『大往生したけりゃ医療とかかわるな』/食べないから死ぬのではない、「死に時」が来たから食べないのだ

2012-04-23 | Life 死と隣合わせ

大往生したけりゃ医療とかかわるな (幻冬舎新書) [新書]  [中村仁一,Business Media 誠]
 [Business Media 誠] 2012年02月22日 08時01分 UPDATE

中村仁一氏(なかむら・じんいち)のプロフィール
 1940年長野県生まれ。社会福祉法人老人ホーム「同和園」附属診療所所長、医師。京都大学医学部卒業。財団法人高雄病院院長、理事長を経て、2000年2月より現職。一方、「同治医学研究所」を設立、有料で「生き方相談」「健康相談」を行う。1985年10月より、京都仏教青年会(現・薄伽梵KYOTO)の協力のもとに、毎月「病院法話」を開催。医療と仏教連携の先駆けとなる。1996年4月より、市民グループ「自分の死を考える集い」を主宰。

(1):医者は病気のことなら何でも分かる――そう思っていませんか?
「ちょっと具合が悪くなると、すぐ医者にかかる」「医者にかかった以上、薬をもらわなければ気がすまない」などと思っていないだろうか。そこで医療に対して、自分がどのくらい思い込んでいるのか、チェックしてみよう。
 最初に、私の考える「医療の鉄則」を掲げます。
一、死にゆく自然の過程を邪魔しない
一、死にゆく人間に無用の苦痛を与えてはならない
 今、日本人の、医療に対する期待には凄(すご)いものがあります。
 最近、耳にした話によると、ある大学病院の集中治療室で亡くなった人の家族が怒鳴り込んで来たといいます。
 「大学病院だから大丈夫と信じて連れて来たのに、こともあろうに集中治療室で死なせるとはどういうこっちゃ」
 本当に困ったことです。
 次の設問は、私が主宰し、16年目に入った「自分の死を考える集い」(以後「集い」と略す)の参加者に、10年程前に行ったものです。15問中※いくつ○印がつくか、やってみてほしいと思います。
(編集部注:本記事では5問を掲載しております。)
治療に関する思い込み度テスト(信頼度テストともいう)
(1)ちょっと具合が悪くなると、すぐ医者にかかる
(2)薬を飲まないことには病気はよくならない
(3)病名がつかないと不安
(4)医者にかかった以上、薬をもらわないことには気がすまない
(5)医者は病気のことなら何でもわかる
 いくつ○がついたでしょうか。“奇人”“変人”の多い「集い」では、○印がゼロの参加者がかなりの数にのぼりました。流石(さすが)というべきでしょうか。
 少し説明を加えます。
(1)ちょっと具合が悪くなると、すぐ医者にかかる
 国民皆保険によりわずかな自己負担金で、手軽に医者にかかれる状況にあることや「素人判断で様子見していて、手遅れになったらどうするのか」という医療側の脅しが利いているせいで、ちょっと頭が痛いだけですぐCT検査を希望するような情勢が続いています。
 原因療法があるため受診した方がいい病気は、そんなに多くはありません。病気を治す力の中心をなすものは、本人の自然治癒力(後で詳述)です。
 したがって、薬は援助物資であり、医療者は援助者にすぎません。風邪など、原因の大部分がウイルスである場合は、安静、保温、栄養の下、発熱の助けを借りて自分で治すしかないのです。医者にかかったからといって早く治せるわけではありません。
 かつて、四半世紀以上も前にアメリカ合衆国の権威ある学術専門誌「ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン」の編集長、インゲルハイム氏が、「病気の80%は医者にかかる必要がない、かかった方がいいのが10%強、かかったために悪い結果になったのが10%弱」といいました。
 その後、これに対する反論がないところからみると、これは現在も変わらないものと思われます。
 だいたい、日本人は医者にかかりやすいとはいえ、あまりにホイホイと病院へ行きすぎるのです。元来、病院は「狭い」「臭い」「暗い」もの。最近は建て替えられて外観はきれいになり、かなり解決されました。しかし、依然として「汚い」「危ない」「恐ろしい」ところであることには変わりはありません。
 だから、軽い病気で病院に行って、重い病気をお土産にもらって帰る可能性は充分にあるのです。
 それゆえ、本来、病院は“いのちがけ”で行くところなのです。
(2)薬を飲まないことには病気はよくならない
 微熱がある、ちょっと鼻水や咳が出る、少しどこかが痛むなどの症状があれば、すぐに薬を飲もうとする人がいます。しかし、前述のように、薬は援助物資であり、力ずくで病気を追い払ってくれるわけではありません。
 それどころか、症状は早く治そうとする身体の反応、警戒サインですから、それを無闇に抑えるのは「自然治癒」を邪魔することになり、治るのが遅くなると考えた方がいいのです。
 ただ、よほどしんどければ、治りが遅れるのを覚悟のうえで、苦痛の軽減、症状の緩和のために、ごく短期間、薬を服用するのは止むを得ません。
(3)病名がつかないと不安
 この背景には、医学がこんなに発達したのだから、病名さえつけば必ず何とかなるはずという、近代の医療に対する重大な誤解、錯覚があります。「原因がわからなければ、どうしようもない」とよくいわれていることと、表裏をなしているものと思われます。
