原爆 トルーマン大統領が止めなければ、米軍は次々と落とした可能性 「グローブズ文書」

2018-08-10 | 政治〈領土/防衛/安全保障/憲法/歴史認識〉

 2018/8/10 Fri 中日新聞朝刊 32面
原爆 次々落ちた可能性 投下数 大統領の指示なく
 太平洋戦争末期、米軍が2発目の原爆投下を具体的に計画していたことを示すグローブズ文書。予定を早め実行しようとする内容からは、米軍が投下を急ぎ、原爆の製造態勢を強化しようとしていた様子がうかがえる。専門家は「原爆は次々と落とされる可能性があった」と指摘する。
*トルーマンが制止
 「1つの軍事目標に向かって第1原爆投下の手配は進行していた。すなわち私は決断を下したのである。(中略)『大爆弾、広島に投下される。完全な成功』の電報を受け、私は非常に感動した」
 「8月9日、第2の原爆が今度は長崎に投下された。わが方は、日本側に降伏の決断をするよう3日間を与えていた」
 トルーマン大統領(1884~1972年)は1955年に著した回顧録の中で、広島と長崎に原爆が投下されたときの様子をそれぞれ回想。文脈からは、大統領が主体的に原爆投下を決断、指示したように見て取れる。
 では、トルーマン大統領は原爆投下の決定をいつ、どのように下したのか。
 今年1月、ドナルド・トランプ大統領は、北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長の挑発に対し、短文投稿サイト「ツイッター」に「私が持っている核のボタンの方がずっと大きくて強力だ」と書き込み、核の使用を常時命令できるよう、発射ボタンを携行していることをほのめかした。
 だが、トルーマン大統領の時代はこうした仕組みはなかったとされる。
 核の歴史に詳しい東京工業大の山崎正勝名誉教授(科学史)によると、トルーマン大統領は米英ソの首脳が第2次世界大戦の戦後処理を話し合ったポツダム会談に出席した45年7月24日、ヘンリー・スティムソン陸軍長官から、8月3日以降に原爆が投下できるとの説明を受けた。
 大統領は陸軍長官に了承する意思を伝えたが、具体的な投下数などは指示していなかったとされる。
 陸軍長官から了承を伝達されたグローブズ少将は2発の原爆投下を進めた。大統領が広島への投下を知ったのは6日、ポツダム会談の帰路の船上とされる。当時の米閣僚の日記などによると、8日に破壊された広島の街の写真を見て衝撃を受け、9日には、長崎にも投下したという報告を受けたため「さらに十万人も殺害するのはあまりにも怖ろしい」として10日に3発目以降の中止命令を出したという。
 日本の無条件降伏を求めたポツダム宣言を、日本は14日に受諾。3発目の原爆は落とされることなく、15日に戦争は終わった。
 山崎正勝名誉教授は、トルーマン大統領の人物像を「仕事は部下に任せ、責任は自分が取るという考えだった」と分析。回顧録で、投下を自らの決断であることを強調しているのは、大統領が軍の最高司令官としてすべての責任を取ることを示すためであるとみている。その上で「トルーマン大統領が止めなければ、米軍は原爆ができ次第、次々と落とした可能性がある」と指摘する。

 ◎上記事は[中日新聞]からの書き写し(=来栖) *強調(=太字)は来栖
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原爆3発目、急いでいた 長崎投下(1945/8/9)翌日の米軍公文書
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