法と経済のジャーナル」で、小沢一郎に対する東京第五検察審査会の強制起訴議決について、このように書いている。
現場の検事の一部には、小沢氏について、石川氏の供述や状況証拠から政治資金規正法違反(虚偽記載)で起訴した石川氏ら秘書との共謀共同正犯を認めることは可能であり、起訴できるとの判断があった。(中略)
審査会は、証拠を検分した結果、2回とも、小沢事件について、現場検事と同様の感触を得たものとみられる。それは、最終的に不起訴の判断を維持した検察首脳に対する不信の表明だったともいえる。
つまりこれは、審査員たちが、現場検事を信頼する一方、検察首脳に不信を突きつけたのだという意味であろう。
ところが、いま検察組織に起きている事態はどうか。検察幹部が、現場検事の捏造捜査を罪に問うて逮捕し、現場検事の荒っぽく非道な捜査手法が世間の批判にさらされているではないか。
そして、朝日新聞は現場検事を今になって叩いている。各社いっせいの検察批判なら怖くないのだ。世間の風向きに検察もマスコミも合わせるのである。
小沢事件については、現場検事と同様の感触であることをもって、検察審査会の判断に共感の姿勢を表明し、村木冤罪事件については、自らの責任から逃れるため必死に現場検事に罪をなすりつけようとする検察の総本山、最高検を是認する。
まさに、報道のご都合主義というほかない。
ところで、今回の行政訴訟の是非について、意見が分かれている。政治家のコメントは政治的思惑があってのことで、小沢氏を支持するグループをのぞき、検察審査会の議決に疑義を呈する者など、ほとんどいないだろう。したがって野党を中心に「潔くない」などという情緒的な批判が噴出する。
また、仙谷由人官房長官は「刑事司法過程の処分は、行政訴訟法の処分に該当しないというのが一般論だ」などと木で鼻をくくったようなことを言う。
識者はどうか。産経新聞からコメントを拾ってみる。
検察OBの土本武司筑波大名誉教授は「起訴手続きの差し止めは、行政訴訟の対象にならない。刑事裁判で争うべき問題だ」と、仙谷長官とほぼ同じような見解だが、これも一般論で、昨年から検察審査会議決に法的拘束力が与えられていることや、今回の議決そのものの異常さを考慮した発言ではない。
一方、阿部泰隆中央大教授(行政法)はかなり意見が異なっている。
「これまでの常識では、起訴は刑事手続きだから刑事裁判で争うべきで、行政訴訟で争うのは許されない」。ここまでは仙谷長官や土本名誉教授と同じようだが、「これまでの常識では」という但し書きがある。ポイントはこのあとだ。
「ただ、市民にとって刑事裁判で被告となるのは苦痛だ。今回は、検察審査会が2回目の議決で本来の審査対象を超えた部分を犯罪事実に含めたのは違法ではないかということが論点。通常の起訴の議論とは異なり、この点は行政訴訟で判断すべきではないか。起訴という国家権力を行使するという点で検察審査会も検察官と同じで、合理的証拠がなく起訴したとすれば、国家賠償責任が認められる可能性もある」
阿部教授は「2回目の議決で本来の審査対象を超えた部分を犯罪事実に含めたのは違法ではないかということが論点」と、今回の議決の異常さをふまえて、一般論に流れるのを避けた発言をしている。
識者のコメント内容に、対象に向き合う誠実さがあるかどうかというのは、このように見れば、はっきりと読み取れるものである。
*強調(太字)は、来栖
..................................................
2010年10月08日(金)
検察審議決の重大な欠陥を無視するマスメディア
「国民は裁判所によって本当に無罪なのかそれとも有罪なのかを判断してもらう権利がある」
東京第5検察審査会は、そのような「まとめ」で、検察が不起訴とした小沢一郎の強制起訴を決めた。
起訴といえば聞こえは悪いが、法廷で事実を明らかにし、疑いを晴らすチャンスだととらえれば、小沢氏としても少しは気がおさまるだろう。
ところが、審査会が「白か黒を裁判所に判断してもらいたい」と言っているのに、国会議員のセンセイたちや、マスメディアの記者たちは、早くも自分たちで黒白を判断し、小沢氏に離党や議員辞職を求めている。
このせっかちさ、この短絡ぶりは、いつものことで、もはや不治の病というほかない。
それより少しは、小沢氏の話によく耳を傾け、検察審査会の議決書の奇怪さをじっくり検証してみてはどうか。
昨日、報道陣の取材に応じた小沢氏の発言。
「2度の議決がありましたけども、先日の議決の中でも例えば、最初の議決の起訴の理由としてまったくなかったものが突然、今回、新たにその理由として付け加えられて、議決書に述べられていると聞いております」
この意味を記者たちは理解したのだろうか。筆者の知る限り、どこの新聞もほとんど取り上げていないようだが、実はこの部分にニュースの核心がある。
前回ブログに引き続き、もう一度、10月4日の東京第5検察審査会の議決書を見てみたい。まずは、ここだ。
「別紙犯罪事実につき、起訴すべきである」とあって、「第1 被疑事実の要旨」と続く。
「別紙犯罪事実」と「被疑事実」はどういう関係にあるのだろうか。
「被疑事実」は、概ね以下のような内容であり、東京第5検察審査会の前回議決と同じである。
「小沢氏が代表をつとめる陸山会は04年10月に代金3億4264万円を支払い、東京都世田谷区の土地2筆を取得したのに、04年分の陸山会の収支報告書に記載せず、05年分の陸山会の収支報告書に、本件土地代金分過大の4億1525万4243円を事務所費として支出した」
では別紙に書かれた「犯罪事実」の中身はというと、次の通りである。
犯罪事実