 感染症と異なり、難病、生活習慣病は、その原因が体質や素質(遺伝子に問題)、悪い生活習慣、老化など多岐にわたり、特定できません。したがって、除去、撃退不能のため、完治ということはないのです。
 それなのに、病名がついただけでほっとするのはおかしくありませんか。
(4)医者にかかった以上、薬をもらわないことには気がすまない
 これも前述の通り、病気を治す主役が薬であるという思い込みによるものです。
 元来、化学物質である薬は異物であり、身体にいいもの、必要なものではありません。あくまで、利益と不利益を天秤にかけて、利益が上回ると思える時のみ使用すべきものです。
 小さい頃からの薬物教育、健康教育の欠如が原因と思われます。
(5)医者は病気のことなら何でもわかる
 身体や病気のことはいろいろわかってきましたが、まだわからないことがたくさんあります。否、わからないことの方が多いといっていいのではないでしょうか。
 したがって、いくら勉強していてもわからないことが、いくらでもあるのです。
 しかし、患者を前にした臨床場面では、「わからない」といえばヤブ医者扱いされてしまうので、わかっているような顔をして理屈をこねることになります。
 だから、わからないことをわからないとはっきりといえる医者は、よほど勉強しているか、不勉強を棚に上げて臆面もなくわからないといえる鉄面皮な医者かのどちらかでしょう。
 ただ、実際問題として、患者に向かって「わからない」というにはよほどの勇気が必要です。それにもかかわらず口に出せる医者は、何がわかっていて何がわからないのかを心得ていると受け取り、信頼してもいいと思われます。

(2):大病院ほどいい医者が多い――そう思っていませんか?
大病院ほど信頼できる医者がたくさんいる?
 次の設問は、私が主宰し、16年目に入った「自分の死を考える集い」(以後「集い」と略す)の参加者に、10年程前に行ったものです。15問中※いくつ○印がつくか、やってみてほしいと思います。
(※編集部注:本記事では5問を掲載しております。(1)~(5)の設問をご覧になられる場合は、前回の記事をご確認ください。)
治療に関する思い込み度テスト(信頼度テストともいう)
(6)病気は注射を打った方が早くよくなる
(7)よく検査するのは熱心ないい医者だ
(8)医者にあれこれ質問するのは失礼だ
(9)医者はプロだから、自分に一番いい治療法を教えてくれるはず
(10)大病院ほど信頼できる医者がたくさんいる
 いくつ○がついたでしょうか。“奇人”“変人”の多い「集い」では、○印がゼロの参加者がかなりの数にのぼりました。流石(さすが)というべきでしょうか。
(6)病気は注射を打った方が早くよくなる
 胃や腸管は、厳密にいえば体内ではなく、体外です。飲み薬は吸収されて初めて体内に入ります。それも100%ではありません。他の飲み薬や食べもの・飲みものの影響で、さらに減少することもあります。
 それに比べると、たしかに、筋肉注射や血管注射は直ちに100%体内に入り、効果の現れ方も早い。しかし、病気を治す主役は、繰り返しますが薬ではありません。
 しかし、今も、風邪は注射一本で治ると思っている年寄りは結構たくさんいます。過去に、治りかけの時期に注射を打って治ったと勘違いした体験の持ち主なのでしょう。いくら説明しても、頑固に注射を要求し、結局時間の無駄になることが多い。困ったことです。
(7)よく検査するのは熱心ないい医者だ
 詳しい病歴の聴取と丁寧な身体診療の所見から、8割くらい診断がつくといわれます。そして、検査はその裏づけのためのものという位置づけです。
 しかし、これには昨今、数値や画像などの客観的な証拠が示されないと承知しないという患者側の事情や、後で見逃しといわれるのを防ぐ訴訟対策、収入増を図るという医療経営上の問題などが考えられます。
 患者側も、このあたりの事情はわかっているようで、「集い」でも生活習慣病で通院している年金生活者から、よく苦情を聞かされます。「異常がなかった」といいながら、なぜ、毎月、あるいは2カ月に一度も検査をするのか、あれは私の身体のことを考えてくれているのではなく、病・医院の経営のためではないのか、と。
 ただ、薬という身体にとっての異物を長期間服用する以上、安全面から副作用の早期チェックという面もあります。このことが定期検査の意味に含まれていることも、忘れてはいけないと付言しています。
 しかし、限りある医療資源という観点からも、やはり納得してもらえる説明ができない検査はすべきでないでしょう。
 それに、精密検査をすれば、たしかに詳しくはわかるでしょうが、その結果を踏まえて好転させる手立てがあるかどうかが重要なのです。わかりさえすれば何とかなるはずと誤解している向きの、何と多いことでしょうか。中には、辛い、苦しい、恥ずかしい検査もあります。なのに、ただわかっただけというのでは、何のために耐え忍んだのかわかりません。
 今後は、患者側も、結果に対して好転のすべがあるかどうか確かめたうえで、精密検査を考えるべきでしょう。
(8)医者にあれこれ質問するのは失礼だ
 自分の身体のこと、病気のことなので、充分に納得いくまで聞いた方がいいと思います。嫌な顔をしたり、自分を信用できないのかなどと怒鳴りつけるようなら、即刻、医者替えをお勧めします。
