今村彩子さん「私は生まれつき耳が聞こえません」 言葉の世界へ母の導き 2021.03.14

2021-03-14 | 社会

 家族のこと 話そう   言葉の世界へ母の導き 
映画監督 今村彩子さん 
 中日新聞 2021年3月14日 19面 くらし 

 私は生まれつき耳が聞こえません。子どもの頃、家族がテレビを見ている時は歯がゆさと寂しさを感じていました。一歳下の弟が笑い転げていても、私は内容が分からない。母のゆっくりとした口話で内容が分かった時には話が先に進んでいて…。 
 映画に出合ったのは小学三、四年生の頃。父が字幕付きの映画「E・T」のビデオを借りてきたんです。それを見た時の感動は今でも忘れません。内容はもちろん、家族で一緒に楽しめることがうれしかった。それから父は毎週、映画のビデオを借りてきてくれました。 
 当時の夢は童話作家になることでした。母は、私が二歳の時に耳が聞こえないことを知ってから、「読み書きができれば、社会で生きていける」と、一生懸命に絵本を読み聞かせてくれました。「てれび」「まど」など、身の回りの物に名前カードを貼り、通っていた地元の千種聾(ろう)学校幼稚部の行き帰りには、「あれは木」「車だよ」と指さしながら教えてくれました。私は言葉を覚え、本を開けば、さまざまな世界を旅できることも知り、自分で物語や漫画を描くようにもなりました。 
 映像も文字も思いを伝える手段。文字に親しんだことが今の映画作りにつながっているのかもしれません。中学生の頃に漠然と、映画監督になりたいと思い始めました。でも、大学生の時、その思いを母に言ったら反対されました。「せっかく愛知教育大に入ったんだから先生になって、夏休みなどに映画を撮ればいい」と。私は「人生は一回しかない。どうしても映画で食べていきたい」と話しましたが、平行線でした。
 私は大学卒業後、愛知県の豊橋聾学校や愛知学院大などで講師をしながら、映画を撮っていました。母も私の映画への本気さを分かって支えてくれるようになり、2005年に立ち上げた映画製作会社では経理を担当してくれました。父は仕事に忙しく、7年前に母が亡くなるまではあまり話せなかったのですが、職場で映画のチラシを配るなどして応援してくれました。新作の「きこえなかったあの日」は東日本大震災直後のシーンから始まります。母に見せたかった。余震もある被災地での撮影を、とても心配してくれたので。
 母を亡くした3か月後に祖父も他界。二人とも生きている間は空気のように当たり前の存在でしたが、亡くなった後は本当につらく、体に大きな穴があいたようでした。今は72歳の父と96歳の祖母との3人暮らし。「家族がいつもいるのが当たり前」ではないのだと思いながら一緒に生活しています。
 聞き手 佐橋大
 写真  桜井泰

 ◎上記事は[中日新聞]からの書き写し(=来栖) *写真は略
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〈来栖の独白 2021.3.14 Sun〉
 「聞こえない」ということについて聞きたかった。残念。聞こえなくて映画の監督とは、台詞とか、どのようにしてOKを出すのか。


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