被疑者は、石川、大久保と共謀の上、陸山会が、平成16年10月初めころから同月27日ころまでの間に、被疑者から4億円の借入れをしたのに、平成16年分の収支報告書に記載せず、陸山会が、平成16年10月5日及び同月29日、土地取得費等として3億5261万6788円を支払ったのに、収支報告書に記載せず、同月29日、東京都世田谷区の土地2筆を取得したのに、収支報告書に資産として記載しなかった。
池田、大久保と共謀の上、陸山会が、平成17年1月7日に土地取得費用等として3億5261万6788円を支払っていないのに、平成17年分の収支報告書に支出として記載し、東京都世田谷区の土地を資産として記載し、「資産等の内訳」欄に、真実の取得が平成16年10月29日であったのに平成17年1月7日に取得した旨の虚偽を記入した。
問題となるのは「被疑者から4億円の借入れをしたのに、平成16年分の収支報告書に記載せず」のくだりだ。
これは前回議決の被疑事実にいっさい記述のない内容である。同じ容疑について、二度、「起訴相当」議決が出たら強制起訴になるということを、ここで思い起こさなければならない。
別の容疑事実を、二度目の議決で新たにつけ加えて、それを議決するというのでは「再議決」ではなく、「初議決」である。
小沢氏側は、東京第5検察審査会の起訴議決について「重大な欠陥がある」として、訴訟手続き上の異議申し立てを検討するという。当然のことであろう。このような議決は無効であるというほかない。
こうした事実を差し置いて、審査会の議決を判決のごとく重大視し、鬼の首でもとったかのように、小沢追放論をぶつこの国のマスメディアは、もはや完全に平衡感覚を失い、船酔い状態のように思考がふらついている。
「小沢氏のけじめ」と題する8日の朝日新聞社説を眺めてみることにしよう。社説というより、ほとんどアジ演説であることがわかる。
「菅首相と民主党は小沢氏に対し、政治的なけじめを強く求めなければならない。証人喚問など国会での説明を促し、離党勧告か除名をする。最低限、それが必要だ」
「小沢氏には元秘書ら三人が逮捕・起訴された時点で、極めて重い政治的な責任が生じている」
「一連の政治行動に、選良としての節度を見ることはできない」
「歴史的な政権交代の意義をこれ以上傷つけないためにも、強制起訴決定の機会に議員辞職を決断すべきだった」
どんな極悪人に対して浴びせているのかと思うほどのヒステリックな批判である。
このケースでの政治的なけじめとは何か。なぜそのようなけじめが国家、国民のために必要なのか。無知蒙昧な我々のためにぜひ、かみ砕いて教示いただきたい。
1年半もの間、元秘書らの逮捕を入り口に検察に付け狙われ、マスメディアの大騒動の渦に巻き込まれたすえに、検察が不起訴とした小沢一郎という政治家は、メディアを分け隔てしないフルオープンの記者会見に何度も臨んで、説明を繰り返してきたはずだ。
そのうえに、こんどは法廷に引きずり出され、政治活動の時間を犠牲にして、尋問に答えねばならないのである。
なぜ、それとは別に国会の証人喚問に応じなければならないのか、これもよくかみ砕いて説明してほしい。
また元秘書らが起訴されたとはいえ、彼らは公判で罪状を否認すると表明している。村木無罪判決以来、朝日が手のひらを返したように報道し始めた検事の強圧的な調書作成の例からみても、ひとまず、虚偽記載とか偽装とかいう検察的事実から距離を置くべきではないだろうか。
その意味で、「元秘書が逮捕・起訴された時点で、極めて重い政治的な責任がある」と軽く書くのは、「後顧の憂い」を避けるためにも、自重したほうがよかったのではないか。
検察審査会の強制起訴議決を機に議員辞職をしなければならないという理由も分かりにくい。どうして歴史的政権交代の意義とそれが関わってくるのかも、あわせて、もっと分かりやすく、具体的に、教えていただきたいものだ。
新恭(ツイッターアカウント:aratakyo)
コメント、ありがとうございます。すべて同意です。この国には検察を捜査する機関が無く、最も強権を誇っているのは検察であり、裁判所も検察が起訴した事件の9割超に有罪判決を出すという判検一体ぶりです。政治(そのなかの選挙)を左右するのも、官僚(検察)です。
>民衆は、民主国家の主権者だと騙され続けています
小沢さんが悉く敗退させられたのは、官僚を排除し主権を国民の手に取り戻そうとしたからでした。今闘われているのは、誰がこの国の主人か、ということでしょう。国民なのか官僚なのか、という闘いです。
最近読んだ五木寛之さんのエッセーに、次のようなことが書かれていました。五木さんは1932年生まれですから、戦中は少年でした。朝鮮で終戦を迎えたのです。
“戦後に生まれ、民主主義のなかで育った世代は、国家権力のこわさを知らない。国を背後から動かす力の凄さを知らない。
政府は必要とあれば、庶民大衆の虎の子の預金通帳を凍結することができる。これを預金封鎖という。(略)
国はその存立にかかわる場合には、金の取引を停止させることも、金の個人所有を禁止することも可能なのだ。かつてアメリカがそれをやっているのである。(略)
大きな力がそれを取り上げようとすれば、なんだってできるのだ。そして、そんなことは戦後史を学べば、すぐにわかることだ。(略)
植民地(朝鮮)を支配していた宗主国が、戦争に敗れて支配権を失ったらどういうことになるのか。それがちゃんとわかっていた連中は、いち早く列車に荷物を積み込んで南下していった。軍の幹部や、高級官僚の家族たちである。「一般市民は軽挙妄動をつつしみ、現地にとどまれ」と、ラジオ放送は呼びかけていた。一般市民には現地にとどまれ、といいながら、利口な連中はさっさと逃げ出してしまっていたのだ。”