 特に、むずかしい病気、耳にしたこともない病気などの場合、別に時間をとってもらい、家族や友人に同席を頼み、許可をもらって録音したり、イラストを使っての説明を求めればいいと思います。これらの要求を拒否されたら、これまた、医者替えの対象となるでしょう。
 なぜなら、悪い結果が出た場合、被害を蒙るのは医者ではなく、患者自身だからです。?想定外?のことが起こって、「信頼して任せたのに」と臍を噛んでも、医者は痛くも痒くもない。それは、患者の勝手な思い込みの結果にすぎないのです。
(9)医者はプロだから、自分に一番いい治療法を教えてくれるはず
 たしかに、プロとして自分が最善と信じる治療法を勧めるでしょう。しかし、現在、治療法が一つとは限らなくなっています。
 例えば、がんの場合、手術療法、放射線療法、化学療法とありますが、外科医なら、切りたいから外科医をやっているわけでしょうから、当然、最善として手術を勧めるはず。肉屋の大将が肉を買いに来た客に向かって「この季節、魚もおいしいですよ」とはいわないでしょう。同様に、「放射線治療もいいかもしれない」などとは口にしないと思われます。紹介状を書いてもらい、放射線科医の意見も聞き、それぞれの長所、短所をはっきりさせる必要があります。さらに、できれば、他の放射線科医や外科医の考えも聞いた方がいいでしょう。
 なぜなら、一度切り取られたり、放射線で大ヤケドを負わされた臓器は、二度と元の姿には戻らないからです。最終決断は、慎重のうえにも慎重を期した方がいいと思います。
 ただ、この時、同じ大学の医局出身者は避けるように。なぜなら、世話になった先輩の考えに異を唱える後輩というのは考えにくいですから。
 例えば、玄関の扉の鍵が壊れた場合、鍵だけを取り替えてほしいとしましょう。それに対して、古くなっているので扉ごと替えなくてはいけない、あるいは玄関ごとつくり替えなくてはダメだといわれるかもしれません。そんな時、ふつう、プロだからといってセールスマンのいいなりにはならないはずです。ましてや、自分のいのちがかかっている時に、他人任せにするなど、もっての外というべきではないでしょうか。
 医療は、本来、針を突き立てたり、切ったりはつったりする傷害行為や、撫でたり揉んだり、妙なところへ指を突っ込んだりする強制ワイセツ行為を伴うものです。それが許される(違法性の阻却)のは、目的が診断、治療にあり、患者が理解し、納得し、同意しているからです。だから、苦しさも辛さも恥ずかしさも耐えられるのです。目的がはずれ、“趣味”にあったりすれば、いくら医師免許があっても、手が後ろに回ることになるでしょう。
 人はそれぞれ生き方が違い、価値観が異なります。したがって、よく内容を理解し納得したうえで、自分の生き方に照らして選択すればいいのです。医療者の考える最善と患者のそれとが喰い違うのは、当然ありうるでしょう。万一、後遺症が出た場合、それを抱えて生きるのは患者なのですから。
 したがって、医療者は自分の考えを押しつけて脅すのではなく、それが次善と思われても、患者の希望の範囲内での最善をプロとして尽くせばいいことになるはずです。
(10)大病院ほど信頼できる医者がたくさんいる
 何をもって信頼できるというのか根拠が不明、ほとんど思い込みでしかありません。あえて信頼の根拠を尋ねてみると、親切だからとか、肩書きや出身大学が信用できるとか、テレビに出演し、その道の専門家と紹介されていたなど、臨床の腕とは何の関係もないことがほとんど。本当は、どこで、どのくらいの期間、どんな内容の修練を積んだかが必要なのですが、そのような情報はほとんどありません。

(3):マスコミに登場する医者は名医――そう思っていませんか?
外科の教授は手術がうまい
 次の設問は、私が主宰し、16年目に入った「自分の死を考える集い」(以後「集い」と略す)の参加者に、10年程前に行ったものです。15問中※いくつ○印がつくか、やってみてほしいと思います。
(※編集部注:本原稿では5問を掲載しております。(1)~(10)の設問をご覧になられる場合は、前回・前々回の記事をご確認ください。)
治療に関する思い込み度テスト(信頼度テストともいう)
(11)入院するなら大病院、大学病院の方が安心できる
(12)外科の教授は手術がうまい
(13)マスコミに登場する医者は名医だ
(14)医学博士は腕がいい
(15)リハビリはすればするほど効果が出る
 いくつ○がついたでしょうか。“奇人”“変人”の多い「集い」では、○印がゼロの参加者がかなりの数にのぼりました。流石(さすが)というべきでしょうか。
(11)入院するなら大病院、大学病院の方が安心できる
 今、医療過誤が表沙汰になっているのは、大学病院に多い。今まで安心と思い込んでいたのが、実態はそうでもないのが明らかになった形です。ただ露見したのが多いだけで、他の病院は安心なのかというと、そういうことでもありません。
 人間だから当然ミスはありうるという前提で、ヒヤリとした事例、ハッとした事例を現場から報告させ、それに対してどういう手立てを講じたかを公表する病院が現れました。
 そんなにヒヤリとしたり、ハッとしたりすることの多い病院はかなわないと考えるか、それを評価するか、判断するのは患者です。
(12)外科の教授は手術がうまい
 時々、年寄りの患者の中には、手術の痕を見せながら、○○大学の△△教授に切ってもらったと自慢する人がいます。教授の選考基準に手術の上手、下手は入ってはいません。多くは研究論文の数と内容で審査をパスした研究科教授です。もちろん、手術の上手な教授もおられるでしょうが、それは個人の資質であって、教授だからではありません。昔は、一度も切った経験のない教授もいたとか。今でも「天皇杯争奪、全日本メスさばきコンテスト」などという催しは聞きません。
(13)マスコミに登場する医者は名医だ
 名医とは何ぞや。事件を起こしたり、ベストセラー本を書いたり、テレビ出演が多く名前の売れている有名な医者というのならわかります。世渡りに長けているということは首肯できますが、先にも述べたように、現在の日本に、その腕の程を保証する客観的情報はないのです。このような状況下で『日本の名医百人』などという本が売れているようです。定義や基準もないのに、誰がどのように選んだものか、ただただ頭が下がります。
(14)医学博士は腕がいい
 医学博士は、前述のごとく、腕と全く関係のない学問的業績に対して、学位を授与されたものです。かつて、医者を辞めてジャーナリストに転身した永井明さん(故人)という人がいます。彼はその著書『ぼくが医者をやめた理由』の中で、「感染ストレス時におけるラットの血中脂質濃度の変化」というタイトルで博士号を授与されましたが、「これは外科医として何の役にも立たなかった」と述べておられます。宜なるかなといえましょう。
 私自身持っていないから僻んでいうわけではありませんが、博士号は昔から「足の裏についた飯粒」といわれています。その意は「取らないと気持ちが悪いが、取っても食えない」。特に、石を投げれば医学博士にあたるといわれるぐらい、この業界には多いのです。
(15)リハビリはすればするほど効果が出る
 どんな状態でも、リハビリを徹底的にやれば、元の状態に戻れると勘違いしている向きが多いようです。
 しかし、どの程度まで回復するかは、おそらく、発症時点でその天(一番いい状態)が決まっていると思われます。つまり、よくなるものしかよくならないというわけです。だが、頑張ったおかげで、こんなに回復したという話がよくテレビなどでとり上げられます。
 あれは、よくなるものが、頑張ってよくなっただけと考えた方がいいと思います。もちろん、頑張ったことは評価できます。けれども、頑張ったせいで、よくならないものまでがよくなったわけではないのです。さもないと、よくならないのは、本人の努力が足りないせいと決めつけられかねません。
 ふつうは、いくら熱心に励んでも、3カ月から6カ月ぐらいで状態は固定してしまうもの。そのレベルを低下させないように心がけることは大切ですが、もっともっとと頑張り続けると、貴重な残りの時間が?訓練人生?になってしまいます。
 例えば、手足がもげた場合、誰ももう一度生えてくるとは思わないでしょうから諦めもつきます。だが、麻痺した手足は、もう一度動かせるようになるのではないかとの思いから、5年も10年も費やして、一所懸命にリハビリをしている人がいます。その人生を空費している姿は気の毒という外はありません。
 リハビリテーションは、リ(再び)ハビリス(人間にふさわしい)エーション(状態にすること)の合成語で、人間が人間にとってふさわしくない状態に置かれた時、再びそれにふさわしい状態に戻すことを指し、必ずしも、病前の姿への復帰を意味するわけではありません。ましてや、手足の機能訓練などという、狭い考えでは決してないのです。
 中国では、再建医学というそうで、残存機能や潜在機能をフル活用し、補助具や車椅子を使ったり、手すりをつけたり、段差をなくしたりして、病前の姿にこだわらず、病気や障害によって失われた生活を、もう一度建て直すことと定義づけられているようです。流石、漢字の国、「再建医学」とはいい得て妙です。

(4):「あなたは確実にこうなる」と言う医者は“ハッタリ屋”
 今の日本人は、医療に対して期待を抱きすぎています。幻想に近いといってもいいでしょう。この原因は何かと考えてみれば、やはり新聞、テレビといったマスコミの影響が大きいと思われます。
 「世界で初めての成功」(1000回目でやっと成功とはいわない)「これで治った」などと報道されると、医学の発達はすごい、これで安心、病気はすべて治ると思ってしまいます。
 しかし、マスコミがとり上げるのは、どんな場合か考えてみてほしいのです。ふつうで、一般的で、何の変哲もないことなど、とり上げるに値しません。特別なこと、珍しいこと、突出したことだから、記事にするのです。
 よくいわれるように、犬が人を噛んでもニュースにはならない。人が犬を噛んで、初めてとり上げる価値が出るということです。
 時には、「これは、今度開催される○○学会で発表される予定である」などというのもあります。スクープか、持ちつ持たれつのなれ合いかは知りませんが、学会という専門家集団から批判、評価を受ける前に、記事にさせているわけです。
 そして、その後学会でどのような議論がなされたかの報道は、いっさいありません。結局、やった者勝ちという状況になっています。
 それやこれやで、高度医療とか最先端医療とか再生医療が強調されるため、どんな病気でも何とかなるという錯覚に陥る情勢が続いています。
 しかし、人間も生きものである以上、「老いて死ぬ」という大枠は、とり外しようがありません。
 つまり、年老いたものを若返らせることも、死ぬことを止めることも不可能という「限界」があるのです。これが、医療技術は所詮「ハーフウェイ・テクノロジー」(中間技術)といわれるゆえんです。
 そして医療には、もう一つ、やってみないと結果がどう出るかわからないという「不確実性」もあります。だから、医療には「絶対こうなる」「100%確実」はありえないということです。
 また、最近よく耳にする言葉に「エビデンス」(科学的根拠)があります。日本人は「科学的」という言葉に弱いので、科学的などといわれると、疑問の余地のないものに思ってしまいます。
 行った場合と行わなかった場合、例えば、検診を受けた人と受けなかった人、薬を服用した人と服用しなかった人というように、これを集団で比較した場合に統計学的に意味のある差があった、つまり有効だったということです。有効グループの全員に効いたのではなく、効かなかった人もいます。ただ集団で比較すると効ありといえるだけで、特定の個人、あなたにも有効といっているわけではありません。あなたの場合は、あくまで試してもらわないとわからないのです。
 もし「あなたは確実にこうなる」と断言するような医者がいたら、とんでもない嘘つきか、喰えないハッタリ屋といっていいと思います。「アンタ、地獄に落ちるわよ」と明言できる細木数子さんはエライ。医者には、絶対あの言葉は吐けません。
 さらに、現在は治療法も「松」「竹」「梅」といろいろあり、それぞれ一長一短があるのです。本当に発達したというなら、治療法は一つあれば充分のはず。それが、いく通りも存在するというのは、裏を返せば、決定打に欠けるということでしょう。
■本人に治せないものを、他人である医者に治せるはずがない
 病気やケガを治す力の中心をなすものは、本人の「自然治癒力」です。だから、少々のケガや病気は、医者にかからなくても薬を飲まずに放っておいても治ります。
 本来、医療は、本人の身体の反応する力を利用するものです。したがって、最後の場面において、血圧が下がってきたので上げようと、いくら昇圧剤を使っても、血圧が上昇しなくなる。これは、本人の身体が薬に反応しなくなったためです。
 つまり「病気やケガ」は、医者や薬が、力ずくで治せるものではないということです。極論すれば、本人に治せないものを、他人である医者に治せるはずがないということになります。医療者は脇役で、お手伝いするお助けマン、薬はお助け物資、器械はお助けマシーンというわけです。
 インフルエンザ流行時に、肺炎の併発に備えて、人工呼吸器が必要と強調されました。
 しかし、人工呼吸器が肺炎を治してくれるわけではありません。呼吸機能が悪くなったので、代わりに器械が補ってくれる。その間に、本人が肺炎を治して呼吸機能を回復させれば、人工呼吸器は不要になって助かります。本人に、その力が失せていれば死ぬ、というわけです。
 人工透析でも同様です。急性のものなら一時的ですむかもしれませんが、慢性のものなら、ずっと続けなければなりません。それが、あの器械が治すのではないことの証明です。
 では、なぜ医療が発達したといわれるのでしょうか。
 それは、昔なら、ちょっとでも臓器の具合が悪くなると手の打ちようがなかったのが、今は、臓器の機能がかなり低下しても、下支えができるということです。
 その結果、以前なら死んでいたものが、死ぬでもなく助かるでもなく、ただズルズルと生かされている事態が起きることにもつながっているのです。
 時々「病気を治せねェ医者はプロじゃねェ。俺なんざァ、何かをなおせなかったらお代は頂かねェよ」などと、江戸っ子気質の職人さんのような啖呵を切る患者にお目にかかります。
 しかし、医療に請け負いはないのです。

(5):ワクチンを打っても、インフルエンザにはかかる
 病気の予防にはワクチン、といわれます。前述のことを踏まえて、そのワクチンについて考えてみましょう。 2009年に“新型インフルエンザ”が流行しました。ところが、希望者全員にワクチンがいき渡らないと考えられたため、優先順位による予防接種が行われました。ワクチンを打っておけばインフルエンザにかからないと思っている人も多く、一部ではパニックも起きました。
 全国紙、地方紙を問わず、紙面一ページを使った「新型インフルエンザワクチン接種について」という政府広報があります。これによれば「ワクチン接種の効果」について、「重症化や死亡の防止には一定の効果が期待されます。ただし、感染を防ぐ効果は証明されておらず、接種したからといって、感染しないわけではありません」とあります。
 つまり、ワクチンを打ってもインフルエンザにはかかり、他人にもうつすということです。したがって受験生に予防のために打っておこうと勧めるのは、笑止という外はありません。本当に受験に備えるには、早めに天然ものにかかっておくことでしょう。
 実際に老人ホームでは、予防接種をしていたにもかかわらず、死者の出たところもあるのです。しかし、そのことに関しては、マスコミは何のコメントもしていません。結局、死亡の防止といっても、ワクチンの直接作用ではなく、予防接種した人の身体が、どれだけワクチンに反応して、抗体という抵抗勢力をつくれるかということに尽きます。
 一般的には、年をとればとるほど、また、重い持病があったり、免疫を抑えるなどの特殊な薬を飲んでいたりするほど、この反応する力は弱くなると考えられます。
 したがって、本当に、死亡や重症化の予防ができるのか、あやしくなってきます。
 また、なぜ予防はできないのかといえば、インフルエンザウイルスの進入門戸は、鼻やのどの粘膜だからです。ワクチンを打っても抗体ができるのは、血中であって、これらの粘膜ではありません。予防というのは、いわば、門の外で撃退する場合を指し、門を入って玄関を上がって座敷で初めて闘うような事態ではありません。
 さらには、現在の日本のワクチンは、インフルエンザの粒子全体を使うのではなく(全粒子を使うと副作用が強い)、2つある突起の一つ(HA)を切り離して抗原として使っています。このため、本物がやって来た時に、撃退できるのかという疑問もあります。
 以上のことから、ワクチンの接種は意味がないと思いながらも、世間の少数派のせいもあり、私自身は立場上、老人ホームに移ってからは、毎年接種し続けてきました。
 しかし、厚生労働省が政府広報で「打ってもかかる」と認めたので、大手を振ってやめることにしました。医療従事者優先でワクチンが回ってきましたが、当然打たず、他へ回しました。
 また、同広報には「ワクチン接種は、多くの方に重症化予防というメリットをもたらしますが、接種後、腫れたり、発熱の症状が出たり、まれに重篤な症状を引き起こす可能性もあります。この点をご理解のうえ、個人のご判断により接種を受けていただくようお願いします」ともあります。
 このシーズン中、インフルエンザで死んだ人が204人なのに対し、予防接種後に死んだ人が133人もいます(日本医師会雑誌、2010年12月号)。このうち、121人は60歳以上なので、持病(基礎疾患)を悪化させた可能性もあるのではないかと思われます。
 しかし、そのほとんどは、因果関係なしで片づけられています。この死亡者133人は、接種推定人口、2280万人強の0.0006%にあたるそうです。
 医療は、「不確実」なものであり、「100%の安全はない」との立場からすれば、問題にはならない割合かもしれません。
 しかし、個人にとっては、あたれば100%です。しかも、やってみないとわからない、予想できない状況下で、個人の判断で受けろといわれても困るのです。
 2011年、細菌性髄膜炎を予防する小児肺炎球菌ワクチン(ヘモフィルスインフルエンザ菌b型)を同時接種した乳幼児7人が、相次いで死亡しました。これは、ワクチン後進国の汚名返上ということで、鳴物入りで公費負担で導入されたものでした。
 そして、一時接種が見合わせられましたが、結局、因果関係が認められないとして再開されました。国内での死亡は、10万回接種で、0.1~0.2人、つまり、100万回接種で1人から2人ということです。
 しかし、国内で細菌性髄膜炎により実際亡くなった0~4歳の子は、2007年から2009年の3年間で、年平均11.7人といいます(「薬のチェックは命のチェック」第42巻)。
 実際に、髄膜炎で命を落とした子が11人強、ワクチン接種後に亡くなった子が7人、マスコミで全く報道してくれませんが、これをどう解釈したらいいのでしょう。前述のインフルエンザワクチンでも、インフルエンザによる死者が204人、接種後のそれが133人、しかし接種者の割合からすれば0.0006%、全体から見るとやるべしということになりますか。
 多分、細菌性髄膜炎で子どもを亡くした親は、予防接種をしてさえいればと思うでしょうし、予防接種後に子どもを亡くした親は、注射などするんではなかったと悔やんでいることでしょう。
 親としては「本当に安全なのか」と不安は拭えませんが、もともと、「不確実」でやってみないとわからないのが医療です。確率的には極めて安全といえますが、亡くなるケースがあるわけですから、“一種の賭け”になるとしかいいようがありません。

(6):解熱剤で熱を下げれば、治りは早くなるの?
■解熱剤で熱を下げると、治りは遅れる
 私の好きな学説に、「治療の根本は、自然治癒力を助長し、強化することにある」という「治療の四原則」があります。
一、自然治癒の過程を妨げぬこと
二、自然治癒を妨げているものを除くこと
三、自然治癒力が衰えている時は、それを賦活すること
四、自然治癒力が過剰である時には、それを適度に弱めること
 私はこれを自ら実行し、確認してきたため、これまで一度も解熱剤や鎮痛剤などの類を使ったためしがありません。
 もっとも、痛みといっても、頭痛、歯痛、腰痛などで胃や腸に穴が開くとか胆石発作などの内臓痛に見舞われなかったという幸運もあります。
 また、検査のため、血管に針を突き立てられて血を抜かれることはありましたが、点滴注射などで薬という異物を体内に注入された経験も、一度もありません。
 「治療の四原則」について順にお話ししていきます。
一、自然治癒の過程を妨げぬこと
 例えば、発熱を考えてみましょう。
 ふつう熱が出ると、これは大変だと目の敵にして下げようとします。また、高熱だと頭がおかしくなるのではないかと考えて大騒ぎします。
しかし、熱の高さと重症とは関係ありませんし、頭がおかしくなることもありません。高い熱が出た場合、頭のおかしくなる脳炎や脳膜炎が混じっていることもあるというにすぎません。
 細菌やウイルスの感染時の発熱は、敵の力を弱めて早く治そうとする人体の反応と考えるべきものです。ですから、解熱剤を使って無闇に熱を下げるのは利敵行為になり、かえって治りが遅れると考えなくてはいけません。
 しんどいのは熱のせいではなく、熱の出る原因のせいなのです。熱は原因ではなく結果です。熱を下げても、原因がなくなるわけではありません。熱でしんどいといっても、細菌やウイルスの方がもっとしんどいはずです。
 ただし、熱に弱い性質の人もいます。熱を下げてやれば食欲も出るという人は、治りが多少遅くなるのを覚悟のうえで、解熱剤を使うのも止むを得ないでしょう。
 前述のように、発熱は身体の反応であり、必ずしも重症の証ではありません。それよりも微熱過程でも、否、平熱であっても食欲がなく、ぐったりして、普段と違って絶えずうとうとしているようなら、かなり重症と考えなくてはいけません。
 ある年寄りは、老人ホームへ移って間なしに微熱で、少し咳もしているぐらいの症状でした。軽く風邪と考えていたら、いきなり意識障害が出て、病院へ連れて行ったらひどい肺炎といわれた苦い経験が私にはあります。
 年寄りは若者と異なり、局所の症状が乏しいのです。それ以来、ぐったりしている、生気が失せている、傾眠がちなどは、重要な注意信号として、気をつけるようにしています。
 また鼻汁や咳、嘔吐、下痢なども同様で、治癒に向けての身体の正常な反応と考えるべきかと思います。つまり、鼻汁は、ウイルスや細菌、花粉などの体外異物、体内に生じた炎症産物を体外へ洗い流す働きをし、咳も体外異物や炎症産物である痰を排出し、気道を浄化する作用をし、また、嘔吐や下痢は、体内に入った悪いものを早く体外へ出してしまおうとする働きと考えていいと思います。
 これは原因ではなく結果ですから、止めようとするのはよくないわけです。また、止められるものでもありません。ただ、あまりに頻繁な嘔吐や下痢は、二次的に脱水を生じますので、水分補給に気をつけなくてはなりません。
 痛みも、がんや耐え難い内臓の痛みでなければ、これを鎮めようと思ってはいけません。特に、手足や腰などを動かす時の痛みは、動かしてくれるなという身体の悲鳴、警告のサインですから、それに従うべきです。例えば先の尖ったものに手を触れると、痛いから手をひっ込めるでしょう。ところが、手先を麻酔していたらどうでしょう。痛みを感じないので大ケガをしてしまいます。このように、痛みは身を守るために、とても必要なサインなのです。
 犬猫をみてください。痛かったら、じっとうずくまって動きません。万物の霊長といわれる人間が鎮痛剤を使って無理に動かすなど、まさに犬猫にも劣る所業と申せましょう。
 また、ケガをして傷をつくると、ジクジクした汁が出ます。以前は消毒して、その汁をガーゼで吸い取るのが治療の主流でした。しかし、今は、あの汁の中に傷を治すための有効成分が含まれていることがわかり、そして消毒も組織を痛めることが判明し、洗滌に変わりました。つまり、消毒しない、乾かさないで湿ったままにしておく湿潤療法が、自然の理に適っているといわれるようになりました。
 以前、私が勤めている老人ホームの同和園でもぼけた年寄りが転倒し、股の関節の骨を折り、病院に入院しました。その折、足首におもりをつけて長期間牽引したところ、アキレス腱の上部の皮膚がえぐれ、皮膚移植をしなければならないといわれ、退院してきました。ひどい状態にもかかわらず、家族はもう二度と病院へは行きたくないと申します。
 そこで、サランラップを巻くラップ療法を試みました。すると、汁が大量に出るようになり、健常な皮膚がただれますので、ラップに穴を開け、余分な汁をおむつで吸い取るようにしました。そうすると、完治まで5カ月ほどかかりましたが、皮膚移植とまでいわれた深い傷がいっさい薬などを使わず、元通りになりました。
 人間には、自前で治すしくみがちゃんと備わっていることを実感させてもらった、貴重な体験でした。私たちの仕事は、そのしくみを上手に引き出し、利用するお手伝いをすることだということをつくづく感じさせられました。
二、自然治癒を妨げているものを除くこと
 これは、銃弾や棘のような異物が内部に深く入り込んだり、大きな膿の塊があって、なかなか破れない場合などです。こんな場合、自然治癒力を充分に発揮させるためには、異物の除去や、切開して排膿するという作業が必要ということです。
三、自然治癒力が衰えている時は、それを賦活すること
 栄養不良状態で結核を発病した場合など、いくら高価な抗結核薬を使ってもよくなりません。自然治癒力が発動するためには、まず栄養状態の改善が必要ということです。
四、自然治癒力が過剰である時には、それを適度に弱めること
 アレルギー反応など、生体の治癒力が過剰に働く場合には、その力を少し抑えた方がいいという意味です。

(7):鼻水や咳を薬で抑えるのは誤り
■鼻汁や咳を薬で抑えるのは誤り
 ここまで述べてきたように、病気やケガを治すのは、もともと本人に備わっている回復力と体内環境を一定に保とうとする恒常性(ホメオスターシス)です。
 そして、それを側面から援助する方法を治療といいます。それらについて以下の3つに分けて考えてみたいと思います。
(1)原因療法
 細菌感染に対する抗生剤のように、その原因に対して直接働きかけをする治療法です。しかし、繰り返しますが、あくまで脇役であって、薬が細菌を力ずくで捻じ伏せるのではなく、主役は、主人に本来備わっている、外敵をやっつける免疫というしくみです。
 ですから、栄養不足で免疫の力が充分に発揮できなかったり、免疫の力を抑えたり、弱めたりする薬(免疫抑制剤)を服用していたり、加齢でこの力が弱っていたりすると、回復が遅れたり、回復せずに命を落としたりするわけです。
 肺炎は、抗生剤という強力な助っ人の出現により、若い人が死ぬことがなくなりましたが、年寄りに依然として多いのは、主役の免疫の力が落ちているということです。もし、薬が主役なら、年寄りも死ぬことはないはずです。
 また、噴き出している血を止めるのも、原因療法といっていいと思います。
(2)補充療法
 本来なくてはならないものが不足しているため、これを補うということです。
 例えば、糖尿病に対するインスリンというホルモン、甲状腺摘出手術後の甲状腺ホルモンなどをいいます。
 更年期にいろいろな症状が出て辛い場合、女性ホルモンを補って症状を軽くし、だんだん減らして軟着陸を図るのをホルモン補充療法と呼びますが、それは少し意味合いが異なります。
 なぜなら、更年期になって女性ホルモンが減少するのは、自然の姿です。これらに逆らうわけですから、不自然であることには間違いありません。ただ、人によっては症状が強く、日常生活に障りが出る場合もあります。苦痛を軽減するというのも、医療の役割の一つです。そのため、減っている女性ホルモンを補って楽にし、漸減しながらソフトランディングを図ろうというものです。
 したがって、自然に反したことをしているわけですから、いつまでもダラダラと続けるのがよくないことは、いうまでもないでしょう。ですから、これに反すると、乳がんや子宮がんなどのがんや、静脈内に血の塊(血栓)をつくるような副作用が出ることにもなります。ゆえに、これは補充療法というより、次に述べる対症療法に入れた方がいいと思われます。
(3)対症療法
 読んで字のごとく、症状に対するもので、治療法としては、これが圧倒的に多いわけです。症状を和らげたり、苦痛を緩和したりすることで、間接的に治癒に影響を与えようということです。つまり、症状や苦痛のため安静に保てなかったり、食欲が極端に減退すれば、それだけ自然治癒力に影響が出るわけですから、それを防ぐ意味で、消極的治癒促進になるというわけです。
 したがって、食欲も落ちず、苦痛も辛抱できる範囲で、安静もそれほど妨げられないなら、全く不要です。
 前述したように、症状は、早く治そう、元の状態に戻そうという身体の反応ですから、これを抑えるのは治癒を遅らせることになります。
 ゆえに、対症療法は、この利益、不利益を天秤にかけて、どうするかを考えなくてはいけません。鼻汁や咳、少しムカムカするなどのほんの些細な症状にもかかわらず、これらを抑えようとするのは、明らかに誤りといえるでしょう。
 私は、これまでどんなに具合が悪くても、食べることを欠かしたことはありません。それは、食べものが治す源、“薬”だと思っているからです。食欲がないから欲しくないとか、砂を噛むようで味がないからいらない、とはいいません。とにかく、流し込む、後はオートマチックになっていて吸収されるわけですから。もっとも、よほど体調の悪い時は、流し込んだ後、吐きそうになります。ですが、そろっと布団にもぐり込んで30分程度身動きしないでいると治まります。食べものは“薬”だと思っていますから、薬にうまいまずいはないはずです。
 また、胆石や尿管結石の除去手術も、この範疇に入れていいと思われます。一見、痛みの原因となっている石を取り除くので、原因療法風ですが、石のできる原因まで除去しているわけではないので、対症療法の変形と考えていいのではないかと思います。
 さらに、高血圧や血糖のコントロール(高血圧や糖尿病の治療)も、将来、余病の発生の防止ですから、ここに入ると思われます。
(連載「大往生したけりゃ医療とかかわるな」終わり。続きは続きは書籍でお楽しみください)
======================================
〈来栖の独白2012-04-23 〉
 この本を注文したのは、20日だったかの日本経済新聞の広告による。痛快で、涙しながら♪広告を読んだ。ベストセラーで、40万部突破しているという。
 特に心動かされたのは、上(↑ Business Media 誠)での紹介以降の内容だ。

第1章
・介護の“拷問”を受けないと、死なせてもらえない
第2章 「できるだけの手を尽くす」は「できる限り苦しめる」
・「お前なんか、そうやすやすと死ねんからな」
・極限状態では痛みを感じない
・食べないから死ぬのではない、「死に時」が来たから食べないのだ
第3章 がんは完全放置すれば痛まない
・死ぬのはがんに限る
・「早期発見の不幸」「手遅れの幸せ」
・「がん」で死ぬんじゃないよ、「がんの治療」で死ぬんだよ
・手遅れのがんでも苦痛なしに死ねる
・がんにも“老衰死”コースあり
第5章
・生きものは繁殖を終えれば死ぬ
・年寄りはどこか具合が悪いのが正常
・人は生きてきたように死ぬ
========================
お棺に入らないから骨をポキポキッ 延命治療の悲しき結末/医師が「不作為の殺人」を避けるための「平穏死」 2012-12-31 
近年、人工呼吸器とともに議論の俎上に上がっているのが、「胃ろう」 2012-04-23
「胃瘻は一種の拷問 人間かと思うような悲惨な姿になる」中村仁一著『大往生したけりゃ医療とかかわるな』 2012-05-10
------------------------------


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。